三好実休・兄長慶を支え四国勢をまとめて戦った三好四兄弟の次男坊

三階菱に五つ釘抜

三好実休は三好長慶の弟。三好之虎ともいいます。

畿内で勢力拡大を行う兄に代わり、三好家本拠地がある阿波を守り阿讃衆(阿波と讃岐の国衆)をまとめていました。

長慶の重要な戦いには援軍を率いて海を渡り加勢に向かっています。

弟の安宅冬康、十河一存とともに畿内で勢力拡大を続ける長慶の大きな支えになりました。

三好実休の生涯を紹介します。

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三好実休とは

三好家の家紋
三階菱に五つ釘抜三階菱に五つ釘抜

名 前:三好 実休(みよし じっきゅう)
幼名:千満丸
改名:彦次郎→之相→之虎→実休
別名:物外軒
生 年:大永7年(1527年)か大永6年(1526年)
没 年:永禄5年3月5日(1562年4月8日)
父:三好元長(みよし もとなが)
母:慶春院
兄:三好長慶、弟:安宅冬康、十河一存、野口冬長
妻:正室:久米義広の娘
継室:岡本牧西の娘・小少将
子: 長治、十河存保、安宅神五郎、娘(新開実綱室)

書物によっては「義賢」や「之康」の名前になっていることがあります。生前名乗ったと思われるのは「之相」、1552以前には「之虎」に改名。1558年から「実休」の法号を名乗ったようです。

おいたち 

大永7年(1527年)か大永6年(1526年)。長慶は三好元長の次男として生まれます。

幼名は千満丸。

三好家は阿波(徳島)を本拠地にする大名。阿波国守護細川家の家臣でした。三好一族は細川家に従って畿内に進出、中央政治にも関わるようになります。

三好元長は室町幕府管領・細川晴元(ほそかわ はるもと)の重臣でした。

三好家は阿波(徳島県)に本拠地をもつ豪族ですが細川家に仕えて畿内に進出。元長は山城国下五郡の守護代になっていました。

父・三好元長が自害に追い込まれる

享禄6年(1532年)5月。父・三好元長は畿内で戦っていましたが、細川晴元と対立。晴元の差し向けた一向一揆に襲われ自害に追い込まれました。

天文元年8月9日(1532年9月8日)。父の49日に兄・仙熊丸(長慶)とともに見性寺(徳島県板野郡藍住町)に寄進しました。

阿波三好家を代表する立場になる

阿波細川家の当主・細川持隆に仕えました。

兄・長慶は細川吉兆家の細川晴元に仕えましたが、実休は阿波にとどまりました。畿内での活動は兄・長慶が行い。三好家の本家がある阿波での活動は実休が担当しました。

天文8年(1539年)。細川持隆に従って伊予の河野氏との戦いに参戦しました。このときは三好勢の責任者の立場でした。

父・元長が死亡したので幼い頃から阿波三好家を代表する立場になっていたのです。

とはいっても実休はまだ13、14歳。叔父・三好康長が補佐していました。

 兄 長慶を助けるため畿内に上陸

天文12年(1543年)7月。細川高国の後継者を自称する細川氏綱が1万の兵で挙兵。細川晴元と対立しました。

将軍・足利義晴、河内守護・畠山稙長や河内守護代・遊佐長教なども合流して一大勢力になりました。

兄・長慶は晴元の命令で氏綱派と戦っていました。ところが氏綱派の勢いが強く、晴元・長慶派は敗退を重ね圧倒的に不利になってしまいました。

長慶は劣勢を覆すため阿波国守護・細川持隆に救援を要請しました。実休と弟の安宅冬康・十河一存たちが畿内に向かうことになりました。

天文15年(1546年)10月。三好実休は阿波衆を率いて出陣。十河一存の率いる讃岐衆、安宅冬康の率いる淡路衆を率いるとともに海を渡りました。500の軍船と2万の大軍は兵庫に上陸。

11月。実休は越水城の長慶と合流。京都に進軍しました。

このころ実休が豊前守を名乗りました。

これに対して将軍・足利義晴が勝軍地蔵山城(京都市左京区)を築城して三好軍に備えました。さらに伊予の河野氏に後方から三好を何とかするように命令します。ところが河野氏も内部の争いや土佐の一条氏・豊後の大友氏との対立が続いていたので三好勢を脅かすことはできませんでした。

天文16年(1547年)。実休は長慶とともに氏綱派と戦い畿内の城を落していきます。

7月。三好軍は相国寺(京都市上京区)に布陣。将軍・足利義晴の籠もる山城に迫ると足利義晴・義輝親子が勝軍地蔵山城を自ら焼いて近江坂本に逃亡しました。

舎利寺の戦い

残る敵は高屋城の細川氏綱・遊佐長教です。

天文16年(1547年)7月21日。三好軍は高屋城に向かいます。氏綱・長教軍も高屋城を出て迎え撃ちました。

両軍は仏舎利寺付近(大阪市生野区)で戦いました。
この戦いで両軍合せて2千名が戦死したといわれます。この戦いで三好軍が勝利。
足利義輝は細川晴元と和睦。京都で抵抗していた細川国綱も戦死しました。

長慶と晴元は氏綱・長教に勝利しました。

ところが、三好長慶と細川晴元が対立。

和泉の守護代松浦氏が長慶の味方になりました。松浦氏の家督を継いだ松浦万満が幼いため、十河一存が後見人になりました。

1552年以前には「之虎」と名を変えました。

永禄元年(1558年)。三好実休、十河一存、安宅冬康が万満の保護を名目に松浦氏の本拠地、岸和田城(大阪府岸和田市)に入りました。実休は城を改修。十河一存、安宅冬康と兵2800を駐留させました。

讃岐衆をまとめていた十河一存が岸和田城主となったため、実休が讃岐衆も配下におきました。

主君・細川持隆を殺害した勝瑞事件

三好長慶と細川晴元の対立は、勝瑞城で実権を握っていた三好実休と阿波国守護・細川持隆との関係も悪化させました。

「三好記」によると。
細川持隆は相撲を口実に三好実休をおびきよせ暗殺しようとしました。ところが配下の四宮与吉兵衛が実休に密告。暗殺計画を知った三好実休は兵3000を派遣しました。持隆は見性寺で兵を集めようとしますが100しか集まりません。

追い詰められた持隆は天文21年8月19日(1552年9月7日)見性寺で自害しました。

細川持隆は三好長慶と細川晴元が対立していたときもとくに実休と対立する様子は見せていません。実休と持隆が対立した理由はよくわかっていません。

実休は持隆の子・細川真之を阿波国守護にしました。

鑓場の戦い

阿波で大きな力を持ち、持隆を死に追いやった実休を快く思わないものもいました。

芝原城の城主・久米義広は妻が持隆の妹でしたが、娘を実休に嫁がせていました。

久米義広は持隆の仇討ちをしようと、親しくしていた近隣の城主達ともに兵を集めました。

その動きを知った実休も兵を集めます。

三好実休と久米義広の軍は中富川流域で激突。久米方は全滅しました。

阿波国内での勢力固めをする一方で、畿内で戦う長慶にも加勢しました。

天文23年(1554年)から天文24年(1555年)にかけては播磨に遠征。

足利義冬の逃走

弘治元年(1555年)の春、足利義冬は阿波を出て周防国(山口県)の大内氏を頼りました。

細川持隆の死後。実休と足利義冬の関係は険悪になります。義冬は持隆が阿波に招いていました。しかも2人の妻は大内義隆の娘。親類関係にあったのです。義冬がたよったのは大内氏でしたがその大内氏も弘治3年(1557年)に毛利元就に破れ、滅亡します。

北白川の戦い

永禄元年(1558年)。このころから「実休」の法号を名乗ったようです。

三好長慶に不満を持つ足利義輝と細川晴元は六角義賢の支援をうけて挙兵。京都で戦いました。大規模な尖塔ではなく小競り合いが続き膠着状態になります。

長慶は四国から軍を呼び寄せることにしました。

まず7月には叔父・三好康長、8月から9月にかけて三好実休・安宅冬康・十河一存と息子の三好義興が兵庫に上陸。

9月18日に堺で三好一族があつまり会合をひらいたあと、京都へ向けて進軍。京都東山に立てこもる足利義輝・細川晴元に圧力をかけました。

不利だと考えた六角義賢は長慶と和睦交渉をすすめ、長慶と義輝は和睦しました。義輝は京都に戻りましたが、和睦に不満な晴元は逃走しました。

永禄3年(1560年)。兄・長慶とともに河内守護・畠山高政や安見宗房と戦います。戦いに勝ち、彼らを河内から追放。

実休は河内守護を任され高屋城で指揮をとることになりました。

久米田くめだの戦い

永禄4年3月18日(1561年4月2日)。病気療養中の岸和田城城主・十河一存が死亡。

畿内での三好長慶の勢力が衰えたと判断したのでしょうか。畿内で畠山高政と六角義賢が挙兵しました。

7月。畠山高政は安見宗房、遊佐信教、根来衆1万とともに岸和田城を包囲しました。

六角義賢は永原重隆に2万の兵をもたせて京都の将軍地蔵山城(京都市東山)に派遣。

永禄5年(1562年)。久米田の戦いでは三好実休率いる阿讃連合7000余の一員として参戦。

六角・畠山の動きに対して、三好長慶は嫡男・三好義興、松永久秀を京都の六角勢に差し向けました。

高屋城城主の三好実休と淡路の安宅冬康、阿波に帰国していた三好康長、三好長逸、三好政康を岸和田城の援軍に派遣しました。

三好康長、三好長逸ら阿波の三好衆は阿波と讃岐の軍勢7000を率いて岸和田に上陸。その阿波勢の中に三好国虎がいました。

三好勢と畠山勢は岸和田の久米田で五、六丁(5~600m)の距離で対峙しました。合戦が始まりました。

12月。三好正成が討ち死に。政康が率いました。

正月に入り戦いは一時中断。年が明けて2月から戦いが再開。

3月5日。安見宗房、根来衆が打って出てきたので、篠原長房率いる阿波衆が突撃しました。

しかし篠原勢の背後に湯川直光隊が回り込みました。

篠原隊を援護するため実休は三好康長隊、三好政康隊、三好盛政隊を送り出します。

ところが兵を送り出したことで、三好実休のいる本陣が手薄になりました。そこに畠山勢の根来衆の鉄砲隊が本陣に攻撃しました。馬廻衆が倒れ、実休も戦いましたが銃撃で三好実休が負傷。落馬したところを討ち取られました。

享年37。

三好実休の討ち死にで三好勢は総崩れ。三好勢は撤退を決意しますが撤退戦も困難を極めました。畠山軍を突破して堺に逃れ、そこから四国に渡りました。

以後、三好勢では困難な状況のことを「久米田の退き口」と言うようになりました。

この戦いは日本で最初に鉄砲が組織的に使われた合戦でした。長篠の合戦の17年前のことです。

実休の辞世の句は
「草からす霜又今日の日に消て因果は爰にめくり来にけり」

因果とは細川持隆を殺害したことだと考えらます。

阿波・讃岐の兵をまとめ三好長慶を支えた実休が37歳の若さでこの世を去りました。その後、三好家には不幸が重なり衰退します。

三好実休と弟・十河一存の死は三好家衰退のきっかけになったといえます。三好家にとって実休の存在はそれほど大きかったのです。

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