井伊万千代・徳川家康に仕えた若き日の井伊直政の活躍

井伊万千代は井伊直政が元服するまで名乗っていた名前です。

14歳で徳川家康の小姓となった万千代は、家康のそばで仕え手柄をたて続けます。わずか6年の間に300石から4万石に大出世。井伊の家臣だは徳川家康を支える有力な家臣団に成長しました。

井伊万千代が徳川家に士官して元服して井伊直政と名のるまでを紹介します。

徳川家に士官するまではこちらで紹介しています。
井伊虎松(井伊万千代)・幼いころの井伊直政はどのように生き延びたのか

 

 

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井伊万千代(いい まんちよ)とは

名 前:井伊虎松 → 松下虎松 → 井伊万千代 → 井伊直政
生 年:永禄4年2月19日(1561年3月4日)
没 年:慶長7年2月1日(1602年3月24日)
父:井伊直親 
母:奥山朝利の娘・永護院
子: 直勝、直孝、政子(松平忠吉正室)、德興院(伊達秀宗正室)

父は井伊直親。遠江国井伊谷に近い祝田(ほうだ・現在の浜松市北区細江町中川)で生まれました。

母は奥山朝利の娘・永護院。大河ドラマ「おんな城主直虎」では「しの」です。

幼名は「虎松」。井伊家の長老・井伊直平によって”虎松”と名付けられました。虎松は祖父に当たる井伊直盛の幼名でした。直平がどれほど虎松に期待していたかがわかります。

 

天正3年(1575年)。徳川家康に召し抱えられた虎松は「万千代」の名を与えられました。

それまで虎松は母が再婚した松下清景の養子になっていたので松下姓を名乗っていました。

万千代は徳川家康から井伊姓を名のることを許されました。

松下家は跡継ぎの居なくなってしまいますが、井伊一族の中野家から養子を迎えて家督を継がせました。虎松が徳川家康に面会することが決まった時点で、虎松の代わりに井伊一族から養子を出すことは決まっていたのかもしれません。

井伊万千代は300石で召し抱えられました。万千代は14歳になっていましたが「小姓」としての採用です。元服にはちょっと早い。いくら利発そうな子とはいえ、どの程度の働きをするかわかりません。とりあえず小姓として召し抱えたのでしょう。

万千代は美男子だったといわれ、男色の相手として採用したのではないかという説もありますが。徳川家康は男色より女色が好み。男色を思わせる記録は残っていません。

身辺警護と世話係としてそばに置くことにしたのでしょう。万千代は浜松城で暮らすことになりました。

 

井伊万千代の初陣

天正4年(1576年)。万千代の初陣が早くもやってきます。

武田勝頼は長篠の戦いで負けたあと、劣勢を挽回しようと遠江に攻め込もうとしていました。そのため高天神城に兵糧を運び入れていました。

高天神城は武田信玄も攻めたことのある城ですが、守りがかたく信玄は攻め落とすことができませんでした。勝頼は天正2年に高天神城を攻め落としていたのです。ここを拠点に反撃しようとしていたのでした。

徳川家康は遠江国の芝原(静岡県袋井市)で武田勝頼軍と戦いました。この戦いで手柄を立てたといいます。

また「井伊家伝記」によると、芝原の陣地で休息中の徳川家康のところに武田の間者が侵入してきました。宿直していた万千代は間者と戦って一人を打ち取り、一人に手傷を負わせて撃退したといいます。

家康は万千代の働きに満足し3000石に加増しました。このとき与えられた領地は井伊谷だったといいます。かつて井伊家が所有していた井伊谷の一部が戻ってきたのです。

天正6年(1578)。徳川家康の命令で甲冑着初式が行われました。具足親には菅沼藤蔵が選ばれました。具足親とは儀式のときに具足を取り付ける訳ですが、武勇にあやかれるように優れた功績を上げた部将が選ばれます。(甲冑着初式は天正4年の説もあり)

武田方の依田信蕃が守る駿河国・田中城攻めで手柄をたて1万石になりました。

天正8年(1580)。2万国に加増されました。

家康の伊賀越に同行

天正10年3月(1582)。織田・徳川連合軍によって武田家は滅亡しました。徳川家康は織田信長より駿河の国を与えられました。その御礼として近江国安土城(滋賀県近江八幡市)に向かいました。

万千代も家康に付き従いました。信長との面会の後。家康一行は堺見物をしました。ところが6月2日。本能寺で織田信長が明智光秀に討たれるという事件が発生。井伊軍史によると、家康は京の知恩院に入って自害すると言ったともいいます。本気で自害する気があったかどうかはともかく(意外にも、家康には追い込まれると自害を口にするという言い伝えが多い)。かなり動揺していたことでしょう。家臣の酒井らが説得して急遽逃げることになりました。

家康は堺から逃げ延びて伊賀を通り領地の岡崎に戻ります。同行している服部半蔵の根回しのおかげで無事伊賀を通過出来たとはいえ家康にとっては危険な逃亡劇でした。

万千代は後日、家康から孔雀の羽の陣羽織を与えられています。万千代が具体的にどのような手柄をたてたのかはわかりませんが、家康の身辺警護にあたっていたのでしょう。

北条との交渉で手柄を立てる

天正10年(1582)。信長なきあと武田家の領地を巡って、織田、徳川、北条、上杉が入り乱れる乱戦になりました。(天正壬午の乱)

家康は武田家に仕えていた武士たちを積極的に採用しました。まだ家臣がほとんどいなかった万千代の家臣にしたのです。家康は徳川家臣団の中から木俣守勝たちを万千代の配下につけました。途中採用の万千代には自分の家臣がいません。ほとんどが家康から与えられた家臣か旧武田の家臣でした。

用心深い家康は、軍団を預かる部将が勝手に兵を動かさないように信頼できる部下を部将のもとにつけました。家康の意思で動く組織作りを目指していたからだといわれます。万千代の配下になった木俣守勝もそうした役目を与えられていました。

また武田の赤備えの武将たちは万千代のもとに集められました。井伊家の甲冑が赤いのは武田の赤備えを引き継いでいるからなのです。

万千代は北条氏との交渉で手柄をたて4万国に加増されました。井伊直政といえば勇猛な部将のイメージが強いのですが、交渉上手でもありました。外交官としてのデビュー戦が北条との交渉だったといえるでしょう。

万千代は士官してわずか6年で300石から4万石に出世しました。

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万千代元服。井伊直政の誕生

天正10年11月(1582)。万千代は元服して「井伊兵部少輔直政」と名乗ることになりました。「兵部少輔」は井伊直平も名乗っていた名前です。このとき、井伊直政22歳。元服にしては遅いといえますが。14歳で家康に仕え功績を上げた結果認められた元服でした。

しかしこのとき次郎法師(井伊直虎)はいませんでした。8月に亡くなっていたのです。

このあと井伊家は名実ともに井伊直政の時代になってゆくのです。

 

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