矢野駿河守国村|衰退する三好家を支え十河存保の擁立に尽力した武将

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矢野 駿河守 国村は三好家の家臣。

阿波三好家に仕える阿波の国衆の一人です。

三好実休の死後、衰えていく阿波三好家を支え阿波衆の一員として四国や畿内に遠征しました。織田軍や毛利軍とも戦いました。

阿波三好家当主・三好長治の死後は長治の兄弟、十河存保の三好家当主擁立に奔走しました。しかし長宗我部軍との戦いの中で味方の裏切りにあい、命を落します。

知られざる戦国武将・矢野駿河守国村を紹介します。

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矢野 駿河守 国村

矢野氏の家紋

松皮菱松皮菱
他にも 竹丸根笹 など

名 前:矢野 国村(やの くにむら)
通称・官名:駿河守(するがのかみ)
生 年:不明
没 年:天正7年(1579年)
父:虎村?
「矢野氏覚書」によれば伯耆守(虎村)が父、駿河守が嫡子。
母:不明
子: 太郎次郎

矢野一族は室町時代から戦国時代にかけての阿波国(現在の徳島県)の国人領主を排出した一族です。

矢野駿河守国村は矢野城(徳島県徳島市国府町西矢野)を拠点にしていました。

中富川の戦いで討ち死にした矢野 伯耆守 虎村は同じ一族ですが、関係性は不明。親子とも甥・伯父の関係とも言われます。

知行300貫(1500石、3000石という記述も)と記録されています。

阿波国(徳島県)の三好実休に仕えていましたが、永禄5年(1562年)。久米田の戦いで三好実休が討ち死に。

その後は嫡男の三好長治に仕えました。

しかし長治はまだ9歳。三好親族や篠原長房ら阿波の有力武将が長治を補佐していました。

阿波の国衆をまとめていたのは篠原長房でした。

永禄7年(1564年)。三好長慶が死亡。三好義継が家督を相続しました。

若い三好義継を補佐したのが三好長逸と松永久通でした。

永禄8年5月19日(1565年6月17日)。三好義継と三好長逸・松永久通が白昼、将軍・足利義輝を襲撃して殺害しました。

この機に乗じて三好康長、篠原長房は阿波公方・足利義栄を次の将軍にしようと考えました。

永禄11年(1568年)。織田信長が足利義昭を伴って上洛。

このころになると、かつての三好長慶の配下は松永久秀・三好義継の派閥と、三好三人衆・篠原長房の派閥に分裂。

松永派は織田信長に味方し、三人衆派は妥当織田信長をめざしていましたが本圀寺の戦いで敗退しました。

野田城・福島城の戦い(第一次石山合戦)

元亀元年(1570年)6月。織田軍が畿内から撤退したすきに三好三人衆が挙兵。

7月。三好三人衆は摂津中嶋で野田城・福島城(大阪市福島区)を築城して立て籠もりました。三好康長と三好三人衆ら畿内の三好三人衆の兵力が中心でした。

三人衆は信長配下の松永久秀・三好義継らと戦いますが。8月に入り足利義昭を担いだ織田信長が参戦。雑賀・根来衆も加わりました。

三人衆は苦戦します。

9月に入り三人衆側に本願寺顕如・浅井・朝倉・六角・比叡山が味方し。美濃を追われた斎藤龍興も三人衆側に合流して織田信長に抵抗を続けていました。

三人衆対信長の戦いは信長包囲網対信長の戦いへと発展。畿内各地で戦いが起こりました。

9月27日。阿波から大将:細川真之。副将:三好長治、参謀:篠原長房が率いる阿波・讃岐・淡路の国衆が兵庫に上陸しました(信長公記によるとその数8千)。細川真之と三好長治の地位は名目上のもので、実質的には篠原長房が率いているも同じでた。

援軍として来た阿波淡衆の中に矢野国村もいました。

篠原長房率いる阿波淡衆は織田方の瓦林城・越水城(兵庫県西宮市)の城主・瓦林三河守を討ち取りました。

10月1日に野田城・福島城に入城しました。さらに京都方面に向けて進軍を開始しました。

ここにきて織田信長も停戦を考えるようになり、正親町天皇を通じて和睦をもちかけます。各方面で交渉が始まります。

信長は松永久秀を通じて篠原長房と交渉を行いました。

篠原長房と松永久秀の間で人質交換が行われ和睦成立。このときまで敵対していた篠原長房と松永久秀・三好義継は以後共闘することになります。

和睦成立後、阿讃淡衆はそれぞれの領地に戻りました。

引田城城主になる

篠原長房は讃岐の支配強化と備前(岡山県)への出兵を考えていました。

三好氏は、毛利氏の驚異にさらされている備前国の大名・浦上宗景と同盟。毛利・織田に対抗していました。

そのため元亀元年(1570年)には東讃岐の安富盛定(やすとみ もりさだ)に娘を嫁がせ関係を強化。

元亀2年(1571年)。三好氏が安富氏を支援する形で寒川元隣に圧力をかけ。寒川氏の治める大川郡4郷が三好家に譲り渡されました。

三好長治の命令によって引田城には矢野国村が入りました。篠原長房配下の武将が東讃岐の引田城にはいることで東讃の国衆に目を光らせるとともに、讃岐における三好氏の前線基地にもなりました。

児島の戦い

備前国の浦上宗景の求めに応じて援軍を派遣することになりました。

元亀2年(1571年)5月。篠原長房が総大将、矢野国村が副将となって讃岐・阿波の国衆を動員。三好勢は四宮水軍の船で児島(岡山県倉敷市児島)に渡りました。

三好勢は浦上氏、宇喜多氏と協力して毛利氏と戦いました。

この戦いで三好勢は小早川隆景の配下粟屋就方の兵を破りました。宇喜多勢も幸山城を奪取するなど毛利勢に勝利します。

この戦いで毛利元就は三好・浦上・宇喜多との和睦を希望、足利義昭に和睦の仲介を依頼しますが、三好に敵意をもつ義明は拒否。和睦は成立しませんでした。

篠原長房の死

その後も、篠原長房は阿讃衆を率いて畿内に上陸。信長の娘婿・河内高屋城主・畠山昭高と戦ったり。荒木村重に協力して、松永久秀・久通とともに高槻城の包囲に参加したりしました。

元亀4年(1573年)5月。篠原長房は上桜城(徳島県吉野川市川島町)に隠居。三好長治の母・小少将と険悪な関係になったためといわれます。三好長治と細川真之は篠原長房が謀反を企んでいると考え討伐を決定。三好長治は十河存保を総大将にして軍を派遣しました。この戦いで篠原長房は討たれてしまいます。

讃岐衆の離反

篠原長房の死後。讃岐の国衆の三好への不満が爆発。香川元影、香西佳清が代表して十河存保に抗議します。十河存保は讃岐衆の不満を三好長治に伝え、長治のやりかたを諌めましたが、長治が素直に聞くはずもありません。

天正2年(1574年)。長治は存保を無視して、讃岐に軍を派遣。三好越後守を総大将に篠原自遁、重清豊後守ら3000で香西氏を攻めさせました。大西、長尾氏ら讃岐の国衆も加わり三好勢に抵抗。

矢野国村も長治の命令で寒川郡の昼寝城(香川県さぬき市)を攻めました。しかし昼寝城は「昼寝をしていても落城することはない」と言われたほど堅牢な城。なかなか落城しません。

そうしている間に三好勢の留守をついて土佐の長宗我部元親が海部城(徳島県海部郡)を攻めたため、三好勢は撤退しました。

こうして三好は讃岐への影響力を失っていきます。

天正3年(1575年)。三好長治は阿波の国人や領民に対して、法華宗への改宗を強制しました。矢野国村ら阿波の国人衆の多くは臨済宗を信仰していたので反発します。

天正5年(1577年)。三好長治は阿波守護・細川真之とも対立。細川真之は伊沢頼俊、小笠原成助とともに長宗我部元親の協力を得て三好長治を追い詰め自刃に追い込みました。

三好長治の弔い合戦

三好長治の自刃の報告を受け取った矢野国村は手勢を率いて阿波の勝瑞城に戻りました。

長宗我部元親の援助を受けた伊沢頼俊は板西城(徳島県板野町)で勝瑞城を攻める準備をしていました。

矢野国村は夜間を狙って矢野備後守、三好越前守とともに弓矢と鉄砲で攻撃。1500いた伊沢勢は夜襲に総崩れとなります。矢野国村は伊沢頼俊と戦い勝利します。

伊沢頼俊の死を聞いた一宮長門守成助が兵を率いてやってきて川を挟んで対峙しました。しかし間に流れる角瀬川・住吉川が深く渡ることができなかったため、罵声を浴びせる言葉合戦をしただけで一宮成助は帰っていきました。

天正5年(1577年)9月。一宮成助、一宮主計頭兄弟が挙兵。矢野城付近で戦いになりましたが防ぎきります。

その後、雑賀の鉄砲衆を雇い、篠原自遁ともに一宮城徳島県(徳島市一宮町)を攻めました。一宮成助は城を出て敗走しました。

十河存保の擁立

矢野国村は三好越後守、河村左馬亮らと話し合い、十河存保を新しい三好家の当主にすることを決定。三好家臣の連名で十河存保への三好家当主を懇願しました。

篠原自遁は十河存保の当主就任に反対したため、以後別行動をとります。

天正6年(1578年)1月。十河存保は勝瑞城に入りました。

十河存保は阿波・讃岐の国衆に呼びかけ長宗我部への対抗をよびかけます。

しかし長宗我部の勢いは止まらず三好方の重清城が占領され、岩倉城・脇城・上野城が長宗我部元親に服従しました。

悲劇の脇城外の戦い

ここで三好家にさらに打撃を与えようと長宗我部元親の家臣・久武蔵之介、桑野弥次兵衛が計略を考えます。

天正7年(1579年)12月。長曾我部元親に寝返た岩倉城主・三好康俊、脇城主・武田信顕が上野城・北条越前守の連名で密書が三好型の武将に密書をおくりました。「土佐に攻めるために兵をさしむけ加勢するよう」という内容でした。

天正7年(1579年)12月27日。この密書を信じた矢野国村(引田城、矢野城)は三好越後守、森飛騨守(切幡城、秋月城)、河村左馬亮(蔭城)、川島兵衛進(川島城)らとともに出陣しました。岩倉城、脇城に近い谷間に差し掛かったところで三好康俊、武田信顕の兵から矢と銃撃を浴びせられます。狭い谷間で軍勢が身動きできない状態で将兵が倒れていきました。

矢野国村は左足を鉄砲で討たれながらも馬に乗り戦いましたが。最後は加藤主水正(美馬蔵人ともいわれます)に討ち捕らえました。

このとき、嫡子・矢野太郎次郎も一緒でしたが逃げ延びたともいわます。

 

参考文献
・ ”矢野氏覺書、阿波国徴古雑抄”
・矢野憲作・出水康生”あなたのルーツ”、香川あすなろ協会。

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