瀬戸方久は井伊家を支えていた豪商

丸に橘

瀬戸方久は井伊直虎の時代に井伊谷で勢力を伸ばしていた商人でした。

井伊家にとっては金を貸してくれる大事な商人でした。しかし土地や家臣の座を要求するなど一筋縄でいく人物ではありませんでした。それでも井伊家にとってはなくてはならない人物でした。

でも正体のはっきりしない人物なんですね。城主になったという伝説もあるほどよくわかっていません。

瀬戸方久とはどんな人物だったのでしょうか。

 

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瀬戸方久とは

方久とは出家後の名前です。出家前の名前、いつどこで生まれたのかは不明です。瀬戸村(静岡県浜松市細江町)の名主・松井平兵衛だったともいわれます。

永禄9年(1566)に次郎法師とともに福満寺に鐘を治めた人物に瀬戸四郎右衛門がいます。この四郎右衛門が方久だという説もあります。しかし、方久は永禄9年には出家していたともいわれます。だとすると四郎右衛門と名乗っているのは不自然です。別人かもしれません。

方久は瀬戸姓を名乗る前は松井姓を名乗っていました。二俣城主・松井氏の一族と自称していたともいわれます。

力を持っていた金貸し

井伊家は戦での度重なる出費などで財政事情はかなり厳しいものがありました。領民たちも働き手を戦にとられ田畑を耕すことができません。それでも年貢を治めないといけません。そこで銭貸しから借金していました。

戦国時代どこの領主も事情は似たようなものでした。土地を担保にお金を借りて返せなくなったら土地を手放してしまう。土地を失う領主や領民が出ました。銭貸しは土地を手に入れ、さらに商売を発展させました。

方久はそんな領民や領主にお金を貸して利子をもらう銭貸しをしていました。物を販売する商売もしていました。

井伊家も方久に借金していました。しかし方久はお金を貸す代わりに瀬戸と都田の村をよこすように言いました。借りたお金が払えないなら担保の土地をとられるのは商売の世界では当たり前です。結局、井伊家は方久に瀬戸村を与えました。領地を与えると方久は瀬戸村に移住して、瀬戸方久と名乗るようになったとも言います。

やがて方久は自分を井伊家の家臣に加えるように主張します。戦国期の井伊家家臣の名前に松井とあります。この松井が瀬戸方久ではないかといわれます。

徳政令と瀬戸方久

井伊谷に徳政令が出ると方久たち金貸しは大打撃を受けます。直虎が徳政令を拒んだ理由に方久ら金貸しの保護があったと言われます。金貸しがつぶれると井伊家や領民も借金できなくなり結局はつぶれてしまうからです。

瀬戸方久と対立していたのが祝田禰宜です。神職でありながら商売も行っていました。井伊直盛の治めていた時期から井伊谷で大きな勢力を持っていたといいます。古くから井伊谷で商売をしている祝田禰宜ら古い商人と、瀬戸方久ら新しい商人の対立も井伊谷徳政令に関係しているという説もあります。

方久は徳政令が実行されないよう井伊家に働きかけました。その一方で今川家とも交渉しました。今川家にも献金しました。井伊谷に徳政令が出ても自分の土地には徳政令が出ないように今川氏真と交渉しました。その結果、刑部城と堀川城に武器兵糧をおさめる条件で方久の領地には徳政令を出さないことを認めさせました。その交渉も次郎法師(直虎)が徳政令を実行せずに時間稼ぎしていたからこそできたのです。

次郎直虎が井伊谷の徳政令に署名するのはこの後になります。

今川家と取引を始めた方久は氏真のもとで武器や兵糧の調達を行いました。城の工事にも請け負いました。

永禄11年(1568年)。徳川家康(徳川家康)が遠江に攻めてくると方久は道案内を買って出ました。家康は方久の案内で都田川を渡って祝田に入ったといいます。方久は家康から領地を保証してもらいました。今川から徳川にうまく乗り換えたわけです。

方久は晩年になって方広寺(静岡県浜松市)の三重の塔を寄進しました。奥山方広寺は井伊家の親族・奥山家の菩提寺です。しかし2階部分の建築中に亡くなりました。

井伊家に取り入りながら今川家とも交渉し。今川が危ないと思えば德川と交渉する。抜け目のなさは商人ならではといえます。直虎にとっては敵とも味方ともつかない人物ですが、方久の支えがなければ井伊家は経済的に成り立たなくなっていたのは間違いありません。持ちつ持たれつの関係だったのでしょう。

城主になった瀬戸方久?

瀬戸方久は新田喜斎と名を変え、堀川城の城主になったという説があります。

桶狭間の戦いで今川義元が亡くなった後。徳川家康が反乱を起こしました。三河・遠江を舞台に今川対德川の戦いが始まります。德川への対抗策として作られた城のひとつが堀川城(静岡県浜松市)でした。

堀川城とは何なの?

堀川城は気賀にある砦です。城といっても現代人が想像する天守閣を持った立派な建物ではありません。堀や柵で囲まれた砦でした。

堀江城を守る支城のひとつとして堀川城はつくられました。支城は敵が本拠地にたどり着くのを防ぐための前線基地です。

浜名湖周辺は今川方の武将・大沢基胤が守っていました。大沢基胤は堀江城を本拠地にしています。堀川城は大沢基胤の堀江城を守る支城なんです。

永禄11年(1568年)。堀川城の城柵は今川家に従う地元の領主・尾藤主膳為義、竹田高正、山村修理、新田友作らによって作られました。

城主は新田友作が任命されました。友作は祝田出身で寺子屋を経営していたとも、気賀の領主だったともいわれます。城主といえば聞こえはいいですが、一揆軍の大将にまつりあげられたにすぎません。

本当に瀬戸方久が城主だったの?

新田友作が出家後に法休喜斎と名乗っていたこと。方久が工事資金を出した城が堀川城かもしれないことから、新田喜斎と瀬戸方久を同一人物と考える人もいます。雑学的なサイトや小説家・作家の著作物に多いです。確かに面白い説ですから紹介したくなるのもわかります。

でも。

徳川家康を井伊谷まで道案内したのは方久自身です。家康から領地の安堵状ももらいました。

いくら武器や兵糧の調達をしたからといって将兵に加わって德川軍に抵抗する必要はあるのでしょうか。利益に目ざとい方久らしくないふるまいに思えます。

たしかに新田友作(喜斎)も德川に抵抗するのを辞めて降伏を勧めました。德川が優勢とみていた点では方久と共通する部分はあります。

城主と言えば聞こえはいいですが、抵抗軍の立て籠る砦のリーダーです。そのころになると、方久の住んでいた井伊谷の武将たちも德川に味方しようとしている時期です。商人として成功しているのにあえて危険を犯して德川抵抗軍に加わる意味はあるのでしょうか?

いずれにしろ真実は不明です。

ちなみに堀川城の戦いでは僧侶も犠牲になりました。堀川城周辺にいくつかの寺があったからです。南渓和尚の寺と縁があっのでしょう。また大勢の人が亡くなったこともあり、南渓和尚と祐圓尼(次郎法師・井伊直虎)が各地で葬儀を行ったといいます。

 

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大河ドラマでも城主になる?

俗説では城主になったという話もある瀬戸方久。大河ドラマ「おんな城主直虎」でも瀬戸方久は城主になります。正式には直虎から城を任されている城代です。

今川家が商人の町・気賀を監視するために堀川城を作りました。堀川城主になったのは堀江城城主の大沢元胤でした。しかし元胤はすでに幾つもの城を管理下におく国人領主でした。気賀で商人の反発にあい苦労するのが嫌な元胤は井伊直虎に気賀の城を譲ってしまいます。

井伊家が管理する堀川城に入ったのが、瀬戸方久なのです。方久は商人ですから商人の町・気賀に近い堀川城にふさわしい人物だと直虎は考えました。城主・瀬戸方久の誕生です。

ドラマの堀川城は商人の町・気賀を監視するための城。徳川への抵抗のため作られた歴史上の堀川城とは違うイメージですね。気賀は井伊谷に近いとはいえ、井伊家が治めるのは唐突な感じです。でも、どうしても瀬戸方久を城主にしたいならドラマのようにしたほうが城主になる必然性ができたようにも感じられます。

いずれ堀川城は徳川家康に攻められることになりますが。ドラマの方久は戦う前に逃げ出すことになります。

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