西郷吉兵衛隆盛(さいごう きちべえたかもり)西郷隆盛の父も隆盛だった

島津家家紋

西郷隆盛の父は西郷吉兵衛隆盛。

下級武士だったといわれます。

実際の吉兵衛は、経理に詳しい反面、土地購入で失敗したりと。すごいのかダメなのかよくわからない人物。

大河ドラマ「西郷どん」でもダメ親父として設定されています。

しかも吉兵衛の死後、吉之助の名前「隆盛」が息子のものにになってしまうというトラブルまで起きてしまいました。

西郷吉兵衛とはどんな人だったのでしょうか?

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西郷 吉兵衛 隆盛(さいごう きちべえ たかもり)

西郷家とは

西郷家は御小姓与という家柄。
薩摩の武士には大きく分けると城下士と郷士があります。
城下士は上級武士。
郷士は下級武士です。

城下士も細かく分かれていました。
西郷家の所属していた御小姓与は城下士の中では下から二番目の位です。

西郷隆盛が下級武士だったと言われるのは、城下士の中では下から二番目だったからなのです。確かに重役を出せるような身分の高い家柄ではありません。下っ端役人です。

でも西郷家は城下に家を持つことができる身分でした。武士全体からみればそんなに低いわけではありません。城下士の下には地方に住む郷士という多くの下級武士がいたからです。

それでも城下に住む武士の中では低い身分で生活も貧しい方でした。

西郷吉兵衛

文化3年(1806年)。西郷竜右衛門・隆充の長男として生まれました。

弘化2年(1845年)。吉兵衛は「小姓組勘定方小頭」になりました。経理係のようなものです。

吉兵衛は財務に詳しかったので島津一族の日置家や赤山家の会計係も兼務していました。収入はそれなりにあったようです。

城下士とはいえ、下っ端役人の吉兵衛が島津の分家に出入りできたのには理由があります。

吉兵衛の母。つまり西郷隆盛の祖母は日置郷士・四本家の娘でした。

日置領は日置島津家の治める領地。日置家は戦国大名・島津貴久の三男・島津歳久の子孫でした。四本家は日置家の家来でした。そのため、吉兵衛の母は日置島津家に出入りして米塩を調達していました。その縁で吉兵衛は日置家に出入りするようになりました。赤山家は日置家の分家です。

吉兵衛は日置家と赤山家の御用人となり経理を含めた雑務を担当していました。

弘化4年(1847年)。父・隆充が隠居。西郷家の家督を継ぎました。
家督は47石です。現在の年収で300万円あまり。決して豊かとはいえませんが、259坪(約855m2)の敷地を持っていました。

吉兵衛は1827年ごろ満佐子(まさこ)(政佐、政子ともいいます)と結婚しました。

吉兵衛と満佐子の間には、吉之助(隆盛)、琴、吉次郎、鷹、安、慎吾(従道)、小兵衛という七人の子供がいました。男子3人、女子4人です。

嘉永2年(1850年)。お由羅騒動で赤山久晋が無念の死をとげました。吉兵衛は赤山久晋の遺言を聞き、最期をみとどけました。

吉之助にも赤山久晋の無念を涙を流して語ったといいます。

晩年は病がちになったといいます。

嘉永5年(1852年)9月27日死去。享年47歳。

吉兵衛は剣豪ではなかった

大河ドラマでは「剣の腕が凄かったらしい」という設定になってます。

西郷吉兵衛隆盛には赤山久晋がお由羅騒動で自害した時、吉兵衛が介錯をしたという説があります。

しかし実際には吉兵衛が介錯を剣術家の加藤新平に依頼したといわれます。

このような説が出た理由として、同名の祖父・吉兵衛(諱は不明)が太刀流の剣術家・大山貞政の門下生として有名だったため。吉兵衛隆盛と間違われて噂が広まったのかもしれません。

西郷家がまずしかったのはなぜ?

47石とはいえ、広い敷地をもち日置家や赤山家の御用人も努めていた西郷吉兵衛。豊かとはいえなくとも貧しいとまではいえなかったはず。

貧しいというのは、あくまでも城下に住む城下士の生活レベルと比較しての話です。

地方に行けば武士でももっと貧しい人はいくらでもいました。息子の吉之助隆盛は農民たちの貧しい生活を見て衝撃をうけたといいます。

また西郷家が貧しかったと言われる理由の一つは、家族が多いこともありますが。借金が多かったからです。

吉兵衛は400両の借金をして土地(石高)を購入しました。薩摩では石高を売買することが出来ました。一度手放した石高を買い戻そうとしたのですが、藩の規則以上に購入したことが後に判明。買いすぎた石高は没収され、結局200両の負債が残ってしまいました。吉兵衛の死後も借金は残ります。西郷家が借金を返し終えたのは明治5年だったといいます。

なまじ経理に詳しかったため欲を出してしまったのがバレて没収されたのでしょうか。

日置家や赤山家の御用人もつとめていた吉兵衛が死去すると、収入は下っ端役人でしかない隆盛の稼ぎ(41石)しかありません。借金の返済も西郷家には重くのしかかったことでしょう。隆盛の時代に西郷家がまずしくなるのはそのためなのです。

隆盛は父の名前だった

吉兵衛の諱(いみな・本当の名前)は隆盛(たかもり)。
吉兵衛は通称です。

西郷吉之助隆盛と同じです。

というより「隆盛」はもともとは吉之助の父・吉兵衛の名前だったのです。

吉之助の諱は「隆永」でした。

ところが王政復古の章典とき、西郷は不在でした。でも名前を書いて書類を提出しなければいけません。そこで西郷の友人・吉井友実が「隆盛」と提出してしまいました。友実は吉之助の諱を忘れたので吉之助の父の諱「隆盛」を使ったということです。あるいは吉之助の父の諱と吉之助の諱を勘違いしていたのかもしれません。

でも吉之助は友実をせめることもなく「隆盛」と名乗ったといいます。

コメント

  1. BIG-BIRD より:

    ①西郷吉兵衛14行目の47万石は、47石の間違いです。
    47石で300万の年収ということは、47万石だと年収約300億?加賀百万国は、約600億?すごい。もっとも1石が、現在の何円に相当するかは一概に言えないけれど。
    ②8行目400両の借金でいくらだろうと調べました。幕末は1両8万円という説だと3200万円。何を担保にしたのかな。
    ③西郷家がまずしかったのはなぜ?の12行目バレて募集は、没収です。
    まずしいと平仮名で書かれているので貧しいという漢字の貧を勉強しました。貝編は、昔に貝殻が貨幣として使われていたことに由来するらしいですね。財力・貢ぐ・貨幣・
    貿易・貴族・貯金・買う・費用・資本・購入など、また知識が増えました。(まずしいは漢字でといわないで良かったです)

    • 文也 より:

      >何を担保にしたのかな。
      西郷家の契約内容までは把握してませんが。石高制の時代は領地から入る米・農産物を担保にお金を借りていたようです。年貢が入ると借金の返済にまわされるんですね。厳密に言えば年貢の徴収権利が担保といえるでしょうか。例えば、石高は47石なのに手元には20石相当の年貢しか残らないとか。それが何年も続けば貧乏になるのは当たり前ですよね。

      >まずしかったのはなぜ?
      なぜひらがなにしたのでしょう?覚えてません。
      よくある?変換ミス?
      見出しなので露骨な表現は避けたかったのかもしれません。

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