伏見城・秀吉の築いた知られざる日本の中心地

模擬伏見城 大天守

 

 

京都市伏見区にある伏見城は豊臣秀吉隠居の城。
歴史の教科書で”安土桃山時代”を習った人も多いと思いますが、
”桃山”の由来となった場所でもあるのです。

今は伏見城の建物は残っていませんが。
その面影をしることはできます。

 

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伏見城は三つあった

 

一口に伏見城と言っても、実は三つあるのです。

指月伏見城、木幡伏見城、徳川時代の伏見城

 

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指月伏見城(指月城)

天正19年(1591年)、豊臣秀吉は関白の座を豊臣秀次にゆずりました。
秀次は関白となり聚楽第の主となります。
秀吉は伏見に隠居の場所として屋敷を作りました。

宇治川に近い伏見の地は当時は小椋池という湖がありました。
月の名所としても知られていました。現在でも”観月・かんげつ”という名前が残っています。
当時は”指月・しづき”と呼ばれていたこの地を
秀吉も気に入ったようです。

最初、指月に作られたのは城ではなく屋敷でした。
隠居のための場所だったのです。

でも、拾(豊臣秀頼)の誕生が秀吉の考えを変えてます。
朝鮮出兵(文禄の役)の和平のため、明の使節を向かえることになり。
秀吉の権力を見せ付けるため、豪華な城を作る必要があったとも言われます。

伏見の屋敷は大改修により城となりました。
指月城(しづきじょう)あるいは指月伏見城と呼ばれます。
それとともに伏見の地は城下町として整備されていきました。
全国から大名が集まり、大名屋敷が立ち並びました。
現在の地名にも残っています。

大名屋敷跡を示す地名

 

現在の伏見中心部の街はこのころ原型ができました。

しかし文禄5年(1596年)、地震によって指月城は倒壊します。
この自身は後に「慶長伏見地震」と呼ばれる大地震でした。
城にいた500~600名が死亡したというど凄まじいものでしたが、秀吉は助かりました。

歴史研究者の間では長い間、指月城は存在しない、完成していない、あったけど場所がわからない。など。
さまざまな説がとびかう幻の城でした。
2015年、伏見区桃山町のマンション建設現場から、金箔の付いた瓦や堀のあとが発見されました。聚楽第とよく似たつくりで指月城の存在が証明されました。

 

 

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木幡山伏見城

 

指月伏見城倒壊の後、作られたのが木幡山伏見城(こわたやまふしみじょう)です。
指月から北東へ約1kmの木幡山に作られました。

木幡山に造られたので研究者の間では木幡伏見城と呼ばれていますが。
一般には伏見城と呼ばれていたようです。

指月城倒壊の2日後には工事が始まり、三ヵ月後には本丸が始まるという超ハイスピードな建設でした。

こんなに短時間で出来たのは、指月城の資材をリサイクルしたせいだといわれています。廃城となった淀城からも資材が運び込まれたようです。実際には指月城が倒壊する前から移転計画は進んでいたおり、基礎工事は終わっていたようです。

指月城は平地のため防御では不安があったのかもしれません。
防御力の高い山城の建設を考えていたのでしょう。
木幡山からは聚楽第のある洛中、大坂城のある大坂方面どちらも見渡せる絶好の場所だったのです。

秀吉は伏見城と大坂城を行き来していましたが、多くの時間を伏見城で過ごしました。
天下人として仕事の場が伏見城。
豊臣家の家族のための城が大坂城なのです。

慶長2年には天守閣が完成。秀頼も移って来ました。
しかし、慶長3年秀吉が亡くなります。
秀吉が木幡山伏見城にいたのはわずか4年でした。

その後は秀頼は大坂城に移り、徳川家康が入ります。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの直前に行われた伏見城の戦いで失われます。

 

伏見城の天守閣があったのは現在の明治天皇陵のあるあたり。
現在は宮内庁の管轄です。外から見ることは出来ますが中に入る事は出来ません。

明治天皇陵

 

 

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徳川時代の伏見城

 

慶長6年(1601年)、徳川家康は伏見城を再建します。
秀吉の作った城でしたが、家康も必要な城と考えていました。

幕府を開いた後も、家康は江戸城よりも伏見城でいる期間が長かったといいます。
その後も三代将軍・家光の時代まで使われました。

しかし、一国一城令によって二条城を残すことになったため。伏見城は廃棄されました。
(山城国には他には淀城がありますが、徳川家の城としては二条城だけ)
天守閣は二条城に移され、その他の資材も福山城、淀城など各地の城で使われています。

御香宮神社には伏見城の石垣に使われた石が現在も残されています。

伏見城石垣の石

 

廃城後、跡地には桃の木が植えられました。
そのため、この地を”桃山”と呼びます。

 

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現在の伏見城跡

 

木幡山には現在も伏見城の天守閣らしきものがあります。
これは「伏見桃山城キャッスルランド」という遊園地の施設として作られた施設です。

模擬伏見城 大手門

かつての伏見城花畑跡にキャッスルランドはあります。

でも、洛中洛外図に描かれた伏見城を忠実に再現しています。
遊園地が閉園した後も、区民の希望により模擬天主は残されこの地のシンボルとなっています。

模擬伏見城 小天主

 

現在は公園として整備されてます。
模擬天主には入れませんが、敷地内は自由に出入りできます。

桜や梅などが植えられており、区民には行楽の場として親しまれています。

 

 

 

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