矢沢頼綱・沼田を守った最強の老武士

真田昌幸の叔父・矢沢頼綱(やざわ よりつな)。

当主として難しい舵取りをしなければいけない昌幸を支える頼もしい武将です。

真田幸隆とその子らに仕え、戦場で数々の功績を残しました。

いくら知略をめぐらしても戦場で負けては意味がないのが戦国の世の中。

武勇で真田家を支えた矢沢頼綱とはどんな武将だったのでしょうか。

矢沢頼綱はどんな人

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子どものころは暴れん坊でした

天正15年(1518年)、信濃国小県郡真田郷(長野県上田市)の真田頼昌(さなだ よりまさ)の三男として生まれたとされます。通称は 真田源之助。後に真田家を継いだ幸綱(幸隆)の弟になります。昌幸の叔父というわけですね。

小さいころは暴れん坊だったようです。嫡男ではなかったので、京都の鞍馬寺に預けられたようですが寺での生活になじめず追放されてしまいました。

結局、真田郷に戻ってきて武家の人間として生きることになりました。

当時の真田家は隣接する矢沢郷を治める地侍、矢沢家とは仲がよくありませんでした。

矢沢家の養子として入り込み頼綱が当主となると、真田家との対立はなくなりました。でも真田家の家臣ではなく独立した家として活動していました。

天分10年(1551年)5月、信濃国小県郡で海野氏と武田信虎・諏訪頼重・村上義清の連合軍の争いが起ります。海野平の戦いです。この戦いで海野氏側が敗退。海野氏に従っていた矢沢家、真田家は領地を追われてしまいます。

矢沢頼綱は諏訪氏に仲介を頼み武田信虎の配下になりました。
真田幸綱はいったんは上野国に逃れますが、武田晴信の代になって武田家に仕えます。

武田晴信(信玄)時代

武田晴信の代には矢沢家、真田家はともに武田家に仕えるようになります。
武田晴信は、諏訪家、村上家と対立。次々に領地を奪っていきます。
その戦いで矢沢頼綱、真田隆幸兄弟は武田軍の一員として活躍します。

1550年には村上義清が支配していた砥石城を攻めるため、武田軍が出陣。しかし武田軍は大敗します(砥石崩れ)。砥石城攻略を命じられた真田隆幸は1551年5月、調略によって砥石城を手に入れます。砥石城で足軽大将を勤めていた矢沢頼綱が真田隆幸と内通していたのでした。

この功績で真田家は再び砥石城を含む真田郷を取り戻すことができました。

以後も矢沢頼綱と真田隆幸は武田晴信のもとで信濃先方衆として活躍し、村上義清を信濃から追放することに成功します。

真田隆幸は1563年上野国吾妻郡(群馬県吾妻郡)にある岩櫃城の斎藤氏を攻め滅ぼします。この時に岩櫃城攻略戦で頼綱は功績をあげます。以後、真田氏は岩櫃城を拠点に吾妻郡の平定をおこなわれます。その戦いで頼綱は中心的な働きをします。岩櫃城代を勤めることもありました。

1573年に武田信玄、1574年に真田幸隆が亡くなり。武田・真田家はあらたな世代に移ります。

武田勝頼時代

武田家は武田勝頼、真田家は嫡男・真田信綱があとを継ぎました。

信綱は幸隆が亡くなる前から信濃先方衆の筆頭を勤めていましたので、少なくとも1572年ごろには実質的な当主として働いていたようです。

しかし、1575年 長篠の戦で信綱が戦死すると真田家は昌幸があとを継ぎました。

その間も、矢沢頼綱は真田一門の重鎮として甥の真田信綱・昌幸を支えます。

真田昌幸は武田家の重臣として甲府において勝頼に仕えることが多くなります。真田の領地が留守になることが多いので、頼綱が真田家臣に指示を出していました。

沼田攻略

武田勝頼から上野国攻略を任されていた真田昌幸は、沼田に注目していました。
上野国利根郡(群馬県沼田市)にある沼田城はいつもの支城に囲まれ北関東支配の重要な拠点でした。

この沼田攻略では真田昌幸は計略を駆使し金子家清らの沼田の諸侯を味方に引き込みます。

矢沢頼綱は真田軍の総大将となり沼田の各地で北条方と戦います。

天正8年(1580年)5月、矢沢頼綱率いる真田軍は沼田城を包囲。
沼田城を守っていた北条家臣・藤田信吉は降伏、沼田城を明け渡しました。

この功績により矢沢頼綱は沼田城代に任命されます。

このとき、配下にした沼田の諸侯は沼田衆と呼ばれ矢沢頼綱の元で働くことになります。

しかし、1582年2月。武田家は滅亡します。

真田家独立後の矢沢頼綱

沼田城代になっていた矢沢頼綱にも武田家滅亡の知らせが届きます。1582年3月、昌幸からいつ戦がおきても対処できるように、兵糧と兵を集めておくようにとの支持が出ました。

織田信長は上野国を滝川一益に任せました。沼田城には滝川一益の甥・滝川益氏が入ってきたため城を明け渡します。

しかし、1582年6月2日。本能寺の変で織田信長が亡くなると、旧武田領に北条軍が攻めて来ました。

滝川一益と真田家を始めとする信濃、上野の領主は協力して北条氏と戦います。一旦は国境まで北条氏を押し戻すことに成功しますが大軍で責めてくる北条氏に敗退。明智光秀討伐を急ぐ滝川一益は、上野国を放棄して上方に戻ることにします。

滝川軍のいなくなった旧武田領は、北条、上杉、徳川による領地を奪い合いが始まりました。

沼田城は滝川一益から引き渡されます。

矢沢頼綱は沼田城に入ると守りを固めます。

沼田城主時代の矢沢頼綱

天正10年(1582年)6月末。城の守りを固める前に北条軍が4万を超える大軍で攻めてきました。上野国の領主たちは次々と北条軍に敗北、城を奪われていきます。真田の領地である沼田まで迫ってきました。

城に入って間もない頼綱は、北条軍の先発隊をたたくために中山右衛門慰を大将に沼田衆を中心とする部隊を派遣します。

しかし、北条軍に襲撃されると金子家清が早々と逃亡。残された沼田衆は敗走します。孤立した中山勘解由は戦死しました。

戦場でまともに北条軍と戦えないと判断した頼綱は、各支城に防御を固めるよう指示を出し、ひたすら守りに徹します。

さらに、北条軍は上野国だけでなく信濃国にも攻めてきます。
7月。真田郷のある小県まで来た北条軍に対して昌幸は和睦します。

再び迫る北条軍

北条の脅威は去り、その間に矢沢頼綱は沼田城の防御を固めてゆきました。

9月。昌幸は北条を離反。徳川家に従います。

10月。再び北条が沼田に攻めてきました。しかし徳川との戦を行っている北条軍には数万の大軍を出す余裕はありません。北条氏邦が率いる5000の兵が攻めて来ました。

またしても北条軍は真田方の支城を落しながら沼田城に迫って来ます。

氏邦は猪俣邦憲に2000の兵を与えて川田城を攻撃させます。

これに対し、矢沢頼綱は自ら500の兵を率いて出陣。

それを知った猪俣邦憲は1500の部隊を引き連れて矢沢軍を迎え撃ちました。

激闘の末、矢沢軍は猪俣軍を敗走させます。

しかし、川田城は持ちこたえられず陥落。猪俣軍が勢いを取り戻します。

また、阿曾城を守っていた金子家清は戦闘が行われているのは川田城だからと油断していました。攻めてきた北条軍にろくな抵抗もできずに阿曾城を奪われてしまいます。金子家清は逃亡しました。

10月28日。支城を落とされ丸裸となった沼田城に北条軍5000が総攻撃をかけます。

矢沢頼綱は沼田城に篭り3日間守りきります。

なかなか城が落ちないため、猪俣軍はいったん攻撃をやめ阿曾城に兵を引きます。しかし、矢沢軍が夜襲をかけ猪俣軍に打撃を与えます。

沼田で戦いが行われている間、昌幸が徳川軍と共同で北条軍を攻め補給戦を分断する事に成功しました。

北条は沼田攻略が長期戦になると不利であると判断し、沼田から撤退します。

こうして矢沢頼綱は沼田城を守りきりました。

でも、大河ドラマ真田丸では省略・・・頑張ったのに

このあと、北条と徳川は同盟を結びます。
しかし、この同盟条件があとで問題になってきます。

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第一次上田合戦の裏で起きた沼田攻防戦

徳川家康は沼田の地を北条に渡す約束をしてしいました。
真田としては北関東の重要拠点である沼田を手放すことは認められません。

天正13年(1585年)8月。徳川が真田領上田に攻めて来ました。
のちにいう、第一次上田合戦のはじまりです。

この動きにあわせて北条も動きます。
9月。北条氏直率いる3万の兵が沼田に攻めて来ました。
徳川と戦っている上田は沼田に増援を出すことはできません。
しかし上杉景勝の援軍があります。矢沢頼綱は積極的に打って出ては、城に敵を呼び込み敵を撃退という真田お得意の作戦を行います。

矢沢頼綱が1000の兵を連れて出陣したことを知ると、氏直は猪俣邦憲に3000の兵を持たせて向かわせます。かつて手痛い目に合わされている邦憲は、頼綱を追い詰めていきます。森に逃げ込んだところを、伏兵に襲撃され反撃してきた頼綱や名胡桃城から打って出てきた鈴木重則の部隊にも襲撃されて敗退します。

氏直は沼田城に総攻撃をかけます。
頼綱は沼田城内に誘い込んでは入り口を閉じて火責めにして突入した部隊は壊滅させました。
川田城攻略にむかった北条氏照の部隊も敗退。

損害を出し士気の低下した北条軍は撤退しました。

上田では真田昌幸が徳川軍を撃退。

上田・沼田両面で徳川と北条の軍を撃退する事に成功するのでした。

この後、矢沢頼綱は真田昌幸から恩賞を受けるとともに、上杉景勝からも功績を称える書状が送られます。

今度は北条単独で襲撃

天正14年(1586年)4月。どうしても沼田が欲しい北条氏直はまた攻めてきます。
今度は7万の軍を率いて来ました。

しかし雨で川が増水し、橋が流されていました。
沼田城は利根川とその支流に囲まれているので、城を攻めるには川を渡らないといけません。

先発隊が川に橋をかけますが、大軍が川を渡るのは難しい状態でした。仕方なく丘の上に陣を築いて沼田城とにらみ合いが始まります。

これに対し、矢沢軍は北条軍を挑発する矢文を飛ばします。
さすがに北条氏邦はすぐには挑発には乗らずに、投降を呼びかける文を返します。

しかし、矢沢頼綱は呼びかけを無視。

2週間たってもなんの反応もないことに北条氏邦はキレて、総攻撃を開始しました。

矢沢軍は橋を落として、北条軍を城に誘い込みます。
城の出口をふさいだところに鉄砲を撃ちかけます。混乱した北条の兵は同士討ちをはじめます。ようやく城の外に逃げた北条の兵は増水した川に落ちて溺死するものが多数。

またしても北条軍は大きな損害を出し撤退しました。

この戦いぶり、上田合戦の真田昌幸の戦いにそっくりだとは思いませんか?
真田伝統の戦い方なのかもしれませんね。もちろん、その戦術をうまく使いこなす矢沢頼綱の士気能力もたいしたものがあります。

しつこい北条軍・秀吉の仲裁

天正15年(1587年)2月。またまた北条軍が攻めてきますが。今度は(も)猪俣邦憲が軍を率いていました。今回は野戦でしたが、矢沢軍はこれも撃退します。

天正17年(1589年)。豊臣秀吉の仲介により北条と真田は和睦します。
豊臣秀吉が代わりの領地を与えるので沼田を北条に渡すことになりました。

重臣筆頭の地位を確立し息子に後を譲る

こうして矢沢頼綱は沼田城を明け渡して岩櫃城に入りました。

以後は隠居して矢沢家は嫡男・頼康(よりやす)が継ぎます。

天正13年には矢沢頼綱・頼康 親子の連名で書状を出しています。このあたりから矢沢家では世代交代を進めていたものと思われます。

1579年。80歳でこの世を去ります。

こうして、矢沢頼綱は真田家中において絶大な功績を残しました。
矢沢家は重臣筆頭の地位を確立します。

息子の矢沢頼康は真田信幸に仕えます。
松代藩となっても真田家筆頭家老の地位を維持したまま明治まで続きます。