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尾高長七郎「天狗の化身」と関東に名を知られた攘夷派志士

尾高長七郎とは幕末の志士です。

渋沢栄一・喜作の従兄弟でした。

兄・尾高惇忠たちの影響を受けて熱心な尊王攘夷派になります。

関東の志士の間でも有名な剣術の達人でした。

ところが最後は幕府に捕らえられ牢に入れられたまま明治を迎えました。

尾高長七郎とはどんな人だったのでしょうか。

尾高長七郎 とは

 

名 前:尾高長七郎(おだか ちょうしちろう)
諱:弘忠
通称:長七郎(ちょうしちろう)
幼名:弥三郎
生 年:天保7年(1836年)
没 年:明治元年11月18日(1868年12月31日)
父:尾高勝五郎
母:やへ
子:なし

天保7年(1836年)に武蔵野国で生まれました。

父は搾油業、製藍業、名主を務める尾高勝五郎。

母ややへ

兄は私塾を開いて尊皇攘夷思想を教えていた 尾高惇忠。

いとこには渋沢栄一や渋沢喜作(成一郎)がいました。

尾高家は名主を務める豪農で苗字帯刀を許されていました。

子供の頃から剣術が得意でした。叔父の渋沢宗助が開いたた神道無念流道場(練武館)の剣術道場に通い、兄の惇忠やいとこの栄一、喜作とともに剣術を学んでいました。

17から18歳のとき許可を得て武者修行のたびに出ました。

22歳から23歳のころには免許皆伝を受け。剣術の腕前では兄・惇忠を凌ぐほどでした。

その後、渋沢宗助や兄・惇忠の勧めもあり、武者修行のため江戸に出ました。

江戸では海保漁村から儒学。

講武所剣術教授方を務める伊庭秀俊からは心形刀流を学びました。

江戸で3年間修行の後、鹿島神社の近くに「練武館」という道場を建てて惇忠、平九郎、従弟の尾高幸五郎とともに剣術を教えていました。

関東で「天狗の化身」と言われ名が知られる

また、北辰一刀流・千葉栄次郎の門弟、真田範之助や村上右衛門助が他流試合のために練武館を訪れたときには、惇忠とともに立ち会いました。

一本目の一本目の惇忠 対 真田戦は勝負が付きませんでした。
二本目と三本目めは、長七郎 対 村上戦。いずれも長七郎が勝ちました。
四本目。長七郎 対 真田戦は長七郎が勝ちました。

真田範之助や村上右衛門助は江戸に戻った後。長七郎を絶賛して名を広めました。長七郎は「天狗の化身」のあだ名とともに関東で知られるようになりました。

尊王攘夷運動にのめり込む

長七郎の兄・尾高惇忠は熱心な尊王攘夷派でした。長七郎も江戸で修行中に、尊王攘夷の志士たちと知り合い彼らの影響を受けました。

惇忠は長男だったので家業を継ぎましたが、弟には攘夷運動の夢を託しました。

文久元年(1861年)。長州の志士・多賀谷勇(たがや いさむ)とともに輪王寺宮慈性法親王を担いで、日光山で挙兵しようとしました。二人は水戸を訪れて原を勧誘しましたが仲間にできませんでした。宇都宮藩の菊池教中を仲間にしました。宇都宮出身で江戸で儒学を教えていた大橋訥庵も仲間にしようとしました。

ところが大橋に反対されました。というのも大橋は老中の安藤対馬守暗殺を計画中で実行間近だったからです。

安藤対馬守暗殺計画に関わる

長七郎たちは日光山での挙兵を諦め、かわりに安藤対馬守暗殺に加わることにして一旦村に戻りました。惇忠や渋沢栄一・喜作・新五郎はこの話を長七郎から聞きましたが反対しました。安藤一人を斬ったところで開国の流れは変わらない。もっと根本的なことをしないと駄目だ、そのために長七郎を失うことはできないというのです。長七郎もそのとおりだと思い、安藤対馬守暗殺には加わりませんでした。

新五郎は大橋と会って長七郎は作戦には参加できないことを伝えました。

そのころ幕府も安藤対馬守暗殺の計画を知り、大橋を逮捕。ところが仲間たちは安藤対馬守暗殺を実行しましたが、対馬守に怪我をおわせたものの暗殺には失敗。実行犯はその場で討たれました。

幕府は長七郎も計画に関わっていたことを知りました。長七郎はお尋ね者になってしまいます。

そのころ長七郎は自分がお尋ね者になっていることも知らず江戸に行こうとしていました。

渋沢栄一たちは安藤対馬守暗殺失敗の知らせを知ると、長七郎も危ないと思って探しました。栄一は長七郎を探し出して事情を説明、長七郎はしばらく隠れることになりました。

長七郎は 知り合いのつてを頼り信州の木内芳軒宅で2ヶ月、その後京都で2ヶ月潜伏しました。

渋沢栄一たちの横浜襲撃計画を中止させる

すると京都にいた長七郎のもとに栄一たちから密書が来ました。挙兵するので仲間を集めて戻って来いというのです。

文久3年(1863年)10月下旬。長七郎は尾高家に戻ってきました。

長七郎がいない間に、惇忠、栄一、喜作、真田範之助、中村三平らが挙兵計画を進めていたのです。尾高塾や千葉道場の真田達が決起して高崎城を乗っ取り、鎌倉街道を南下、横浜の異人街をおそうというものでした。

惇忠が詳しい計画を説明しだすと長七郎はいきなり「不賛成だ」と言いました。

攘夷の急先鋒だった長七郎の反対に栄一たちは驚きました。血の気が多い真田や中村は刀に手をかけて今にも長七郎を斬りそうでした。

惇忠が理由を述べるように言うと、長七郎は京都潜伏中に知ったことを説明しました。

100人を越える十津川浪士が挙兵した事件がありましたが、地元の代官を斬っただけで敗北してしまいました。わずか70人の兵で高崎城乗っ取りなど無理。仮に成功しても諸藩の兵に攻め落とされるだけ。横浜焼き討ちなんかできるはずがない。

いくらいきりたってもお前たちは敵を知らない。烏合の衆だ。最後は討ち死にするか獄門首になるのがオチだ。自分はお前たちを無駄死にさせたくない。

というものでした。

強硬に挙兵を主張する栄一、刺し違えてでも止めさせようとする長七郎との間で一晩中議論になり、翌日も議論が続きました。ひとまず惇忠が間に入り、頭を冷やそうと休憩させました。

栄一たちもいくらか冷静さを取り戻しました。そして惇忠が「挙兵を中止してしばらく天下の様子をみてみよう」と作戦の中断を宣言しました。

栄一と喜作は逮捕を避けるため京都に向かうことになりました。長七郎はしばらく村にとどまり剣術を教えながら合流すると伝えました。

長七郎の最期

長七郎が情報収集のため仲間の中村三平、親戚の福田治助とともに江戸に出ました。するると栄一の使者が来て上京するように伝えられました。

そこで長七郎たちはいったん村に戻ることにしました。

文久4年(1864年)1月23日夕刻。長七郎は道中で事件に巻き込まれ誤って通行人を斬ってしまいました。長七郎と中村三平、福田治助は捕らえられ江戸伝馬町の牢に入れられました。

長七郎が人を斬った詳しい理由は不明です。

兄・惇忠や一橋家の家臣になった栄一たちが牢から出そうとしましたが、長七郎は牢から出ることができませんでした。

長七郎は江戸伝馬町の牢に入れられたまま明治維新を迎えます。

明治元年(1868年)夏。長七郎は釈放されました。惇忠が身元引受人になりました。見る影もなくやつれていたと言います。

11月18日。故郷の下手計村で病死しました。

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