源氏物語:六条御息所と源典侍のモデルとは?

「源氏物語」の六条御息所と源典侍は印象深いキャラクターです。

「源氏物語」は紫式部が作った物語ですが、実在の人物をモデルにしたのでは?と思える部分もあります。

そこで 六条御息所 と 源典侍 の登場人物のモデルは誰なのか調べてみました。

 

 

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源氏物語の六条御息所

六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)

父:大臣
夫:前坊(前の皇太子)
娘:斎宮(秋好中宮)。

登場:葵、賢木、澪標 など

賀茂祭り(葵祭り)を見物しに行ったとき、葵上と車争いをして侮辱され。その恨みから生霊になって葵の上に取り憑いたと噂されます。

 

名前の由来

「六条」と呼ばれているのは六条大路に屋敷があったから。

「御息所」とはもともとは天皇の休憩場所の意味。そこから天皇の側室の意味で、女御、更衣や宮女をまとめた言い方になりました。皇太子妃や親王妃も「御息所」と言います。

六条御息所の亡き夫は「前坊」とよばれています。「前坊」とは「皇太子のまま亡くなった人」の意味。

つまり六条御息所は今は亡き皇太子の妃でした。

前坊は桐壺帝の兄弟なので、光源氏にとって叔父になります。

 

紫式部が生きた当時の人が「前坊」と聞いて思い浮かべるのは 保明親王(やすあきらしんのう、903~923年)。

保明親王は醍醐天皇の第2皇子。幼くして皇太子になったものの23歳で亡くなりました。

保明親王には数人の妃がいます。

・藤原仁善子(にぜこ)本院御息所
 関白 藤原時平の娘
 息子:慶頼王(よしよりおう)
 娘:煕子女王(ひろこじょおう)

・藤原貴子(たかこ)中将御息所
 藤原忠平の娘

・藤原玄上の娘

 

モデルは本院御息所 藤原仁善子?

貴子と藤原玄上の娘には子供がいなかったので。

子供のいる六条御息所のモデルは仁善子の可能性が高いですね。

仁善子は夫の保明親王と息子の慶頼王を病で亡くしました。当時は菅原道真の怨霊の仕業と恐れられました。

娘の煕子女王は斎宮にはならず、朱雀天皇の女御になりました。

六条御息所の娘は斎宮になったあと冷泉帝の中宮になっています。

六条御息所といえば生霊になって葵の上を取り殺したとされる人物。でも仁善子はむしろ怨霊に苦しめられた人でした。

ちなみに紫式部本人は「生霊は人の良心の呵責が作り出した幻」と考えていました。平安時代の人にしてはずいぶんと合理的な考え方の持ち主です。

源氏物語でもはっきりと生霊が出現したという描写はありません。登場人物の台詞や感覚でそうかもしれない。と思わせる描写になっています。

 

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源典侍

源典侍(げんないしのすけ)

現在の文学の世界では「げんないしのすけ」と「の」を入れる事が多いです。おそらく当時の正式な呼び方は「げんないしのすけ」。普通は姓を音読みした漢字と役職名の間には「の」は入れません。

例えば、菅大臣(かんだいじん)、藤宰相(とうさいしょう)、伴大納言(ばんだいなごん)など。清少納言だって「せいのしょうなごん」とは言いません「せいしょうなごん」です。「の」を入れるなら訓読みで「みなもとのすけ」でしょう。

とはいえ。女房名はわりと適当なようですし。源氏物語は架空の話。源典侍は架空のキャラなので現実のルールにあまりこだわらなくていいのかもしれません。

 

典侍とは

典侍(ないしのすけ)とは律令制度では女官で2番めに高い地位です。省略して「すけ(次官)」とも言います。

平安時代中ごろからトップの尚侍(ないしのかみ)が天皇の側室あつかいになったので典侍が女官のトップ(長官)になりました。

典侍は宮中の女官を束ねる非常に重要な役職です。典侍は天皇の側に仕えることが多く、家柄の高い人や天皇の乳母がなることが多かったようです。

典侍は女官のボスなのでなので典侍に表立って強く言える女官はいませんし。乳母が典侍になったら天皇でも典侍に遠慮してしまうこともあります。

そう考えると、源氏物語の源典侍が自由にしていても桐壷帝が何も言わないのは源典侍が桐壷帝の乳母だからなのかもしれません。

 

源明子

源典侍のモデルと言われているのが源明子(みなものとの あきらこ/めいし、生没年不明)。

源明子は紫式部と同じ時代を生きた貴族の女性。紫式部よりは年上です。典侍となって天皇に仕えました。

父は陸奥守・源信明(みなもとの さねあきら、910~960年)。
母の紀頼子(きの よりこ、生没年不明)も典侍を務めました

同名に源高明の娘で藤原道長の妻になった源明子がいますが。別人です。

明子は現実に典侍を務めていたので本物の 源典侍(げんないしのすけ)です。

明子は紫式部の夫・藤原宣孝(ふじわらの のぶたか。?~1001年)の兄・説孝(ときたか、947~?)の妻。

だから、紫式部の義理の姉です。

明子の正確な年齢は不明。紫式部よりも20歳近く年上の宣孝の義理の姉なので。紫式部より20歳は年上でしょう。源氏物語を書き始めたのが夫をなくした後の30代前半ごろだとしたら。当時の明子は50代。もしかすると60歳近かったかもしれません。

源氏物語の源典侍は60歳近いとされているので年齢的にもかなり近いです。

明子が恋愛好きかどうかはわかりません。でも明子は自分と同じ呼び名の人物が物語に登場しているので居心地は悪かったでしょう。

 

藤原繁子

恋愛好きな典侍といえば。

藤典侍(とうないしのすけ)こと藤原繁子(ふじわらの しげこ、946?~?)

藤原師輔(ふじわらの もろすけ、909~960年)の娘。

976年。藤原道兼の娘・藤原詮子(ふじわらの あきこ、962~1002年)が円融天皇に入内すると繁子は女御となって仕えました。

繁子は兼家の異母妹ですから信頼できる人物に娘を任せたかったのかもしれません。このころ繁子は30代ですからすでに結婚経験はあったはずです。でもこのころ夫はいなかったようです。

詮子が懐仁親王(後の一条天皇、980~1011年)を産むと繁子は懐仁親王の乳母(めのと=育て親)のひとりになりました。皇子の乳母が複数いるのは当たり前。それでも家柄のいい繁子は一番の乳母でした。

一回り以上年下の道兼と結婚

時期は不明ですが繁子は道兼の妻になりました。

繁子の生年は諸説ありますが946年生まれだとしたら、道兼より15歳も歳上です。

しかも道兼は兄・兼家の息子。繁子は甥と結婚したのです。

このころ道兼には藤原遠量の娘と結婚していました。嫡妻ではなく妾だったかもしれませんが。若い貴公子との恋は30後半で独身だった繁子にとって心躍るものだったかもしれませんが。相手は甥で妻子あり。自身も道兼の姉・詮子に仕えている身ですから危ない火遊びだったかもしれません。

984年。二人の間には娘の尊子(たかこ、984~1023年)が誕生。

一条天皇が即位、典侍になる

986年。繁子が育てた一条天皇が即位。

繁子は典侍になり。一条天皇の後宮を仕切る立場になります。

やがて繁子は道兼と別れました。理由はわかりません。

繁子は992年に平惟仲(たいらの これなか、944~1055年)と再婚しました。

夫婦そろって詮子が贔屓する道長と親しくします。道兼との離別も詮子が関係しているかもしれません。

繁子は一条天皇が成人した後も後宮に残り一条天皇や定子とは親しくしていました。でも清少納言は繁子のことを疎ましく思っていたようです。

道長の娘・彰子の入内にも立会い。やがて自分の娘の尊子を一条天皇の女御にしています。

尚侍(ないしのかみ)従三位になり。藤三位(とうさんみ)と呼ばれました。

紫式部日記にも内裏の女房の筆頭として藤三位が登場。中宮彰子に仕える女房からは気を使わなければ行けない存在として描かれます。

1005年に夫の平惟仲が亡くなると繁子は引退。出家して寺で暮らすようになりましたが。道長からは慕われていたようです。

 

以上、源氏物語の登場人物のモデルを調べてみました。

こうしてみると六条御息所は藤原仁善子がモデル。源典侍は源明子や藤原繁子をモデルにしているのかも知れませんね。

もちろん本当のことは紫式部に聞かないとわかりませんけれど。あれこれ想像してみるのも楽しいものです。

 

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