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波多野秀治 :丹波勢の意地をみせ明智光秀を苦しめる

波多野秀治は丹波の大名。全盛期には丹波最大の大名といわれた波多野氏でした。

しかし秀治は明智光秀との戦いに敗れ、波多野氏の最後の当主となりました。

滅び方が悲惨だっただけに「氷上郡史」「総見記」「籾井家日記」など様々な物語にも登場します。ですが脚色された姿が多く伝わっています。

歴史上の波多野秀治はどのような人物だったのか紹介します。

波多野秀治とは

家紋:丸に抜け十字、丸に竪二つ引両

名 前:波多野秀治(はたの ただはる)
幼名:千熊丸(幼名)
生 年:年(1679年)
没 年:年月日(1703年)

父:波多野元秀
あるいは実父:波多野晴通、養父:波多野元秀
晴通と元秀は同一人物という説もあり。
母:不明
子:女子

波多野一族とは

波多野氏の起源については諸説ありますが、石見国の波多野清秀が丹波に移り住んだのが波多野氏の最初といわれます。

清秀の名前が最初に記録に出てくるのは室町時代の文明17年(1485年)。応仁の乱では東軍・細川勝元に味方して多気荘(兵庫県篠山市の一部)を与えられたようです。

清秀が丹波の領主になってほぼ100年の間、丹波の有力な領主として存在感を持ちました。

波多野秀忠の代には細川晴元に従いました。幕府や寺社仏閣の荘園を横領して領土を広げます。秀忠の時代が波多野氏の全盛期でした。波多野家は大名といえる規模に成長しました。

秀忠の息子・元秀も細川晴元に味方して三好長慶と戦いました。しかし三好方に敗れ波多野家の居城・八上城を奪われます。10年後。八上城を取り戻し秀治に受け継がれます。

波多野秀治

永禄11年(1568年)9月。足利義昭とともに織田信長が上洛。

永禄12年1月。三好三人衆の芥川城(高槻市)を討ったとき丹波衆が駆けつけた。波多野秀治もこのとき信長・義昭に服属したようです。

元亀元年(1570年)11月。波多野右衛門大夫が馬と太刀を信長に献上しました。右衛門大夫とは秀治のことです。

第一次黒井城の戦い

天正3(1575年)。信長は丹波攻めを開始。
信長は明智光秀を派遣しました。
同時に信長は朱印状を出して丹波の国人衆に光秀に従うよう命令しました。

10月。明智光秀は荻野直正が立て籠もる黒井城を囲みました。このとき波多野秀治たち丹波の兵も光秀に従いに加わりました。光秀は来年の春までには落ちるだろうと楽観視していました。

城を囲んだまま年があけました。

天正4(1575年)1月15日。黒井城を包囲している明智軍に対して波多野秀治が攻撃しました。
大路城主の波多野秀香軍、霧山城主の波多野秀尚軍も加わり明智軍を攻撃しました。

突然の味方の攻撃に明智軍は撤退。撤退した先でも赤井忠家が待ち構えて攻撃しました。

光秀軍はあわてて敗走、京都に戻りました。

城を囲んでいた波多野秀治が突然明智軍を攻撃した理由はわかりません。

「籾井家日記」には波多野秀治と荻野直正には密約があり裏切りは予定どおりだったと書いてますが、「籾井家日記」自体が波多野氏を英雄扱いしている読み物なので架空の可能性もあります。

しかし荻野直正の正室は波多野元秀の娘。つまり波多野秀治の姉妹になります。あるいは秀治は元秀の養子ともいわれているので兄弟ではなかったにしても親戚であったのは間違いありません。

波多野家と荻野家には婚姻関係があります。最初から計画していたのか、包囲が長引く中で元秀と直正の間になんらかのやりとりがあったのかはわかりません。波多野家と荻野家・赤井家の同盟関係は強くこのあとも明智軍に抵抗します。

光秀はこのあと石山本願寺ぜめ、紀州征伐、加賀攻め、信貴山城の戦いがあって丹波を攻める余裕はありませんでした。

丹波勢は再び織田軍が攻めてくると考え、荻野直正らが吉川元春に書状を送り援軍を依頼しました。しかし毛利の援軍は来ません。丹波勢は自分たちの力で織田軍と戦わなければいけませんでした。

八上城の戦い

織田軍が再び丹波にあわられたのは天正5年10月。
明智光秀と細川藤孝が軍を率いていました。
光秀は丹波と山城の境にある桑田郡(京都府亀岡市)の城を落とし12月には坂本に帰りました。しかしその間、黒井城の荻野直正が病死。波多野家は有力な味方を失ってしまいました。

年が明けて天正6年(1576年)。信長は自ら丹波攻めをすると張り切っていましたが、結局光秀に滝川一益・丹羽長秀を同行させて丹波に向かわせました。光秀たちには「油断するなと」書状を送る念の入れようでした。

3月。光秀は黒井城攻めの前に八上城を先に攻めました。前回の黒井城攻めで波多野秀治の裏切りにあったので慎重になっていたのです。

しかし八上城は険しく堅固な山城です。力で攻めても落とせません。そこで光秀は山を取り囲み、堀を掘って、柵を何重にもつくりました。

ところが包囲の準備ができると光秀は八上城を部下に任せて、摂津に向かいました。荒木村重や別所長治が裏切ったのです。光秀は信長の命令で播磨に行きしばらく帰ってきませんでした。

その間も光秀は八上城を取り囲む部下に手紙を送り細かく指示していました。

天正7年。光秀は八上城包囲に戻ってきました。光秀は金山仮城を作りました。八上城と黒井城の連絡路を絶ちました。同族の波多野宗長・宗貞親子がそれを阻止しようと光秀と戦いましたが討ち死にしました。光秀は八上城の包囲を続けながら次の黒井城攻めの準備も始めていました。

その間、八上城は厳重に包囲されていたので兵が外に出ることは出来ません。外から兵糧を運び込むことが出来ませんでした。1年以上包囲されていた八上城は極度の飢餓状態になりました。

八上城が飢餓に苦しんでいる間、明智光秀は城内の調略を行っていました。

八上城内では食料が尽きると場内の草木を食べ、それが尽きると牛馬を食べました。我慢できず出撃した兵もいましたが明智軍に討ち取られました。

5月になると調略がかなり進み。光秀は「内応者と手はずをととのえたのでいつ本丸が焼け崩れるかもしれない。もしそうなっても定められた囲みの部署を離れて城へ攻め上がることは一切してはならない」と城を包囲している部下に指示をだすほどになりました。

八上城内では徹底抗戦派と和平派に意見が別れましたが最後には和平派が優勢になりました。

6月1日。波多野秀治は和平派に捕らえられ光秀に差し出されました。あるいは和平派に説得され降伏を決めたのかもしれません

光秀に捕らえられた波多野秀治と弟二人は安土に護送されました。護送したのは四王天政孝(しおでまさたか)という武将です。

6月6日。波多野秀治と弟二人は縄をかけられ馬に乗せられ京都市内から安土に向かいました。

6月8日。波多野秀治と弟二人は安土で処刑されました。波多野秀治に対して信長は「度重なる裏切り、侍の本文を知らず」と激怒していたといわれ、波多野一族はかなり信長を苦しめていたようです。

「氷上郡史」「籾井家日記」には
天正4年6月(1576年)に織田信長ら3万の兵と波多野秀尚・二階堂の4千の兵が京都の桂川で戦い波多野が勝ったと書かれていますが。そのような戦はありません。

「籾井家日記」は日記とありますが、読み物として書かれています。波多野一族を英雄として祭り上げて書いているので事実と受け止めないほうがいいです。

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