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朝倉義景 年表

越前(福井県)の戦国大名・朝倉義景の一生を年表で紹介します。

数え歳で年齢も書いたので義景が何歳のときに何がおきたのかわかるようにしています。

朝倉義景 年表

天文2年(1533年)9月24日。(数え年で1歳)
 朝倉義景誕生。幼名・長夜叉。
 父は越前の戦国大名・朝倉孝景。母は生母は広徳院(光徳院)。若狭国守護・武田氏の一族。

天文3年(1534年)。織田信長誕生
天文6年(1537年)。豊臣秀吉誕生
天文11年(1543年)。徳川家康誕生

天文17年(1548年)3月。(16歳)
 父の孝景が死去。
 長夜叉(義景)は元服して延景と名乗ります。
 延景(義景)が16歳で家督を継ぎます。

 弘治元年(1555年)までは従曾祖父の朝倉宗滴(教景)が補佐していました。

天文21年(1552年)6月16日。(20歳)
 室町幕府第13代将軍・足利義輝から”義”の字をもらい「義景」と名乗ります。
 左衛門督(さえもんのかみ)の官位を与えられます。左衛門督は室町幕府では管領家の畠山氏が名乗ることの多かった官位です。没落した畠山氏に代わり、朝倉氏は室町幕府を護る重要な武家と認められました。

弘治元年(1555年)。(23歳)
 朝倉宗滴が死去。隆景が自ら政務を仕切るようになります。

永禄2年(1559年)11月9日。(27歳)
従四位下。

永禄6年(1563年)8月。(31歳)
若狭国の粟屋勝久を攻めました。

永禄7年(1564年)9月。加賀に出陣。

足利義昭を保護

永禄8年(1565年)5月19日。(33歳)
将軍・足利義輝が三好義継らに殺害されました。
義景は武田義統の書状で将軍が殺害されたことを知ります。

義輝の弟・覚慶(足利義昭)が奈良で松永久秀によって興福寺に幽閉されます。

朝倉義景は覚慶を開放するために松永久秀と交渉しました。

7月28日。覚慶(足利義昭)が興福寺を脱出。近江に逃れました。
8月。義景が若狭に出陣。

永禄9年(1566年)9月。(34歳)
足利義昭(このときの名は義秋)が越前の敦賀に到着。義景は景鏡を使者として送り義昭を出迎えました。

永禄10年(1567年)。(35歳)
3月。家臣の堀江景忠が謀反。加賀から能登に逃れます。
10月。足利義秋(義昭)が越前一乗谷に来ました。

永禄11年(1568年)。(36歳)
3月。母の武田氏が二位の尼になりました。
4月。足利義秋が元服して”義昭”と名乗ります。
6月。義景の嫡男・阿君丸が急死。

7月。義昭は織田信長を頼り尾張に行こうとします。義景は義昭を引き止めましたが、義昭は信長の元に行きました。

8月。若狭守護・武田家の内紛に介入。若狭を支配下におきます。

9月。織田信長・足利義昭上洛。

織田信長との対立

永禄12年(1569年)。(37歳)
織田信長が義昭に上洛を命じます。義昭は拒否しました。

永禄13年(1570年)。(38歳)
4月。織田信長が越前に侵攻。越前の天筒山城と金ヶ崎城が陥落。

姉川の戦い

6月。浅井長政への援軍として朝倉景健を派遣。

6月28日。姉川で浅井・朝倉勢が織田・徳川勢と戦います。

浅井勢と織田勢が多くの死者を出し(具体的な損害は不明)、浅井氏は横山城を失いました。しかし朝倉勢の討死は120余騎。

織田勢は小谷城を落とせずに撤退。

景健は義景から責任を問われることもなく、その後も大将として戦場に出ました。

一般に言われるほどの織田・徳川勢の圧勝ではなかったようです。

志賀の陣

永禄13年(1570年)9月13日。(38歳)
大坂本願寺と連絡して織田信長を討つため一乗谷を出発。

9月20日。朝倉・浅井軍が下坂本を攻め、森可成・織田信治を討ち取るります。

9月21日。醍醐・山科に陣を置く。

9月24日。織田勢、大津口から坂本を攻めたため、比叡山に陣を置く。

織田信長からの合戦の申し入れがありましたが拒否しました。

11月26日。織田軍が別働隊を送り堅田を攻めさせましたが、防ぎました。

12月9日。正親町天皇から和睦の勅命がでました。

12月13日。織田信長と人質を交換して和睦。

12月15日。越前に撤退しました。

この年。次男・愛王が生まれました。

元亀2年(1571年)。(39歳)
義景は顕如と和睦。顕如の子・教如と娘の婚約させました。

信長包囲網に参加

元亀2年(1571年)8月。(39歳)
義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃しましたが敗退します。

織田信画が比叡山焼き討ち。
 山門(比叡山)が朝倉・浅井と同盟して信長に敵対した報復です。

元亀3年(1572年)7月。(40歳)
織田信長が浅井氏の小谷城を包囲しました。

義景が小谷城救援のため出陣。織田軍と戦闘になると前波吉継や富田長繁ら有力家臣が寝返ります。

織田信長からの合戦の申し入れがありましたが拒否しました。

10月。武田信玄が甲府を出発。遠江・三河に攻め込みました。
これより前。義景は本願寺顕如とともに信玄に協力を要請。東西から織田・徳川勢を挟み撃ちにする考えでした。

義景は浅井勢とともに織田方の虎御前山砦を攻めますが敗退。

12月。部下の疲労と積雪を理由に越前に撤退。

義景の撤退に信玄は激怒。本願寺顕如も義景の撤退を憂慮、再びの出陣を促します。

信長包囲網の崩壊

元亀4年・天正元年(1573年)(41歳)

2月。足利義昭が挙兵。信長と敵対する意志を示しました。義昭は朝倉義景に志賀に出陣を命じます。

2月16日。石山本願寺と信長が和睦。

3月11日。敦賀に出陣。

3月29日。信長が京都東山に布陣、二条城に立てこもる義昭と対峙します。

4月7日。正親町天皇の勅命で信長と義昭が和睦。

4月12日。同盟者の武田信玄が死去。

5月。一乗谷に戻りました。

7月3日。義昭は信長との和睦を破棄。槇島城に立て籠もりました。

7月17日。義景は一乗谷を出発。

7月18日。義景は敦賀に布陣しました。

7月18日。槇島城が陥落。義昭は京都から追放されます。

8月6日。浅井氏から救援要請があったので敦賀を出発。

8月12日。織田軍に攻められ大嶽砦が陥落。翌日には丁野砦でも陥落。

義景は小谷城救援を中止して撤退しました。しかし織田軍の追劇にあって壊滅的な被害が出ます。

撤退途中にも味方の逃亡が相次ぎます。

義景の最期

8月15日。義景は一乗谷に戻りました。しかし残ったのは10人程度。

8月16日。一乗谷を放棄して東雲寺に逃れます。

8月17日。平泉寺に助けを求めますが、平泉寺は拒否。

8月18日。織田信長率いる織田軍が一乗谷を攻撃。

8月19日。朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れました。

8月20日。賢松寺が朝倉景鏡の裏切りにあって囲まれます。追い詰められた義景は自刃しました。享年41。

 

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