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信長に反乱を起こした松永久秀の最期は大仏殿炎上の報いか?

松永久秀は織田信長とともに足利義昭の上洛を助け三好三人衆と戦いました。

ところが三好三人衆と和睦したした久秀は足利義昭と対立します。そして織田信長とも対立することになります。久秀は三好宗家が滅ぼされたあと、織田信長の配下になりました。

織田信長の配下になったあとの人生と。信長を裏切り最期を迎えるまでを紹介します。

織田信長に服従後の久秀

天正2年(1573年)正月。久秀は降伏が許された礼のため岐阜に行き、不動国行などの太刀を献上。

時期は不明ですが、茶器の付藻茄子なども信長に献上しました。

3月には多聞山城に織田配下の武将が入りました。

12月24日。久秀は剃髪して「道位」と名乗ります。今度こそ隠居するつもりだったのでしょう。

その後。久秀の目立った活動は見られなくなります。

信長は大和国の支配を塙直政と筒井順慶たちに任せました。

久秀は筒井順慶とは険悪でしたが、塙直政とは良好な関係を築いていたようです。

久秀は信貴山城を守り、久通は龍王山城に移りました。織田配下の武将としては久通が各地を転戦しました。

天正3年(1574年)には、三好康長も織田信長に降伏。阿波三好家も織田家と戦う意志は無くし、康長を通じて信長と和睦します。

天正4年(1575年)。大坂本願寺ぜめを行っていた塙直政が討ち死に。大坂本願寺攻めにてずる織田信長は松永久秀を呼び出しました。

久秀は佐久間信盛、細川藤孝らとともに戦いました。本願寺に押され気味だった戦況をを盛り返しました。

その後、天王寺城の付城の担当になりました。

その後、本願寺と織田信長は和睦。大坂本願寺は破棄されました。

塙直政死後の大和国支配は筒井順慶に任されました。久秀としては宿敵の筒井順慶の下におかれるのは屈辱だったでしょう。

6月。信長は多聞山城の解体を命令。多聞山城の資材を京都に移転させるというのです。ところがその後中断。

天正5年(1576年)6月。信長は多聞山城の「高矢倉」を安土に移すように筒井順慶に命令。久秀にも人足を出すように命令が来ました。久秀が築いた多聞山城は解体されました。久秀は自らの手で多聞山城を解体することになってしまいました。

織田信長に反乱を起こす

8月17日。久秀・久通親子は天王寺城を出て、信貴山城に立て籠もりました。同じ頃。家臣の森氏と海老名氏も片岡城に移りました。

信長は久秀が立てこもった理由がわからず不満があるなら言うように伝えてきました。しかし久秀は籠城をやめません。

信長は久秀の知行を差し押さえ。織田信忠・細川藤孝・明智光秀・筒井順慶を信貴山城に派遣しました。

10月1日。明智光秀・細川藤孝を中心にした織田軍は片岡城を攻め落とします。久通が居城にしていた柳本城も落城しました。このとき久通も討ち死にしたという噂が広がりましたが誤報だったようです。

10月3日。信忠が率いる織田軍が信貴山城を攻めました。

10月5日。信長の人質になっていた久通の14歳と12歳の息子が京都で引き回され。六条河原で処刑されました。

10月9日。信貴山城周辺の建物は焼き払われ、落城は確実になりました。

10月10日。追い詰められた久秀・久通親子は城内で自刃して果てました。

11日には久秀親子・主従の首4つが安土城の織田信長のもとへ届けられました。

久秀が信長に反乱を起こした理由はよくわかっていません。しかし信長配下になって以降の久秀は筒井順慶の下におかれ屈辱的な扱いを受けてきました。さらに毛利・上杉とつながる足利義昭による調略もあったようです。

久秀以前にも浅井長政など織田信長を裏切った人物はいました。

しかし配下の者で反乱をおこしたのは久秀が初めてです。久秀の死後。別所長治、荒木村重らが織田信長に反乱します。そしてその先には明智光秀の本能寺の変があるのかもしれません。信長の組織経営の問題点が表面化するのが久秀の反乱からです。

大仏殿炎上の報いか

興福寺多聞院主の英俊は、久秀が大和国に来て依頼多くの寺院が焼かれたことを回想し、久秀と東大寺大仏殿炎上が同じ日だったのは奇異なこと、と書き残しています(多聞院日記)。

また信長公記には「10月10日の夜。奈良の大仏殿が炎上した・(中略)・大仏殿炎上と同じ月日時刻に松永が焼死した。これはひとえに春日明神のなせるわざだと世の人は舌を巻いて驚いたのである」と書かれています。

こうした偶然も久秀と大仏殿炎上が結び付けられる原因のひとつなのでしょう。

大和国はそれまで幕府も手が出せなかった「宗教王国」でした。久秀は大和国の寺院から既得権を奪い武士の支配する国にしようとしました。また久秀が大和制圧の課程で幾つもの寺院を焼いたのは事実です。

そのため大和の仏教界からは快く思われてなかったようです。久秀が生きたのとそう変わらない時代から「大仏殿炎上は久秀の悪行の象徴的な出来事」として印象付けられたのです。

それは織田信長が浅井・朝倉や山門との戦いで比叡山周辺を焼き討ちしたのが、いつのまにか神仏を恐れない大虐殺者にされてしまったのと似てるかもしれません。

宗教勢力がからむと必要以上に悪人にされてしまうものなのです。

自爆は作り話

松永久秀が落城時に城内の火薬に点火して名物茶器の古天明平蜘蛛とともに自爆したという話があります。第二次世界大戦後に作られた作り話です。

江戸時代には、久秀が平蜘蛛の釜を割って切腹した。という話が茶会での噂話や浮世絵で紹介されました。この話が誇張されて伝わっているのです。

平蜘蛛はどこかの時点で破損したのは事実ですが、後に修復されて若江三人衆の多羅尾綱知が使っています。失われたわけではありません。

 

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参考文献

・天野忠幸,”松永久秀と下剋上”,平凡社。
・編:天野忠幸,”松永久秀歪められた戦国の梟雄の実像”,宮帯出版社。
・太田牛一,訳:中川太古,”現代語訳 信長公記”,新人物文庫。

織田家
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