益満休之助・江戸を混乱させた御用盗生き残りが江戸無血開城に協力

江戸時代

益満 休之助(ますみつ きゅうのすけ)は幕末の薩摩藩士です。

尊皇攘夷派の武士で清河八郎たちが作った過激派グループ「虎尾の会」に参加していたこともあります。

西郷隆盛の命令で伊牟田尚平たちともに「御用盗」という組織を作り。江戸の市中で破壊活動を行なっていました。幕府に酔って捕らえられ処刑が決まりますが。勝海舟に引き取られました。

新政府軍の江戸総攻撃を阻止しようとする勝海舟の命をうけて、山岡鉄舟を西郷隆盛の所に案内しました。

そのような益満 休之助とはどんな人だったのか紹介します。

 

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益満 休之助 とは

 

名 前:益満 休之助(ますみつ きゅうのすけ)
別 名:行武
生 年:天保12年(1841年)
没 年:慶応4年5月22日(1868年7月11日)
享 年:28歳。
父・母・子:不明

薩摩郷士。 

おいたち。

天保12年(1841年)。薩摩国で生まれました。

安政7年(1860年)3月。清河八郎らが中心になって尊王攘夷派のグループ「虎尾の会」が結成。同郷の伊牟田尚平とともに益満休之助も参加しました。

 

御用盗の結成

 

西郷隆盛たちは開戦の口実を作るため江戸幕府を挑発しようと考え「御用盗」を組織。伊牟田尚平と益満休之助は御用盗の中心メンバーになりました。

10月3日。伊牟田尚平と益満休之助は西郷隆盛の命令をうけて江戸にやってきました。

伊牟田と益満たちは江戸薩摩屋敷を本拠地に活動。出身の藩に関係なく倒幕派浪士を集めました。御用盗は約500名ほどの組織になりました。

慶応3年10月13日。倒幕の密勅。密勅をうけて薩摩はすぐに行動を開始しました。

慶応3年10月14日。大政奉還。

大政奉還をうけて倒幕の口実がなくなったので吉井友実は益満と伊牟田に工作の一時中止を書状で指示しました。

でも伊牟田と益満は止めません。

益満と伊牟田たち御用盗は江戸市中で放火、略奪、暴行を行いました。攻撃対象になったのは「幕府を助ける商人と浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、輸入品を扱う商人、金蔵をもつ富商」です。

さらに江戸では便乗した強盗、辻斬りが起きたり、他の浪士たちも挙兵。騒ぎは大きくなっていきます。

 

江戸薩摩藩邸の焼討事件

老中・稲葉正邦、勘定奉行・小栗忠順が薩摩藩邸の御用盗の引き渡しを要求。しかし薩摩藩は引き渡しを拒否しました。

慶応3年12月25日。幕府はこれらの騒ぎは薩摩の仕業と判断。庄内藩江戸藩邸の留守居役松平親懐に賊徒の逮捕を命令。従わなければ江戸薩摩藩邸に討ち入ってでも捕らえよ。と命令が出ました。

このとき江戸市中見廻りの任務をうけていた庄内藩や新徴組は江戸薩摩藩邸を焼き討ちしました。

この時に益満休之助は逮捕されました。伊牟田は逃亡に成功しています。

庄内藩の江戸薩摩藩襲撃は大坂城に伝わり、大坂にいた会津藩や桑名藩を刺激し。我らも行動を起こすべきという強硬派の意見が主流になり。

慶応4年(1868年)1月。鳥羽・伏見の戦いが始まりました。しかし旧幕府軍は敗北。

新政府は徳川慶喜の追討命令を出し。

2月9日。東征軍が編成され。

東征軍は江戸総攻撃に向かいました。

益満休之助ははいちどは処刑が決まりました。ところが勝海舟の思惑によって命を救われ、勝海舟のもとに身柄を移されました。

江戸総攻撃を阻止するため勝海舟は西郷隆盛との会談を画策。

慶応4年(1868年)3月。益満休之助は勝海舟から幕府の使者・山岡鉄舟を駿府総督府へ送り届けるように命令を受けます。

益満休之助が西郷隆盛を知っており、道案内ができる人物ということで選ばれました。

その後。山岡鉄舟は西郷隆盛の陣を訪れ勝海舟との会談の約束を取り付けました。そしてで土壌で勝海舟と西郷隆盛との会見が行われました。

益満休之助は江戸城無血開城の実現に関わっていたのです。

その後、益満休之助は上野戦争に参戦。流れ弾にあたって負傷。

明治元年(1868年)5月22日。横浜の野戦病院で死亡しました。享年28。

 

ドラマ

いちげき NHK正月時代劇 演:奥野瑛太
原作小説 永井義男「幕末一撃必殺隊」
漫画 松本次郎「いちげき」

 

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