近衛前久 |謙信・信長とともに遠征する公家らしくない公家

近衛牡丹

近衛前久 は室町戦国時代の公家です。

関白になったこともある身分の高い公家でしたが、武家との付き合いの深い公家でした。自ら馬に乗り武将たちに同行しました。さすがに戦場に立つことはありませんでしたが、戦場の近くまででかけたいという行動派の公家でした。

鷹狩をしたり馬に乗ったり、武将の遠征にも付き合ったり。武士のような振る舞いも目立つ公家らしくない公家でした。

近衛前久について紹介します。

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近衛前久 とは

名 前:近衛前久(このえ さきひさ)
別 名:晴嗣(はるつぐ)→前嗣(さきつぐ)→前久(さきひさ)
生 年:天文5年(1536年)
没 年:慶長17年5月8日(1612年6月7日)
父:近衞稙家(このえ たねいえ)
母:久我慶子
子: 信尹、前子(後陽成天皇女御)ほか
  7男2女

摂関家の跡取りとして生まれる

天文5年(1536年)。関白・近衞稙家の長男として生まれました。

母は村上源氏の久我(こが)家出身の慶子。

父・稙家(たねいえ)が足利将軍家と親しく足利善晴が近江に逃れたときは同行していました。

 

天文9年(1541年)。 元服。将軍足利義晴のから一字を譲り受けて「近衛晴嗣(はるつぐ)」と名乗りました。

しかし足利将軍家の立場は不安定でした。管領・細川家内部の争いや、新たに台頭した三好長慶との対立で近江と京都をいったり来たりしていました。

天文23年(1554年)。関白になりました。

朝廷の最高の地位についても全く無力でした。武士たちが京都で争っても何もできません。父・稙家は足利将軍家に従って近江に避難しましたが前久は同行しませんでした。無力な足利将軍家に愛想をつかしていたのかもしれません。

天文24年(1555年)。 従一位に昇進。この機会に足利義晴からもらった「晴」の字を捨て名を「前嗣(さきつぐ)」と改めました。

永禄元年(1558年)。西国へ下向すると決めました。両親に説得されて断念します。「西国」がどこなのかはわかりません。この時代、地方に避難する公家はありました。前久が西国に行って何をするつもりだったのかはわかりません。争いの続く京都で何もできないのが歯がゆかったのかもしれません。

上杉謙信との同盟

永禄2年(1559年)。越後の長尾景虎(上杉謙信)が上洛しました。

前久は景虎と将軍・足利義輝の仲介を担当。その課程で景虎と意気投合して血書の起請文を交わしました。将軍以上の力を持つ三好長慶を抑え、京都を安定できるのは長尾景虎しかいないと思ったのでしょう。

そのためにはまずは長尾景虎の関東平定を関白の立場で支援し、その後は長尾景虎を上洛させて敵対する勢力を一層し、京都を安定させるつもりだったようです。また長尾景虎も幕府の権威を味方にして関東の支配権を得ることができるのですから悪い話ではありません。長尾景虎は将軍や前久と面会後に帰国。

前久も同行したかったようですが。正親町天皇の即位式があったので断念しました。

永禄3年(1560年)。正親町天皇の即位後。越後に向かいました。現職の関白が都を離れて東日本に行くのは史上初です。

永禄4年(1561年)。前久は上野国厩橋にに入ります。さらに上野国厩橋から下総国古河に移動しました。

このころ、名を「前久(さきひさ)」と改めました。花押を公家式から武家式に変えました。

しかし長尾景虎に上杉家を継がせ関東管領につけることはできたものの(上杉謙信を名乗るのは元亀元年からですが以後は上杉謙信と書きます)、関東での戦いは一進一退。北条氏を降伏させることはできません。さらに武田信玄も信濃を狙っています。上杉謙信は関東を平定することができず、北条・武田の二面作戦を強いられました。

永禄5年(1562年)。なかなか進まない関東平定にしびれを切らした近衛前久は謙信が止めるのも聞かずに京に戻りました。

といっても3年足らずで、謙信といえども北条と武田を相手に数年で関東平定は無理な話です。

前久の行いに謙信は激怒。永禄6年3月の手紙のやり取りを最後に謙信の交流は途絶えます。

京都に戻った前久

京に戻っての前久は以前と同じ関白にあり、比較的穏やかな生活でした。

永禄8年5月(1565年)。将軍・足利義輝が三好義継・松永久通の兵に襲われて殺害されます。義輝の正室は前久の姉でしたが命は助けられました。

近衛前久邸も三好に殺害される噂が流れました。心配した公家たちが近衛邸を訪れましたが、ただの噂でした。また、三好長逸と岩成友通が近衛邸を訪れたため「一向に存ぜぬ由」と誓紙を書きます。義輝殺害については責任を問わない立場を明らかにしました。

永禄9年(1566年)。松平家康が姓を「徳川」に変更。従五位下三河守になることを朝廷に斡旋しました。

永禄11年(1568年)9月。織田信長が足利義昭とともに上洛。10月18日義昭を征夷大将軍にします。

ところが、義昭は義栄の将軍任官に関わった公家を処分。前久も朝廷から追放されてしまいます。

二条晴良は前久のライバル。上洛する前から義昭に接近し。義昭上洛後は前久の責任追求の急先鋒にたった人物でした。

義昭包囲網に参加

都を追放された前久は丹波国の赤井直正を頼ります。その後、本願寺顕如を頼り摂津国の石山本願寺に行きました。

前久は関白を解任され次の関白には義昭の推薦で二条晴良がなりました。

三好三人衆が織田信長・足利義昭した際には、反信長・義昭包囲網に参加。

このときの前久は信長には恨みはなく、自分を朝廷から追い出した義昭への対抗心で参加したようです。

元亀2年(1571年)末まで大坂に滞在。それ以降、河内若江の三好義継のもとに移動。このころ三好義継は反義昭。信長勢の一角になっていました。

天正元年(1573年)7月。足利義昭が信長によって京から追放され。河内若江の三好義継のもとにやってきました。

この前後、前久は京に近い丹波の赤井直正のもとへと移動しました。義昭といっしょには居たくなかったのでしょう。

前久としては義昭さえいなくなればいいので、信長包囲網に加わるつもりはありません。

織田信長時代

天正3年6月28日(1575年)。織田信長の許しを得て京都に戻りました。

前久と信長は親しくなります。

前久は公家には珍しく鷹狩や馬が好きでした。信長と共通の趣味がありよく話をしたり手紙を交わしています。

信長を前久を公家の中でも特別扱いします。利用価値がある。と考えたからです。

前久もかつて上杉謙信に期待したように、混乱した京都を安定できる大名として信長に期待したでしょう。

天正3年(1575年)9月。薩摩国鹿児島の島津義久のもとへ向かいました。信長の依頼で、毛利輝元包囲網作りのため大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和解を仲介しました。

天正5年(1577年)2月、京都に戻りました。

天正6年(1578年)。准三宮(太皇太后・皇太后・皇后に準ずる称号)の待遇をうけました。

石本願寺との和睦交渉を行う

天正7年(1579年)末。石山本願寺と信長の戦いは10年近く続いていました。本願寺と信長の双方が戦いを終わらせようと朝廷に働きかけました。

天正8年(1580年)3月。正親町天皇の勅命で織田信長と石山本願寺の和睦が行われることになりました。朝廷が派遣する使者とは別に前久は使者一員になり実質的な交渉を行い、信長有利に交渉をまとめました。

その後は、島津と大友の和睦も斡旋しました。

天正9年(1581年)。信長は京都で馬揃えを行いました。前久も騎馬で参加しました。

天正10年(1582年)2月2日。太政大臣になりました。

3月。信長の武田攻めに同行しました。前久は直接戦闘は行っていませんが騎馬に乗り使者を引き連れて武将として参加。当時の公家社会では公卿が武家の戦いに同行するのは批判的でした。それでも前久は信長の軍に同行したのです。

太政大臣を辞任しました。急な辞任については様々な説があります。

信長が「征夷大将軍・太政大臣・関白」どれかに任命される可能性がありました。そのため太政大臣の座を開ける必要があったと考えられます。いずれにしろ6月2日に信長が本能寺で死亡したためどのような意図があったのかは不明です。

本能寺の変で疑われる

天正10年(1582年)6月2日。本能寺で織田信長が明智光秀に討たれました。

そのとき、明智の兵が近衛邸の屋根に登り信忠のいる二条御所を弓矢や鉄砲で攻撃しました。

前久は信長の死亡を聞くと出家「龍山」と名乗り山城国嵯峨に移り住みました。

ところが織田信孝や羽柴秀吉から、明智光秀に味方したと疑われてしまいます。近衛邸から攻撃した兵がいたからです。明智の兵が勝手に行ったものでしたが、前久の責任を追求する声が公家の間からも出ていました。

身の危険を感じた前久は、11月 遠江国浜松の徳川家康を頼って身を寄せます。

家康のとりなし秀吉の誤解は解けたので天正11年(1583年)9月に京に戻りました。

ところがその後、秀吉と家康が小牧・長久手の戦いで戦います。

天正12年(1584年)。奈良に避難しました。秀吉と家康の和睦後、京に戻りました。

天正13年(1585年)7月。羽柴秀吉を猶子(ゆうし:形式上の親子にすること)にしました。

隠棲後
天正15年(1587年)以降。慈照寺東求堂に移り住みます。現在では銀閣寺として知られる、慈照寺は足利将軍家ゆかりの寺です。

慶長5年(1600年)。関ヶ原合戦。このときは中立を保ちましたが、逃げる島津兵を匿いました。

慶長17年(1612年)5月8日、死去。享年77。
京都東福寺に葬られました。

 

戦国時代には戦いを避けるため地方に避難する公家もいました。前久も避難もしましたが、それだけではない積極的な遠征も目立ちます。武家のような振る舞いもありました。

近衛前久は摂関家に生まれ、関白になりながら戦国の世で無力さを味わったことが大きく影響しているようです。上杉謙信や織田信長など有力な武将と付き合い、天下を安定させようとしました。挫折も多く味わいましたが信長達有名武将の活躍の裏には前久の尽力もあったのです。

参考文献

・谷口研語,”流浪の戦国貴族近衛前久”,中央公論社。
・著:太田牛一,訳:中川太古,”現代語訳 信長公記”,新人物文庫。

 

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