松永久秀と三好三人衆の対立、足利義昭上洛に果たした役割

蔦

松永久秀は三好長慶に仕え室町幕府の要職や大和国を治めるまでに出世しました。ところが長慶の死後。三好三人衆と対立。織田信長と協力して足利義昭の上洛に尽力します。

信長が上洛するまでの間、反義昭勢力を引きつけて畿内で戦いを続けました。その過程では悪名高い東大寺大仏殿炎上もありました。はたして東大寺大仏殿炎上は久秀のせいなのでしょうか。

三好長慶の死後から足利義昭上洛まで松永久秀が果たした役割を紹介します。

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松永久秀 とは

松永家の家紋

蔦

名 前:松永久秀(まつなが ひさひで)
通称:松永弾正
官名:弾正忠、弾正少弼
号:道意
生 年:永正5年(1508年)
没 年:天正5年10月10日(1577年11月19日)
父:不明 
母:不明
正室:不明(松永女房とよばれる人がいたらしい)
   広橋保子(広橋兼秀の女)二人目の正室
側室:小笠原成助の娘
弟:長頼(ながより)
子:久通(ひさみち)他

永禄6年(1563年)8月には長慶の嫡男・義興が死去。自ら守役として教育した義興の死に久秀は大いに悲しみます。

長慶は三好家の後継者に義継を指名しました。

永禄6年(1563年)潤12月には松永家の家督を久通に譲りました。幕府関係の役職も久通に譲り、自らは領国の大和国の経営に専念しました。

永禄7年(1564年)3月には妻・広橋保子が死去。

永禄7年(1564年)7月4日には、主君の三好長慶が死去。

三好家も松永家も世代交代し、久秀は領国の大和国で余生を過ごしていました。

将軍・足利義輝の殺害

永禄8年(1565年)5月18日。京都で三好義継、三好長逸、松永久通が将軍・足利義輝、義輝の弟・鹿苑寺周暠(しゅうこう)、義輝の母・慶寿院を殺害してしまいます。

義輝・久通らが将軍を討った理由はわかりません。

久秀と三好三人衆が義輝を討ったといわれますが。このとき久通は大和にいたので将軍殺害には関わっていません。

三好義継・松永久通の若い世代と彼らを支持する三好長逸らが行動を起こしました。

長慶とともに将軍家と争ってきた久秀にとっては将軍殺害はやりすぎだと思えたでしょう。実力のない将軍とはいえ、武家にとって「将軍権威」の影響力は無視できないものがありました。反三好勢力に絶好の反撃材料を与えることになります。だからこそ長慶は義輝がどんなに抵抗しても殺害せず許してきました。

久秀としては、若い義継・久通の行いにやりきれない思いだったかもしれません。しかし殺してしまったものはどうにもなりません。このあとどうするかが問題です。

久秀は興福寺にいた覚慶(足利義昭)の身の安全を保証しました。覚慶を手元に置き、いざとなれば将軍に担いで反三好勢力への牽制に使おうとしたのでしょう。

久秀の失脚と三好三人衆の誕生

ところが7月28日。朝倉義景や細川藤孝ら幕臣らの手引で足利義昭が奈良を脱出してしまいます。久秀は重要なコマを失ってしまいました。

さらに丹波を治めていた弟の内藤宗勝が朝倉・武田勢に破れ討ち死に。丹波一国が反三好勢力になってしまいました。

久秀の領内でも反三好の動きが高まります。

反三好勢力は将軍候補の足利義昭を手に入れ各地で勢いづいていました。

松永久秀・久通親子は三好家の中で苦しい立場に追い込まれれてしまいます。松永親子に代わり、三好宗家の側近として台頭したのが石成友通でした。

11月15日。三好長逸・三好宗渭・石成友通と阿波三好家の三好康長は軍を率いて三好義継のいる飯盛城に入り、松永久秀を追放するように要求。

松永久秀・久通に変わり、三好宗家を三好長逸・三好宗渭・石成友通が支える体制が確立しました。

三好一族の長老・三好長逸、細川吉兆家とのつながりが深い三好宗渭、三好家に従う畿内衆を代表する石成友通。かれらを三好三人衆と呼びます。

つまり義輝殺害の時点ではまだ三好三人衆は誕生していません。

久秀は失脚しました。

さらに三好三人衆は大和国の国人らに自分たちの味方になるよう多数派工作をはじめました。

久秀と三好三人衆の争いは避けられなくなりました。

足利義昭と同盟

苦しい立場になった松永久秀は逃げた足利義昭を助け三好三人衆に対抗しようとします。義昭にとっては久秀は兄の敵に等しい(直接討ったのは久通ですが)ので内心では気に入らなかったでしょう。でも上洛のためには協力者は必要ですから仕方ありません。

義昭を保護する畠山氏や遊佐氏と協力。さらに畿内の三好勢の中にも久秀を支持する勢力がいたので彼らを加え三好三人衆に対抗しました。

永禄9年(1566年)2月4日。大和国で久秀と争っていた筒井順慶と戦い打ち破ります。

4月。三好三人衆は大和国に攻めてきました。

しかし畿内各地の戦いで三人衆側と勝ったり負けたりを繰り返しました。

6月には三人衆側に阿波三好家から篠原長房率いる援軍が到着。久秀はますます苦しくなります。畿内各地で久秀や義昭を支持する勢力が三好勢に破れ。畠山氏も三好三人衆と和睦してしまいます。

久秀と義昭支持派は尾張の織田信長に上洛を要請。しかし信長は美濃の斎藤(一色)氏との戦いの最中で上洛できません。

久秀は多聞山城に籠城し筒井順慶らの攻撃に耐えていました。三好三人衆・篠原長房・筒井順慶ら相手に苦しい戦いをしていました。

永禄10年(1567年)4月。三人衆側にいた三好義継が堺を脱走。信貴山にいた久秀のもとにやってきました。義継は自分の政権を作ろうとしていましたが、篠原長房らが阿波にいた足利義栄を主君のように扱い将軍に担ごうとしていたので対立したのです。

久秀にとって義継を匿うのは好都合でした。三好宗家の正当な後継者は義継。それを保護するのは久秀。むしろ逆臣は三人衆側という大義名分がたちます。

動揺する三人衆に対して、久秀側は勢いづきました。

東大寺の戦いで大仏殿炎上

永禄10年(1567年)4月。三好三人衆は久秀の本拠地がある大和国に攻めてきました。

久秀は戒壇院に陣取りました。

石成友道や池田勝正が東大寺に陣取りました。

久秀は敵陣になるのを防ぐため、般若寺、文殊堂、戒壇院の授戒堂など、奈良の寺院を焼き払います。さらに筒井順慶側の領地も焼き討ちにし、筒井・三人衆に味方する国人達に調略もすすめました。

さらに織田信長の協力もとりつけます。

10月10日。久秀は東大寺に陣取る三人衆に対して夜討をしかけました。

突然の夜襲に三好三人衆は防戦しましたが、たまらずに撤退しました。

久秀は大和国から三好三人衆を追い出すことに成功しました。

大仏殿の炎上はだれのせい?

東大寺に攻め込んだ松永勢ですが、このとき兵が放った火矢が穀屋や法華堂を燃やしてしまいます。火は回廊に燃え移り、風にあおられて東大寺大仏殿まで焼き尽くしてしまいました。

さらに三人衆が側からも失火が出たともいわれます。

こうして夜間の戦闘を行った結果、大仏殿は炎上しました。

久秀としては大仏殿を燃やすのが目的ではありません。でも自らが仕掛けた戦いの結果、燃やしてしまいました。それにこの時代は戦場にある施設が炎上するのは珍しくありません。

久秀としても大仏殿に陣取る三好三人衆に夜討を仕掛けた時点で「勝つためには大仏殿が燃えても仕方ない」という思いはあったでしょう。

結果として「久秀が燃やした」と言われても仕方ありません。

でも後に松永久秀・三好長逸の双方が大仏殿再興のため資金集めをしています。意図して燃やすつもりはなかったのです。

三好三人衆を追い払ったとはいえ、久秀の勢力は劣勢でした。信長もまだ来ません。

久秀と三好三人衆はお互いの勢力に調略をしかけあい。小競り合いが続きました。

そうしている間に。

永禄11年(1568年)2月8日。足利義栄が征夷大将軍になりました。

5月。三好三人衆はまた大和国に攻めてきました。

久秀側の重要な拠点。信貴山城が三人衆に味方する三好康長に包囲さて奪われます。

久秀は各地の武将と連絡をとっていました。久秀と義継は、信長だけでなく毛利元就、村上武吉、安見宗房ら各地の大名と連携し、義栄・三好三人衆包囲網を作り抵抗を続けます。

織田信長が上洛に動く

9月織田信長が義昭とともに上洛を目指して岐阜を出発。

信長は9月13日には六角氏の観音寺城を落とし。10月2日にはかつて三好長慶が居城とした芥川山城に入りました。

9月には足利義栄が病死。三好三人衆側は戦意を失い撤退しました。畿内に基盤を持つ石成友通や池田勝正らは信長に抵抗しました。しかし篠原長房ら四国勢や三好勢の多くが信長とは戦わずに撤退しました。

久秀は信長の到着まで持ちこたえました。

9月27日。久秀は娘を信長の息子・信忠と縁組させました。

久秀と信長の同盟が成立しました。織田側では久秀が人質を差し出して軍門に下ったと考えたようですが。久秀はそのつもりはなかったでしょう。信長の力は認めつつも、足利将軍家を支える者同士の同盟と考えていたのでしょう。

10月4日。久秀は芥川山城に出向いて、信長と義昭に挨拶。大和国の支配権を認められます。

足利義昭が征夷大将軍になる

永禄11年(1568年)10月18日。足利義昭は征夷大将軍になりました。

松永久秀は織田信長と協力して足利義昭を将軍につけることに成功しました。

久秀も義昭を支える勢力の一人となりました。

足利義昭と織田信長がやすやすと上洛できたのは、三好三人衆や三好康長・篠原長房ら義栄側勢力を松永久秀が引きつけていたおかげでした。

ある意味、織田信長は漁夫の利を得たのです。

畿内での松永久秀対三好三人衆の戦いを見ずに織田信長だけに注目しても畿内の戦国史はわかりません。

しかも三好三人衆は織田勢とは直接対戦せずに撤退したため、勢力はまだ温存されていました。畿内は安心できる状態ではありませんでした。

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参考文献

・天野忠幸,”松永久秀と下剋上”,平凡社。
・編:天野忠幸,”松永久秀歪められた戦国の梟雄の実像”,宮帯出版社。
・太田牛一,訳:中川太古,”現代語訳 信長公記”,新人物文庫。

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