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三好長慶(1)崖っぷちの三好本家が畿内の有力大名になるまで

三好長慶といえば細川氏や足利家を追い落とし畿内を支配した人物と言われます。その後、三好の勢力は衰退して織田信長が天下をとったので歴史家からの評価は高くありません。

しかし長慶は江戸時代の前半までは有能な戦国大名として知られていました。長慶は足利家を担がずに畿内を掌握しました。つまり、三好長慶は織田信長より20年前に天下人=畿内を掌握する人物になったのです。

三好長慶とはどんな人だったのでしょうか。

三好長慶の前半生を紹介します。

三好長慶とは

三好家の家紋
三階菱に五つ釘抜三階菱に五つ釘抜

名 前:三好長慶(みよし ながよし)
幼名:千熊丸
改名:利長→範長→長慶
別名:仙熊、孫次郎、三筑
生 年:大永2年2月13日(1522年3月10日)
没 年:永禄7年7月4日(1564年8月10日)
父:三好元長(みよし もとなが)
母:慶春院
弟:三好之虎(実休)、安宅冬康、十河一存、野口冬長
妻:波多野稙通の娘
継室:遊佐長教の娘
子:義興

大永2年(1522年)。長慶は三好元長の長男として生まれます。幼名は千熊丸。三好家は阿波(徳島)を本拠地にする大名。阿波国守護細川家の家臣でした。三好一族は細川家に従って畿内に進出、中央政治にも関わるようになります。

三好元長は室町幕府管領・細川晴元(ほそかわ はるもと)の重臣でした。

三好家は阿波(徳島県)に本拠地をもつ豪族ですが細川家に仕えて畿内に進出。元長は山城国下五郡の守護代になっていました。

父・三好元長が自害に追い込まれる

享禄5年(1532年)。細川晴元・木沢長政・三好政長と三好元長・畠山義堯が対立しました。

三好政長は三好一族ですが分家になります。本家を相続しているのが三好元長です。

享禄5年(1532年)5月。畠山義堯と三好元長は木沢長政の飯盛山城(大阪府大東市・四條畷市)を包囲しました。

ところが、3万の一向一揆に襲われ自害に追い込まれます。

堺にいた仙熊丸(長慶)は母とともに阿波に逃れました。長慶はわずか11歳で三好宗家の当主になってしまいました。

11歳の幼い当主に何ができるでしょうか?三好家はこのまま戦国の世で消え去るかに思えました。元長に代わり細川晴元の重臣として畿内で力をつけてきたのが三好政長です。

阿波で暮らす千熊丸にチャンス到来

元長を自害に追い込んだ一向一揆は晴元と対立、畿内各地で戦いが起こりました。

天文元年(1532年)8月。父の49日に仙熊丸は弟の満熊丸(三好実休)とともに見性寺(徳島県板野郡藍住町)に寄進しました。

天文2年(1533年)6月8日。仙熊(長慶)はこのころまでに細川晴元の家臣になり摂津に渡り本願寺攻めに加わりました。三好家の復権を目指す伯父・三好康長の働きがあったのでしょう。

このころになると細川晴元と一向一揆の勢力が拮抗。本願寺証如も和睦を望むようになりました。そこで本願寺証如はまず三好仙熊と和睦。仙熊は父を一向一揆に殺されました。でもその三好家の当主が和解をしたという形にすれば、本願寺も細川も戦いをやめる口実に都合がよいと判断したのでしょう。

戦国時代は人間関係もドライです。親を殺した者でも、相手が強ければ従うのがこの時代の武士でした。

天文2年(1533年)6月20日。本願寺証如は千熊を仲介人にして晴元と和睦しました。このとき千熊は11歳。幼い当主を支えたのが伯父・三好康長と分家の政長だったといわれます。

天文3年(1534年)。晴元との和睦に反対する本願寺の強硬派・下間頼盛が証如を監禁。証如は解放されましたが、和睦を破棄します。

すると三好連盛と三好久助(長逸)も同調して晴元を攻撃しました。しかし木沢長政に説得されて晴元に味方します。

天文4年(1535年)。一族の三好連盛が千熊に無断で代官職を請け負うなど、幼い千熊は三好一族を統率できませんでした。しかし力をもたない千熊は晴元の家臣として生き延びるしかありません。

元服して三好利長と名乗る

天文6年(1537年)6月15~18日の間に仙熊は元服。三好孫次郎利長と名乗りました。

(このあとも何度か名前を変えますが、本記事では元服後は長慶と書きます)

このころ三好一族で最も力を持っていたのは三好政長でした。

天文8年(1539年)6月2日。長慶(利長)は河内十七箇所の代官職を要求します。本来は利長が受け継ぐはずのものでしたが、政長が不当に奪っていると考えたのです。

6月16日。長慶は兵を率いて上洛。摂津を制圧して山城に侵攻。京都西部で晴元側と小規模な戦闘がありました。

将軍・足利義晴、六角定頼が間に入って利長と晴元の和睦が成立しました。代官職は与えられませんでしたが、摂津守護代となり幕府に仕えました。

この時点ではまだ晴元に対抗するつもりはなく、政長を抑え自分の地位を上げたいと考えていたようです。

越水城を拠点に新たな組織作りを行う

天文8年(1539年)。18歳のとき。長慶は越水城(兵庫県西宮市)を居城にしました。越水城は摂津下郡の中心となる重要な城です。

以後、長慶は阿波には戻りませんでした。

長慶配下の家臣団は三好一族と阿波国吉野川流域の国衆を中心に構成されていました。しかし長慶は摂津を拠点に畿内の中小国衆を採用。長慶は畿内の国衆を掌握し自分に従う家臣団を作り上げていきました。その中には松永久秀や岩成友通などがいます。

そこには事実上の三好一族の長としてふるまっている三好政長への対抗心。若い自分に従わない一族への不信もあったかもしれません。

その一方で一族の三好連盛が三好家を追い出され浪人になりました。連盛が失脚した理由はわかりませんが、長慶と連盛の間で問題があったのでしょう。

天文9年(1540年)。長慶は西宮神社の千句講のために田地を寄進しました。城下町といえる西宮の人々の支持を取り付けようとしたのです。このとき文書発行を担当したのが松永久秀です。

天文9年12月15日(1540年)。丹波国の守護代・波多野稙通の娘と結婚しました。同じころ。名前を「利長」から「範長」に変えました。

摂津には長慶に従わない国人衆がいました。彼らは旧細川高国派です。細川高国はかつて細川晴元と対立しました。高国は既に失脚していますが、後継者の細川氏綱は健在。旧高国派をまとめていました。長慶は晴元派とみられていたので旧高国派はなかなか従わないのです。

天文10年(1541年)。長慶は、三好政長、妻の父・波多野秀忠、政長の娘婿・池田信正たちと共同で細川晴元に従わない国人衆を攻略しましました。

木沢長政の乱

細川晴元は木沢長政と三好政長を側近の「御前衆」として重用していました。ところが木沢長政と三好政長が対立します。

晴元が三好政長に味方したので、公家や将軍・足利義晴は木沢長政を逆臣とみなしました。

細川晴元派と木沢派の戦いになりました。

長慶は木沢長政配下の武将の調略を担当しました。

天文10年(1541年)11月には将軍・足利義晴は近江坂本に避難する騒ぎになります。

木沢長政は配下の武将が討ち取られ追い詰められていきます。

天文11年(1542年)3月。木沢長政は高屋城(大阪府羽曳野市古市)の遊佐長教(ゆさながのり)を討つため出陣。長慶と三好政長は、木沢軍が到着する前に遊佐長教に合流。木沢軍を迎え撃ちました。この戦いで木沢長政は敗北、戦死しました。

10月。木沢長政の乱の事後処理のため、三好軍が出動。

10月26日。長慶は山城から大和へ入ろうと松永久秀を配置。しかし翌日には撤収しました。

細川氏綱との戦い

細川晴元と細川氏綱が対立

天文12年(1543年)7月。細川高国の後継者を自称する細川氏綱が1万の兵で挙兵。畠山稙長や河内守護代・遊佐長教なども合流して一大勢力になりました。

晴元派と氏綱派は近畿各地で戦います。

8月。長慶は晴元の命令で堺に出陣。
10月。槙尾山(大阪府和泉市)の麓で氏綱派の玉井氏を破りました。氏綱は喜連・杭全(大阪市平野区)まで兵を進めていましたが撤退しました。

天文14年(1545年)。再び細川晴元・六角定頼と細川氏綱・遊佐長教派が戦います。

4月。氏綱派の細川国慶と丹波守護代・内藤国貞が挙兵。国慶が井手城(京都府井手町)を占領。宇治・槙島に進軍しました。

5月。河内で畠山稙長が死去したため氏綱派は士気があがりません。

細川晴元は六角定頼の増援も得て2万の大軍で宇治田原(京都府宇治田原町)に出陣。三好長慶も加わっていました。この戦いで晴元勢は圧勝します。

7月。晴元勢は内藤国貞の立てこもる関の山城(京都府南丹市世木)を包囲して落城させます。

天文15年(1546年)。再び氏綱・長教派の動きが活発になります。

細川氏綱と遊佐長教の同盟軍に苦戦

8月。長慶は晴元の命令で堺に出陣しました。ところが氏綱・長教は大和の筒井氏まで味方にして大軍で堺を包囲しました。長慶はあわてて退却しました。

氏綱勢は進軍して晴元派の大塚城を包囲、落城させました。

長慶は三好政長、弟の安宅冬康とともに援軍に向かおうとしましたが、三宅国村、池田信正が氏綱に寝返ったので断念しました。

9月。細川国慶が京都を占領。晴元は丹波に逃げました。
さらに晴元派の芥川山城(大阪府高槻市)も氏綱派に奪われます。

晴元・長慶派は圧倒的に不利になってしまいました。

この状況を打開するため。10月には長慶の弟・三好実休が四国から2万の大軍を率いてやってきました。実休は京都に進軍しました。

これに対して将軍・足利義晴が勝軍地蔵山城(京都市左京区)を築城して三好軍に備えます。さらに伊予の河野通直に三好軍を何とかするように命令します。

12月。足利義晴は近江の坂本で六角定頼を烏帽子親にして義輝を元服させ将軍にしました。

氏綱・長教は金を贈り足利将軍家も味方にしていました。

晴元・長慶派は依然として不利な状態でした。

そこで動いたのが元堺公方で阿波にいた足利義維です。

足利義維は本願寺証如に上洛を依頼しました。義維はこの機会に復権を狙っていたのです。

天文15年後半には長慶は「長慶」の実名と筑前守を名乗ります。筑前守は三好宗家の嫡流を意味します。11月には弟の実休が豊前守を名乗りました。

三好軍の反撃

天文16年(1547年)。長慶は畿内の反遊佐長教派を集め反撃に出ます。

2月。長慶は三好政長の仲介で原田城(大阪府豊中市)を開城させ。
3月。三宅城(大阪府茨木市)を攻略しました。

3月29日。足利義晴・義輝親子は勝軍地蔵山城に籠城。
4月。この勢いに六角定頼は氏綱を見限り晴元と同盟。

6月。芥川山城と池田城を開城させます。芥川山城の援護に来ていた細川国綱は逃亡しました。

7月。三好軍は相国寺(京都市上京区)に布陣。将軍の籠もる山城に迫ります。

7月19日。足利義晴・義輝親子が勝軍地蔵山城を自ら焼いて近江坂本に逃亡。

7月21日。残る敵は高屋城の氏綱・長教軍です。

三好軍は高屋城に向かいます。氏綱・長教軍も高屋城を出て迎え撃ちました。

両軍は仏舎利寺付近(大阪市生野区)で戦いました。
この戦いで両軍合せて2千名が戦死したといわれます。この戦いで三好軍が勝利。
その知らせを聞いた足利義輝は細川晴元と和睦の使者を送り京都に戻りました。
10月には京都で抵抗していた細川国綱が戦死します。

長慶と晴元は氏綱・長教に勝利しました。

ところがこの戦いで晴元には畿内を治める力がないことがわかりました。長慶は自分に従う三好一族と国衆の力を集めて乗り切りました。氏綱勢との戦いは機内における三好一族の存在感を高めました。長慶は細川晴元からの自立を考え始めます。

 

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