西郷隆盛には3人の妻がいました。
最初に結婚した相手は伊集院須賀。薩摩の上級武士・伊集院家の娘でした。
伊集院家は西郷家よりも身分の高い武士の家でした。隆盛の一目惚れで結婚を申し込んだといいます。しかしその結婚生活は幸せなものではなく。隆盛は妻の実家から離縁されてしまいます。
伊集院須賀とはどのような女性だったのでしょうか。
伊集院須賀
須賀の実家と父・伊集院直五郎
西郷隆盛の最初の妻になった須賀は伊集院直五郎兼善の娘。
伊集院家は薩摩判の城下士。城下士とはお城の近くに住んでいる上級武士です。伊集院家は紀氏の末裔。紀氏の著名人には紀貫之がいます。伊集院一族は数が多く、家老を出す家もあれば足軽になった家もありました。
伊集院兼善は城下士でしたが家老を出すほどの家柄ではありません。西郷家の近所に住んでおり家格も近かったと思われます。明治維新後は内務省に勤務したり鳥取県参事(副知事のようなもの)、高知県参事をつとめたあと、高知県令(県知事)を勤めました。
弟・伊集院兼寛は西郷の討幕仲間
須賀の弟・伊集院兼寛は西郷隆盛、大久保利通たちとも行動した倒幕派。維新後は伊集院家を継ぎ、海軍少将や貴族院議員にもなっています。
須賀の実家は明治維新の後も名家だったことがわかります。
身分違いの結婚?
西郷隆盛は身分の低い下級武士だといわれますが、家柄そのものは悪くはありません。西郷家も城下士の家柄です。土佐でいえば上士になります。御小姓組という城下士の中では下から二番目の地位でしたから、城下士の中では下級でした。下っ端役人でしたがそれでも城下に家を持っていました。
しかし、地方に住んでいる郷士などと比べれば身分は高い武士になります。城下士と郷士には歴然とした身分の差がありました。土佐の上士と下士の関係に近いです。でも土佐ほど厳しい差があったわけではありません。
薩摩には城下に住めない下級武士が大勢いました。それに比べれば西郷家は下級とはいえません。ただ、西郷家は借金が多く大所帯だったために貧乏だったのです。
坂本龍馬のように底辺の下級武士だったわけではありません。
近所に住む城下士どうし。城下士の中では西郷家同様に身分は低い方です。でも伊集院といえば由緒のある一族。後に妻の家から一方的に離縁していることから考えても伊集院家は西郷家よりも裕福で多少なりとも格上だったのでしょう。
近所に住んでいた伊集院須賀に惚れ込んだ隆盛が結婚を希望したからだといわれます。
西郷隆盛24歳。須賀21歳でした。
須賀は当時の武士の娘としては比較的高齢での結婚になります。なにか結婚できないわけがあったのかもしれません。その理由はわかっていませんが、だからこそ伊集院家としては貧乏な西郷家との縁組も認めたのでしょう。
不幸な新婚生活
ところが隆盛の結婚後、西郷家には不幸が重なります。
結婚の翌年。隆盛の祖父・遊山、父・吉兵衛、母・マサがなくなってしまいました。
24歳の隆盛が西郷家を支えなくてはいけません。隆盛が家督を継いだ時、西郷家は41石でした。父・吉兵衛がもっていた石高全てを受け継いだわけではありません。若い隆盛は石高を減らされてしまったのです。41石は現在の価値だと年収300万円弱だといわれます。夫婦二人なら贅沢をしなければ生きていけるでしょう。でも当時の西郷家には隆盛の妹や弟が5人いました。隆盛が妹たちも養わなくてはいけないのです。
しかも、隆盛は島津斉彬の江戸参勤についていくことになりました。新婚直後に単身赴任を命じられたわけです。隆盛にとってはうまくすれば出世のチャンスでしたが、のこされた須賀はたまりません。小姑5人の面倒を見ながら決して裕福とはいえない家計をやりくりしました。お嬢様育ちの須賀にとってはつらい新婚生活になってしまいました。
娘の苦労をみた伊集院兼善は娘の離縁を決意。
江戸の隆盛に兼善から離縁状がとどき、須賀は実家に呼び戻されました。
出された離縁状を拒否することは出来ません。
隆盛の最初の結婚生活は1年で終わりました。不幸が重なったとはいえ、身分違いの結婚は難しいものです。二人のあいだに子供はいません。
隆盛はこのことを負い目に感じていたといいます。
須賀と吉之助の離縁は大河ドラマ「西郷どん」では美談として描かれています。でも、実際には貧乏と苦労に耐えかねた須賀の実家が愛想をつかした。ということなのでしょう。
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