円融天皇・藤原氏の争いに巻き込まれ兼家を嫌った天皇

天皇

円融天皇は10世紀の平安時代に生きた第64代天皇。

名前は守平(もりひら)。

即位前は藤原氏と源高明が対立。藤原氏におされて天皇に即位しました。

即位後は藤原兼通と藤原兼家の兄弟が激しく対立しました。

円融天皇は自分に娘を入内させていた兼通や頼忠には好感を持つ一方で、兼家は嫌っていたと言います。

しかし兼家と対立。

息子の懐仁親王を皇太子にする条件で花山天皇に譲位しました。

円融天皇とはどのような人物だったのか紹介します。

 

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円融天皇

称号:円融天皇(えんゆうてんのう)
別名:朱雀院上皇(すざくいんじょうこう)、円融院
名前:守平(もりひら)
生 年:959年4月12日(天徳3年3月2日)
没 年:991年3月1日(正暦2年2月12日)

在位期間:969年9月27日~984年9月24日

父:村上天皇
母:藤原安子

皇后:藤原媓子、藤原遵子
女御:藤原詮子、尊子内親王

子:一条天皇

守平親王のおいたち

村上天皇の時代。

天徳3年3月2日(959年4月12日)に誕生。

父は村上天皇。

母は右大臣 藤原師輔の娘・皇后安子。

諱(いみな)は 守平(もりひら)

守平親王は村上天皇の第5皇子です。冷泉天皇の同母弟になります。

応和4年(964年)。母・安子が亡くなりました。安子の死後は安子の妹・藤原登子(重明親王の妻)に育てられました。

守平親王は他の兄弟と共に中宮権大夫・藤原兼通(安子の弟・登子の兄)の保護下にいました。

 

冷泉天皇の時代

康保4年(967年)。兄・冷泉天皇が即位。

冷泉天皇は病弱なため子供がいません。そこで立太子をめぐり藤原氏と左大臣 源高明が対立。

藤原氏側が勝利して守平親王が皇嗣(こうし:跡継ぎ)に決まりました。

ところが安和2年(969年)源高明が謀反の疑いで大宰府に左遷されました(安和の変)。

その5か月後の9月23日。冷泉天皇が譲位。守平親王は即位しました。

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円融天皇の時代

969年11月5日(安和2年9月23日)。円融天皇が即位。

でも円融天皇はまだ11歳。

大伯父の太政大臣 藤原実頼が摂政になりました。
天禄元年(970年)。実頼の死後は藤原伊尹が摂政になりました。
天禄3年(972年)1月3日。元服。

伊尹が死亡。兼通と兼家の間で関白の座を争いましたが。円融天皇は亡き母・安子の遺言に従って年長者の兼通を関白に任命しました。

その後も兼通と兼家は激しく対立。

天禄4年(973年)。兼通の娘・媓子が入内。媓子は中宮になりました。

もともと円融天皇は兄・冷泉上皇の子が成長するまでの中継ぎとされていました。そのため多くの貴族が円融天皇に娘を入内させるのをためらっていましたが。藤原兼通は姉・安子の皇子・皇女を養育していたこともあり兼通が円融天皇の後見人になりました。

貞元2年(977年)。関白 兼通が重病になりました。円融天皇は兼通の要望に従って外戚関係のない藤原頼忠を後任にしました。兼家を嫌っていたからとも、頼忠に好感をもっていたからともいいます。

貞元3年(978年)。頼忠の娘・遵子が入内。女御になりました。

天元元年(978年)8月。兼家の娘・詮子が入内。11月に女御になりました。

天元2年(979年)。中宮媓子が崩御。

円融天皇はすぐには次の皇后を決めようとはせず、しばらく皇后不在の時期がありました。

天元3年(980年)。詮子が懐仁親王を出産。

天元5年(982年)。遵子を皇后にしました。

藤原兼家との対立

ところが兼家は自分の娘を皇后にしなかったことを怒って詮子と懐仁親王を自宅に連れ帰り、出仕も拒否しました。

つまり兼家は自分の要求を押し通すために親王を人質にしてストライキしたのです。

兼家を嫌っていた円融天皇は内裏が2度火事になっても兼家には助けを求めず、関白 頼忠邸や堀河殿(故藤原兼通の屋敷)を里内裏(臨時の内裏)として使用しました。

 

息子のために譲位

円融天皇はひとり息子の懐仁親王に会えない状態が続きました。

円融天皇としても天皇の位を息子に継がせたい思いはあります。

そこで円融天皇は仕方なく兼家に譲歩。

永観2年(984年)。懐仁親王を皇太子にするのと引き換えに、冷泉天皇の皇子・師貞親王(花山天皇)に譲位。太上天皇になりました。

 

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朱雀院上皇になる

花山天皇の時代

譲位後は朱雀院で暮らしました。住んでいる場所にちなんで朱雀院上皇と呼ばれました。

朱雀院上皇は詩歌や管絃の遊楽を楽しんだり、石清水八幡宮・石山寺や奈良の寺に参詣したり比較的自由な時間を過ごしました。

寛和元年(985年)2月13日。紫野で盛大な「子の日の御遊」を開催。平兼盛・大中臣能宣・清原元輔・源重之・紀時文らを招いて著名な歌人に和歌を詠ませました。

 

一条天皇の時代

寛和2年(986年)6月23日。寛和の変により花山天皇が出家・退位。懐仁親王が即位。

わずか7歳の一条天皇が誕生しました。

上皇は幼い我が子を指導。強い発言力をもち摂政の兼家と対立することもありました。院政を行う意図があったとも言われます。

兄の為平親王に一品の官位を与えました。皇族が与えられる最高の位です。天皇になれなかった兄に配慮したのでしょう。

天禄3年(972年)。病気になりましたが、元三大師良源たちによって回復したといわれます。

寛和元年(985年)8月。大僧正寛朝から受戒して出家。以後は円融寺で暮らしました。

正暦2年2月12日(991年3月1日)崩御。享年33。

没後。晩年に住んだことにちなんで「円融院」と追号されました。

 

ドラマ

NHK大河ドラマ「光る君へ」 2024年、演::坂東巳之助

 

 

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