稲葉良通は美濃の戦国武将。稲葉一鉄の名が有名です。
西美濃三人衆の一人で、勇猛な武将として知られ、斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉に仕えました。
勇猛なだけでなく一方では礼儀を重んじる教養人でもありました。
また、娘の安が生んだのが春日局。若い頃の春日局(ふく)を引き取って養育もしました。
稲葉良通(一鉄)とはどんな人だったのでしょうか。
稲葉良通(いなば よしみち)とは
稲葉家の家紋
名 前:稲葉良通(いなば よしみち)
号 :一鉄
生 年:永正12年(1515年)
没 年: 天正16年11月19日(1589年1月5日)
父:稲葉通則
母:国枝正助の娘
兄:通勝、通房、通明、豊通、通広
姉:深芳野
妻:三条西実枝の娘
側室:加納氏
息子:重通、貞通など。
娘:安(斎藤利三の妻)など。
祖父・稲葉通貞は伊予の名家・河野(こうの)氏の一族。美濃に移住したともいいます。
また、伊賀氏(美濃安藤氏)の一族という説もあります。
永正12年(1515年)。美濃の国人・稲葉通則の六男として生まれます。
出生地は美濃池田郡本郷城(岐阜県揖斐郡)。
幼い頃に崇福寺に入れられました。禅僧の快川紹喜のもとで学びました。
大永5年(1525年)。牧田の戦いで父と兄たちが戦死。
還俗して斎藤家の家督と曽根城を継ぎました。しかし良通は11歳と若かったので祖父・通貞(塩塵)と叔父・稲葉忠通が後見人になりました。
稲葉家は土岐頼芸に仕えました。
姉・深芳野は頼芸の側室でした。
大永6年頃(1526年)ごろ。姉・深芳野が斎藤利政(道三)の側室になります。
大永7年6月(1527年)には深芳野が高政(義龍)を産みます。
斎藤利政(道三)は頼芸を追い出し美濃を支配します。良通は斎藤利政に仕えました。
稲葉良通は安藤守就、氏家直元とともに西美濃三人衆とよばれ道三を助けて活躍します。
弘治2年(1556年)。斎藤利政と息子の高政(後の一色義龍)が対立。すると道三の方針に不満があった美濃の国衆たちが高政を支持しました。長良川の戦いでは高政に味方して道三を討ちました。
道三の死後。織田信長の美濃攻撃が始まりますが、美濃の国人衆は高政(義龍)のもと協力して凌いでいました。
斎藤高政は名字を「一色」に変更。重臣たちも一色家にちなんだ名字に変更しているので、稲葉良通も名字を変更した可能性はあります。しかし後に織田家に仕えたので義龍からもらった名字は使わずに稲葉を名乗り続けたのでしょう。
永禄4年(1561年)。義龍が死亡。息子の龍興があとを継ぎました。
尾張の織田信長との戦いが激しくなります。
永禄4年(1561年)。森部の戦い
永禄5年(1562年)。軽海の戦い
などで活躍しました。
ところが龍興は一部の重臣を贔屓して、西美濃三人衆らを遠ざけます。
永禄6年(1563年)。他の西美濃三人衆とともに龍興に意見しましたが、龍興は聞こうとしません。そこで安藤守就と娘婿の・竹中重治が龍興の居城・稲葉山を占領する騒ぎがおこりました。その後、立興と守就らは和解しました。
しかし両者のわだかまりは消えません。そこに織田氏の調略があり、斎藤氏から離れて織田氏に寝返ることを決めます。
織田信長に仕えて転戦を繰り返す
永禄10年(1567年)。織田信長が美濃に攻めてきました。このとき稲葉良通ら三人衆は織田軍に味方しそのまま信長に仕えました。龍興は稲葉山城を追われて敗走します。
以下、織田軍の一員として数々の戦いに参戦。
永禄11年(1568年)。足利義昭と織田信長の上洛に付き従いました。
元亀元年(1570年)。の姉川の戦い。
永禄12年(1569年)。伊勢国大河内城の戦い。
元亀元年(1570年)。金ヶ崎の戦い。
元亀元年(1570年)。姉川の戦い。徳川家康とともに浅井軍の猛攻を退けました。
このころより「一鉄」の号を使います。
野田城・福島城の戦い(第一次石山合戦)では殿(しんがり)の指揮を担当。
志賀の陣では軍使(戦場での使者)も担当。
元亀2年(1571年)。伊勢長島の戦い。
元亀4年(1573年)の槇島城の戦い
など信長が行った数々の戦いに参戦して手柄を立てます。
天正元年(1573年)。一乗谷城の戦いでは朝倉義景を追い詰めます。
これらの功績で美濃清水城を与えらました。
天正7年(1579年)。家督と曽根城を嫡子の貞通に譲ました。一鉄は美濃清水城に移りました。
天正10年(1582年)、武田攻めから戻ってきた信長を領内の呂久(ろく)の渡でもてなしました。飾りたてた御座船を用意して舟中で料理を出して接待しました。
武田家の領内で暮していた土岐頼芸が見つかりました。一鉄はを頼芸を美濃に戻すようにはたらきかけ頼芸は余生の半年を美濃で暮しました。
本能寺の変の前後
斎藤利三とは美濃時代からの親しい仲でした。元亀元年(1570年)利三は光秀の部下になりました。利三を通して部下の那波直治を引き抜かれてしまいます。稲葉家は怒って訴訟を起こしました。信長は光秀に那波直治を返すように命じましたが、光秀は従いませんでした。そのため天正10年(1582年)5月27日。直治を返し、利三が切腹するように命令が出ました。本能寺の変の4日前のことでした。
天正10年(1582年)6月2日。本能寺の変がおこります。明智光秀が本能寺を襲撃して織田信長が自害に追い込まれました。
それを知った一鉄は斎藤利堯(道三の四男で信長に従っていた)をかついで、美濃国人衆をまとめ明智光秀に対抗しようとします。
一方、かつての西美濃三人衆の一人で信長に追放されていた安藤守就は、光秀に味方して美濃国内で挙兵。北方城を占領しました。一鉄は安藤守就らと戦い討ち取りました。光秀の死後も、美濃国内は国人衆が争って混乱しました。
一鉄は、娘婿の揖斐城主・堀池半之丞を討ちとり揖斐城を支配下におくなど。混乱した美濃で勢力を拡大、独立を維持しようとしました。
娘の安は光秀の家臣・斎藤利三に嫁いでいました。光秀や利三が死亡したあと、孫の福(春日局)を稲葉家に引き取って美濃清水城で育てました。
天正10年(1582年)。清洲会議が行われ、織田信孝が岐阜城の城主になり、美濃は信孝が支配することになりました。
ところが一鉄は信孝に従おうとしません。
天正11年(1583年)。賤ヶ岳の戦いがおこり、秀吉と柴田勝家が対立すると信孝が挙兵、城下を焼き討ちされました。一鉄も柴田勝家に味方する不破氏の西保城を攻めました。
その後、岐阜城の城主になったのは池田恒興です。一鉄は恒興とも領土をめぐって争っていました。調停した秀吉から4万貫の領地を安堵されました。
天正12年(1584年)。小牧・長久手の戦いに参戦。この戦いを最後に戦場には出ていません。
天正16年(1588年)11月19日。美濃清水城にて死去。享年74。
稲葉家は次男で正室の子の稲葉貞通が継ぎました。(長男の重通は側室の子だったため)
稲葉一鉄は数々の大名に仕えましたが。基本は独立心旺盛な武将ともいわれます。強いものには従いつつも何かあると独立を保とうとする行動をとりました。
勇猛さが知られる稲葉一鉄ですが、学識があり茶道・能にも詳しく医薬の知識も優れていていました。
稲葉一鉄が頑固だったことから「頑固一徹」の語源になったともいわれます。少なくとも江戸時代にはそのように思われていたようです。
良通の頑固さは猛将によくある感情的な頑固さではなく、知識があり筋道を重んじるからこその頑固さだったのかもしれません。
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