相楽総三・偽官軍として処刑された赤報隊隊長

江戸時代

相楽 総三(さがら そうぞう)は幕末の尊皇攘夷派。

赤報隊の隊長として知られます。

関東の攘夷派の決起に何度か関わり、決起が失敗すると土佐藩の乾退助を頼り、その後。薩土盟約で薩摩に身柄を移され、西郷隆盛のもとで御用盗を組織、江戸での破壊工作を行なっていました。その結果、鳥羽・伏見の戦いがおこります。

戊辰戦争帰還中は赤報隊を組織。新政府軍のいち員として進軍していましたが。

相楽は何度も命令違反する上に進軍途中で略奪を行なったため「偽官軍」にされて処刑されました。

相楽総三とはどんな人だったのか紹介します。

 

PR

相楽 総三とは

 

名 前:相楽 総三(さがら そうぞう)
本 名:小島四郎左衛門 将満(こじま しろうえもん まさみつ)
通称・官名:()
生 年:天保10年(1839年)
没 年:慶応4年3月3日(1868年3月26日)
父:小島兵馬
母:やす
妻:照
子:河次郎

おいたち

天保10年(1839年)。相楽 総三は江戸で生まれました。

父は下総相馬郡(現茨城県取手市)の郷士で大富豪の小島兵馬。
母はやす。

小島兵馬は豪商で財を成して郷士身分になり、江戸に出て赤坂に屋敷を建てて暮らしていました。

総三はその赤坂の屋敷で生まれした。本名は小島 四郎左衛門 将満。

総三は四男でしたが、兄が事故死したり養子に出ていたので小島家の家督を継ぎました。

国学と兵学を学んで私塾を開き多くの門人がいました。

尊王攘夷運動に身を投じました。

文久元年(1861年)。23歳の時。上野国、信濃国、羽州秋田藩などをまわり尊王攘夷派の人々と交流。

文久3年(1863年)。小島家から5000両もの資金を与えられて関東方面の各義勇軍の組織化に尽力し、桃井可堂の天朝組を援助しました。しかし天朝組の赤城山での挙兵は事前に漏れて失敗。

元治元年(1864年)。藤田小四郎たち天狗党が筑波山で挙兵。相楽総三も参戦しましたが、鎮圧され逃走。

慶応2年12月(1867年1月)。天狗党に参加していた水戸浪士の中村勇吉、里見某たちとともに江戸に潜伏。土佐藩士・乾退助(板垣退助)を頼ることにします。

乾退助は土佐藩邸の惣預役(総責任者)でした。乾退助は参勤交代で藩主たちが土佐に帰っていました。そこで藩主や重役にも相談せず独断で相楽総三たちを藩邸内に匿いました。

薩土討幕の密約

慶応3年5月21日(1868年6月23日)。中岡慎太郎の仲介で土佐藩・乾退助と薩摩藩・西郷隆盛の間で密約が結ばれました。

この密約で相楽総三たちは土佐藩邸から薩摩藩邸に移されました。西郷隆盛のもとで倒幕活動を行うことになります。

御用盗の結成

西郷隆盛たちは開戦の口実を作るため江戸幕府を挑発しようと考え「御用盗」を組織。伊牟田尚平・益満休之助・中村勇吉らとともに御用盗の中心メンバーになって活動しました。

御用盗は薩摩・水戸・土佐だけでなく各地の倒幕・尊攘派の浪士を集め約500名ほどの組織になりました。

慶応3年10月13日。倒幕の密勅。密勅をうけて薩摩はすぐに行動を開始。

慶応3年10月14日。大政奉還。

大政奉還をうけて倒幕の口実がなくなったので吉井友実は益満と伊牟田に工作の一時中止を書状で指示しました。

でも伊牟田と益満は止めません。

伊牟田たち御用盗は江戸市中で放火、略奪、暴行を行いました。攻撃対象になったのは「幕府を助ける商人と浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、輸入品を扱う商人、金蔵をもつ富商」です。

御用盗の活動資金は江戸の商人から奪ったものでした。

江戸薩摩藩邸の焼討事件

また御用盗の活動に便乗した強盗や辻斬りも起こります。江戸の住民たちは薩摩のせいだと噂し合いました。

老中・稲葉正邦、勘定奉行・小栗忠順が薩摩藩邸の御用盗の引き渡しを要求。薩摩藩は引き渡しを拒否しました。

御用盗の活動に刺激されて出流山事件などいくつかの武装蜂起が起こりました。しかしいずれも渋谷和四郎たちの幕府軍によって鎮圧されました。

12月25日。幕府はこれらの騒ぎは薩摩の仕業と判断。庄内藩江戸藩邸の留守居役松平親懐に賊徒の逮捕を命令。従わなければ江戸薩摩藩邸に討ち入ってでも捕らえよ。と命令が出ました。

こうして庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き討ち。この時に益満休之助は逮捕されましたが。伊伊牟田尚平と相楽総三は逃走しました。

PR

赤報隊

慶応4年(1868年)1月。戊辰戦争が勃発。

相楽総三は近江の金剛輪寺で赤報隊を結成しました。

1月7日。新政府は徳川慶喜の追討命令を出しました。

江戸に向けての討伐軍派遣を決定。西郷隆盛は東征軍の派遣前に先遣隊を出すことにして、東海道・東山道・北陸道の先鋒鎮撫総督を設置。

相楽総三の赤報隊一番隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り桑名への進軍を命令されました。

ところが相楽は東山道鎮撫総督府への所属変更を希望。命令を無視して独断で東山道に進みました。

また「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢を半減」をかかげて農民たちの協力を取り付けていました。相楽は京都を出る前に「年貢半減」を要求し新政府は認めていました。ところがその後、新政府の方針が変更「年貢半減」は認められなくなりました。

そこで新政府は「年貢半減」を広めていた赤報隊を呼び戻しましたが。相楽の赤報隊一番隊は命令を無視して進軍を続けました。

相楽は司令部の指示に従わず独自に碓氷峠を目標にして進軍しました。

偽官軍として逮捕・処刑

命令違反を繰り返し、撤退命令にも従わず、独自に行動する相楽たち赤報隊に新政府は危機感をもちました。

新政府は相楽たち赤報隊を「官軍の名を利用して勝手に金品を集め略奪を働く賊軍」としと判断。新政府の東山道軍は赤報隊の捕縛命令を信州諸藩に出しました。

もともと赤報隊は進軍先で略奪行為を繰り返し日頃の振る舞いが悪く、小諸藩や近隣の諸藩は赤報隊に反感を持っていました。小諸藩は赤報隊が勝手に金を要求したり、暴行を働くので通報していました。

赤報隊が「偽官軍」に認定されたことで小諸藩と近隣諸藩が協力して赤報隊を攻撃しました。

相楽は東山道総督府からの出頭命令をうけて信濃国下諏訪宿に行ったところ。逮捕されました。

慶応4年(1868年)3月。相楽たち赤報隊幹部8人は下諏訪で斬首されました。享年30。

妻の照は相楽総三の処刑を聞いて息子の河次郎を総三の姉に託して自殺しました。

相楽総三の首は地元出身の国学者・飯田武郷が盗み出して秘かに葬られました。

その後。相楽総三は「偽官軍」あつかいされていましたが。孫の木村亀太郎たちの努力に酔って名誉回復。昭和4年(1929年)。靖国神社に合祀されました。

現在は青山霊園立山墓地に墓所があります。

赤報隊は新政府に裏切られた悲劇の志士として語られることが多いのですが。相楽総三たち赤報隊は命令違反を繰り返し、進軍先で略奪、暴行を行い金品を巻き上げていました。できるだけ多くの藩を味方にしたい新政府としては、行く先々で問題を起こす赤報隊の扱いに困っていました。相楽たちが処分されたのも仕方のないことでしょう。

 

ドラマ

いちげき NHK正月時代劇 演:じろう
原作小説 永井義男「幕末一撃必殺隊」
漫画 松本次郎「いちげき」

コメント

タイトルとURLをコピーしました