龍佐民(りゅう さみん)とその妻・石千代金、奄美大島で西郷吉之助が出会った人たち

奄美大島にやってきた西郷吉之助(菊池源吾)を助けたのが龍佐民(りゅう さみん)。

菊池源吾と名を変え、島にやってきた吉之助ですがあまりにも習慣の違う奄美の人とはなかなか馴染めません。

そんななか、吉之助の世話をしたのが島の代表・龍佐民とその妻・石千代(ドラマでは石千代金)でした。

佐民は吉之助に、搾取するだけの薩摩の役人とは違うものをみたのかもしれません。

佐民は一族の娘・愛加那との縁談を勧めました。

龍佐民とその妻・石千代について紹介します。

 

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龍佐民(りゅう さみん)

名 前:龍佐民(りゅう さみん)
生 年:文政2(1819年)
没 年:不明
父:龍佐文仁
母:福松加那
妻:石千代

 

龍家とは

龍家は大昔から奄美大島で暮らしていた名家。

祖先は、笠利為春(かさり ためはる)。15世紀の琉球の尚稷王(しょうしょくおう)の孫だとされています。

琉球正史では琉球王族の尚氏は、源為朝(頼朝・義経らの叔父)の子孫とされています。源為朝は琉球に逃れて王になったというのです。尚氏の出自はよくわかっていないのですが、この説は尚氏の権威付けのための創作だといわれています。

笠利一族は奄美の支配者として続いていました。

笠利為転(かさり ためてん)は、1609年に薩摩藩が琉球を攻めた時に、薩摩軍を迎え撃って戦いました。

琉球の一部だった奄美大島は薩摩藩のものとなり、笠利一族は薩摩藩に仕えることになりました。

1726年以降。笠利佐文仁が新田開発などを行い薩摩藩から「田畑(たばた)」の姓を与えられ、外城衆中格になりました。後に「郷士格」と呼ばれる身分です。

1785年。薩摩藩の命令で「龍(りゅう)」の名字に変更になりました。

鹿児島にも分家があり、そちらはずっと田畑と名のったともいわれます。

 

地元の人で郷士格になった家はありますが、多くは砂糖生産によるもの。新田開発などの功績で郷士格になったのは田畑家(龍家)だけだといわれます。

龍(田畑)家は奄美大島を代表する名家でした。奄美大島で生産される砂糖は薩摩藩の財源となり、明治維新を支えました。砂糖生産にも深く関わっています。また住民代表として薩摩から派遣される役人との交渉も行ったのでしょう。

薩摩の身分制度では「郷士格」は城下士よりも下の身分とされました。身分だけなら西郷家よりも下なのですが。少ない石高で暮らしていた西郷家に比べると、地元で農地をもち、分家ももつ龍家は最後受けよりもはるかに裕福な家だったといえるでしょう。

西郷吉之助とのかかわり

安政5年(1858年)。西郷吉之助は奄美大島に来ました。流罪になったのではありません。幕府の追求を逃れるために謹慎のため来たのでした。十分とはいえないまでも藩から米も支給されていました。

そんな吉之助を助けたのが龍佐民です。

西郷吉之助が奄美大島にやってきたときは龍佐文が龍家の当主でした。しかし佐文が10歳と若かったので、叔父(佐文の父の弟)の龍佐民が後見人になっていました。

佐民は実質的な龍家の当主だったといえます。

佐民は島民の代表として、島に来た吉之助の世話もする立場になったのかもしれません。当初、島民となじめず怖がられていた吉之助の世話をして吉之助に子どもたちの教育を依頼するなど交流を深めました。教えを受けた子供の中には、龍家のあとつぎ龍佐文もいます。

佐民は一族の龍佐栄志の娘・愛加那との縁談を勧めたといわれます。

吉之助と愛加那との婚礼では妻・石千代とともに媒酌人を務めました。

 

龍家は明治維新になるまで奄美大島の為政者として存続しました。
明治になると、名字を田畑に戻しました。

 

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龍石千代(石千代金)

名 前:龍石千代(りゅう いしちよ)、石千代金(いしちよかね)
生 年:文政8年(1825)
没 年:不明
父:龍佐富

 

龍佐民の妻。

龍佐民と同じ龍一族。

龍佐民とは従兄妹になります。

最初は牧仁貞志と結婚しました。ところが安政2年(1855年)に夫の夫仁貞志が自害。そのため実家に戻りました。

安政4年(1857年)。従兄弟の佐民と結婚しました。

西郷吉之助と愛加那との婚礼では、夫の佐民とともに媒酌人を務めました。

 

島に馴染めなかった西郷吉之助を助けたのが、龍佐民とその妻・石千代(石千代金)。彼らがいなかったら、吉之助の奄美大島の人々に対する気持ちも違っていたかもしれません。

 

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