源頼光は平安時代の都を守った戦う貴族

スポンサーリンク

源頼光は酒天童子の鬼退治伝説で知られる人物。「らいこう」とも呼ばれます。

物語での活躍が多いので架空の人物と思う人もいるかも知れません。清和源氏の三代目で平安時代に実在した「戦う貴族」でした。

源頼光は清和源氏なので武家のイメージがあるかもしれません。でも頼光が生きた平安時代中頃にはまだ武家はありません。源氏も公家のひとつでした。武器の扱いの上手な武芸に優れた公家だったのです。

源頼光とはどんな人だったのでしょうか。

 源頼光とは

名 前:源頼光(みなもと の よりみつ)
官位・官名: 正四位下
幼 名:文殊丸
生 年:天暦2年(948年)
没 年:治安元年7月19日(1021年8月29日)
父:源満仲(みなもと の みつなか)
母:源俊(みなもと の すぐる)の娘
妻: 藤原元平娘、平惟仲養女、慶滋保章娘など
子: 頼国、頼家、頼基など
弟:頼信

 

頼光の清和源氏はどんな家なのか?

当時の源氏は武家というよりも貴族でした。(つわもの)を指揮する戦う貴族なのです。「武家」は鎌倉時代にできた言葉。当時は兵(つわもの)と呼ばれていました。

朝廷に仕え治安維持を担当したり、地方で領地を経営しながら土地を守るために武装集団を持っていました。皇族から臣下になった源氏・平氏や公家から地方に赴任した人たちが、地方で武士団をつくることもありました。源満仲を初代とする多田源氏もそのひとつです。

源氏の武士団には渡辺綱など多くの兵がいました。彼らが後に頼光四天王のモデルになります。

おいたち

平安時代の中頃。天暦2年(948年)に生まれました。
父は鎮守府将軍の源満仲(みなもと の みつなか)。六孫王・源経基の嫡男。清和源氏の正当な血筋です。

頼光は清和源氏の三代目。父・満仲が摂津国多田(兵庫県川西市)で武士団を造ったので多田源氏ともいわれます。

生誕地ははっきりとは分かっていませんが、本拠地のあった多田か、満仲の邸宅のあった平安京の左京一条(京都市)だといわれます。

幼い頃の経歴はわかりません。20歳前後で宮廷に仕え始めたと考えられます。父・満仲は藤原摂関家に仕えました。

寛和2年(986年)ごろ。春宮権大進になりました。皇太子・居貞親王(後の三条天皇)に仕えて家政を仕切りました。頼光は朝廷の儀式や行事に参加しました。

正暦元年(990年)。関白・藤原兼家の葬儀に出席。このころより道長に仕えました。

藤原道長が主催した競馬にも参加しています。このころの頼光は朝廷の有力者と親しくして公家としての活動が活発でした。

正暦3年(992年)。備前守になりました。しかし備前には代理人を派遣。頼光は都にとどまりました。

長保3年(1001年)。美濃守になりました。このときは現地に赴任したようです。

但馬国、伊予国、摂津国の受領(国司)を歴任。在任期間中に財を蓄えました。その財をもとに一條邸を建て、藤原道長に贈り物をするなどして源氏の地位を高めます。

道長が朝廷内で大きな力をもつと、道長の側近だった頼光も地位があがりました。

頼光は摂関家の警護をするなど武力で朝廷を支え「朝廷の守護」とよばれました。弟の頼信とともに武門の源氏の基礎を作りました。

大江山の酒天童子伝説のもとになった賊退治

寛仁元年(1018年)3月。勅命を受けて大江山の夷賊討伐を行いました。このとき成相寺(京都府宮津市)で追悼祈願を行っています。

頼光が討伐した夷賊が何者だったのかはわかりません。民俗学の研究者などから様々な説が唱えられています。

平安時代には都に近い大枝(京都市西京区と亀岡付近)を拠点に活動する山賊がいました。山賊は人々を悩ませていました。頼光が退治したのは山賊だったのかもしれません。

この頼光の賊退治の話が後に脚色されて酒天童子退治の物語になったようです。

頼光と同時代に生きた大江国房が一条天皇時代の人物を書き残しており、頼光は満仲、満正、平維衡、平致頼とともに「武士」として名前があがっています。ここでいう武士とは、官僚の文士に対して戦う技能をもった役人としての武士です。文官と武官という朝廷に仕える役人を職種で分けたときの呼び方です。

武勇伝が有名な頼光ですが平安時代の公家らしく和歌の教養もあります。拾遺和歌集には頼光が作った3つの和歌が治められています。平安時代の兵(つわもの)は武勇だけではなかったのです。

没年は68歳、74歳だったといいます。

武勇に優れた公家

頼光は今昔物語(平安時代末期)、古今著聞集(鎌倉時代)、大江山絵巻(南北朝時代)などでは数々の武勇伝が伝わります。

実際の記録ではそれほど合戦を行ったわけではありません。平安時代という大きな争いの少ない時代に生きたため実戦の機会が少なかったからです。にもかかわらず頼光の武勇伝が伝えられるのは、清和源氏が武士の頂点に立つとその祖先としての頼光に注目が集まったからでしょう。

源頼光伝説

物語や説話に伝えられる頼光の話を紹介します。

大江山酒呑童子退治

大江山の酒呑童子退治の話はいくつかのバリエーションがあります。

大江山絵巻では以下のようなあらすじです。

一条天皇の時代。都の若者や姫君が神隠しにあった。安倍晴明に占わせると都の北西に住む鬼の仕業だとわかります。そこで帝は源頼光と藤原保昌たちを討伐に向かわせます。源頼光たちは山伏に変装して山にはいります。途中、選択している老婆に出会い、酒呑童子や城に住む鬼たちの話を聞き出します。

頼光たちは山伏の姿で酒呑童子の城に入り一夜の宿をとらせてほしいと頼みます。酒呑童子は頼光たちを怪しんで様々な質問をしますが、頼光は質問に答えて疑いをはらします。疑いの晴れた頼光と酒呑童子たちは酒を飲みながら話をします。頼光は酒呑童子に毒酒を飲ませ酔っ払って寝たところを遅い首をはねます。生首は頼光に襲いかかりましたが兜をかぶって防ぎます。一行は酒呑童子の首を持ち帰り。京に凱旋します。

江戸時代に広まった御伽草子版では頼光がリーダー。藤原保昌は四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)と同じ頼光の配下あつかいになってます。

土蜘蛛退治

これは源氏に伝わる名刀「膝丸」の由来話です。

源頼光は熱病で寝込んでいたとき、法師が現れ頼光を縄で縛ろうとしました。驚いた頼光は起き上がって枕元の名刀「膝丸」と手にして切りつけました。法師は逃げましたが、騒ぎを聞きつけた四天王が血の跡をたどっていくと平安京郊外にある北野社の後ろの大きな塚にたどり着きました。塚を掘り起こすと土蜘蛛が現れました。土蜘蛛は黒金の串に突き刺され賀茂の河原にさらされました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました