猪俣邦憲・名胡桃城の首謀者は真田と因縁の相手

豊臣秀吉が北条氏を攻めるきっかけとなったのが名胡桃城事件。
真田氏の城だった名胡桃城(なぐるみじょう)を、北条氏が奪い取ってしまったのです。

その事件を起こしたのが猪俣邦憲(いのまたよしのり)。
でもそれ以前から、猪俣邦憲と真田氏との間には因縁がありました。

ドラマでは語られることのない因縁とは何だったのでしょうか。

 

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猪俣邦憲(いのまた よしのり)

 

いつ生まれたかは不明。
当初は富永助盛(とみなが すけもり)と名のっていました。
富永家は代々北条家に使える一族です。
天正11年(1583年)ごろ猪俣家に婿養子に入り名を改めました。

小田原の北条氏に仕えます。特に北条氏政の弟・氏邦に仕えたとされます。

 

沼田城攻め

 

天正10年6月(1582年)の本能寺の変以降に起きた旧武田領をめぐる争いを最近の歴史研究者は天正壬午の乱と呼んでます。

北条氏の上野国侵攻では、北条氏邦に仕え北条軍の先方となって働きました。
氏邦は北条家当主・氏直を補佐して北条家の領土拡大に尽力します。

織田家重臣・滝川一益が関東から撤退した後も、真田昌幸が北条氏直に抵抗しますが沼田城が陥落する前に和睦。氏直に従います。
しかし9月に徳川家康に寝返りました。

そこで天正10年10月。北条氏邦は真田攻めをはじめます。
城を次々と落としながら沼田城まで迫りました。

猪俣邦憲は氏邦の命令で兵2000で川田城を攻撃します。
川田城は沼田城を守る砦のひとつ。ここが落ちると沼田は無防備になります。

すると沼田を守る矢沢頼綱が兵を率いて出て来ました。
ですが、その兵はわずか500。

邦憲は川田を攻略中の兵から1500を率いて矢沢頼綱と戦います。
最初は数に勝る邦憲はおしまくります。
ところが、頼綱は60オーバーの老将とはいえ戦上手。
邦憲は陣を崩され敗退。300の兵を失ってしまいました。

しかし、その間に川田城を攻略中の部隊が城を落しました。
川田城を守っていた加藤丹波守は討死。
作戦成功です。

これで勢いづいた邦憲は沼田を守る砦のひとつ阿曾城を襲撃。
阿曾城を守っていた金子美濃守は逃走。
邦憲は阿曾城も手に入れます。
他の砦も北条軍に攻略され沼田城を守る砦は全滅しました。

沼田城の総攻撃をしますが。
沼田城は天然の要害。なかなか落ちません。
氏邦は沼田攻略をいったん諦めて厩橋まで撤退しました。

結局、北条氏と徳川家康が和睦。
その条件として、上野国全てが北条のものになるはずでした。

沼田城攻め(その2)

 

ところが、真田昌幸は沼田を引き渡すことを拒否。
徳川を裏切り、上杉に付いてしまいます。

面目丸つぶれの徳川家康は真田昌幸の上田城を攻撃。
同じころ、北条氏直も沼田を攻撃しました。

このときも矢沢頼綱は戦場に出てきました。
頼綱1000の兵に対して、邦憲は3000の兵で攻撃します。
頼綱は名胡桃方面に撤退します。
勢いに乗った邦憲は追撃しますが、森の中にいた伏兵に攻撃して混乱します。

さらに引き返してきた頼綱と、名胡桃城を守っていた鈴木重則も出てきて邦憲は敗退。
200の兵を失ってしまいます。

邦憲の敗退に、氏直は激怒。
沼田城総攻撃をかけます。

でも、またしても矢沢頼綱が守る沼田城は落ちませんでした。

 

沼田城攻め(その3)

 

天正14年4月(1586年)、
沼田を諦めきれない北条氏直は7万の大軍で沼田攻略を開始します。

 

このときも失敗。
詳細は矢沢頼綱の記事をみてください。

邦憲も氏邦に従って出陣したでしょう。
このときは大部隊で行動したので、邦憲は目立つような働きはしてません。

 

沼田攻め(その4)

 

天正15年2月(1587年)、北条氏直は猪俣邦憲と由良国繁に沼田責めを命じました。

矢沢頼綱は由良国繁の部隊を撃退。
その後、猪俣邦憲も敗退に追い込みました。

北条の沼田攻略はことごとく失敗しますが、
邦憲はそのたびに出陣し敗退したのです。

歴史ファンからは無能な武将の評価を受ける邦憲ですが、
主君の北条家からはとくに大きな責任を問われることもなく、箕輪城代(群馬県高崎市)を任されます。

氏直や氏邦も手を焼いてる沼田攻めですから、
邦憲ひとりの責任とは考えてなかったのでしょう。

 

天正17年(1589年)、豊臣秀芳の調停で沼田問題に決着がつきます。
沼田の3分の2は北条に、残りは真田のものと決まりました。
明け渡された沼田城は猪俣邦憲が城代を務めることになりました。

あれほどてこずった沼田城がついに北条家のものとなり、邦憲は城の主(代理ですが)となったのです。
これが秀吉の「沼田裁定」です。

ところが、これが次の争いのもとになるのでした。

 

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名胡桃城事件

 

沼田の3分の1は真田のもの。
北条家としては上野国一国が欲しかったのですから、面白くない決定でした。
沼田のすぐ近くには、名胡桃城があり真田の兵が北条の動きを見張っていました。

 

そして名胡桃城事件がおきます。
ただしこの事件の詳細は正確な資料がないとして疑う声も多いのですが。
資料が正確かどうかも研究者によって意見が違うので本当のところは誰にも分かりません。

ここでは通説に従って紹介します。

沼田城を守っていた猪俣邦憲は、名胡桃城を守る鈴木重則の家臣・中山九郎兵衛を調略。
偽の手紙で鈴木重則を城の外におびき出し、その間に中山九郎兵衛が城を占拠しました。

鈴木重則が罠だと気づいたときにはすでに遅く、責任をとって正覚寺で自害しました。

こうして邦憲は名胡桃城を手に入れました。

この間も、氏政からは上野を治めていることについてねぎらいの言葉を送られました。
邦憲は責任を問われることはなかったのです。
同じころ、北条氏邦が宇都宮への侵攻を行ってます。

北条氏直としては秀吉に従うのも仕方ないと考えていたようですが。
秀吉に従おうとしない勢力が北条氏の中にあったということなのかもしれません。

秀吉は首謀者の邦憲の身柄を渡すように求めて来ましたが、北条氏政は拒否しました。

結果として、名胡桃城事件が北条氏攻撃の口実にされてしまいます。

小さな城なので大きな意味はないように思えます。
この話そのものが作り話で秀吉のいいがかりという説もあります。

いずれにしても、北条氏が秀吉に従わないことが問題だったで、
攻撃するための口実はなんでもよかったのです。
徳川家康と豊臣家の間で起きた方広寺の鐘問題と同じです。

結局、大名としての北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされてしまいます。

猪俣邦憲はとらえられて処刑されたとも、
前田家を頼って落ち延びたともいいます。

 

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