空海が仏教に目覚めて唐に渡るまで

弘法大師空海は出家する前は佐伯真魚といいました。

役人になるため都に来て大学に入学した真魚でしたが。役人になるのをやめて仏教の道にはいってしまいます。親に反対されながらも修行を続け遣唐使のいちいんになることが出来ましした。

なぜ空海は遣唐使の一員になったのか紹介します。

役人になるため都の大学に入った佐伯真魚だったが

父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)の希望と叔父・阿刀宿禰大足(あとのすくねおおたり)の進めで都の大学寮に入った佐伯真魚。大学寮は国の役人を育てる日本最高の学校です。ところが、幼い頃から親しんだ仏教をすてきれなかったのか、儒教と律令を学び役人になるのが嫌だったのか。大学寮に入学して1、2年ほどで山に入り山岳僧の修行に参加するようになりました。

そしてついには私度僧になってしまいました。私度僧とは国の認可をうけていない僧侶のことです。この時代は正式な僧侶になるには国の認可が必要でした。

真魚は大学寮の授業に出なくなり、ゆくえをくらましてしまいました。

その間、個人資格の僧侶になって修行していたようです。

当然、父の佐伯田公は激怒しました。中央の大学に入れ、将来は役人にするためにるために上京させたのです。それが学校に通わずに山に篭っていると聞けば普通の親なら怒るでしょう。

中央で出世して立派な役人になってほしいという父・佐伯田公やおじの阿刀大足の願いもむなしく、真魚は修行三昧の日々を送っていました。

聾瞽指帰は決別の書

延暦16(797年)。役人になれる期限のせまった24歳のとき。

父の怒りを知った空海は仏教を目指す理由を書きます。それが「聾瞽指帰」です。仏教と道教、儒教を比較して仏教の優れたところを論じた書でした。これがのちに改定されて「三教指帰」になります。聾瞽指帰の内容は儒教、道教の他に高い仏教の知識が必要とされます。

漢学を学んでいた真魚には儒教、道教の知識は既にあったでしょう。でも仏教の専門的な教育は受けていません。寺がある環境で育ったとはいっても僧としての教育は受けていなかったでしょう。修行期間中に奈良の寺院に出入りして教えて受けていたのではないかと思われます。

また、聾瞽指帰は大学寮の卒業論文ではないかという説もあります。

しかし律令国家の役人に必要な儒教を否定したことは役人になることを否定したも同じです。ある意味体制批判ともとられかねない書でした。

聾瞽指帰は高名な宗教家・弘法大師のイメージで捉えると、まだまだ荒削りなところがある書かもしれません。

聾瞽指帰は若さあふれる真魚が仏教の道に入るという熱意を語った宣言書でもあるのです。

空海は50歳をこえたころに「聾瞽指帰」の体制批判的な部分を改めて「三教指帰」を書き上げ朝廷に献上しています。「三教指帰」は仏教、儒教、道教の違いを知る参考書として貴族社会で読まれたそうです。

修行に没頭する空海

三教指帰には、四国や吉野の自然を渡り歩き修行したと書かれています。また既に仏教の深い知識が書かれており、修行期間のあいだ各地の寺を訪ねて経典を読み漁っていたと考えられます。

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虚空蔵求聞持法で神秘体験

また、修行期間のあいだ空海は修行僧から「虚空蔵求聞持法」を教わり、室戸岬や四国の山中で実践したところ神秘体験をしたと書かれています。

虚空蔵求聞持法は虚空蔵菩薩の真言を唱える秘法。まだ真言宗は伝わってはいませんが、断片的に密教が伝わっていました。後に伝わる真言密教や天台密教と区別して「雑密」といいます。

虚空蔵求聞持法は大安寺や元興寺など奈良の僧の間で流行っていました。空海に虚空蔵求聞持法を教えたのは大安寺の戒明だともいわれています。戒明も讃岐国出身。唐への留学経験もあります。大安寺は真魚が寄宿していた佐伯院の近くにある寺です。修行僧となった空海は大安寺にも通っていたのでしょう。

空海は阿波の大瀧ゲ獄(徳島県太竜寺山)や土佐の室戸岬などで求聞持法を行いました。空海は著書で、求聞持法を実行すると真言を唱える声が谷中に響き、光り輝く星が近づいてくるのを見たと書いています。

飢餓状態で精神集中を行って神秘体験をしたと考えられますが、この体験は空海が密教にはまる大きなきっかけになったのかもしれません。

洞窟に篭った空海が目にしたのは「空」と「海」だけだった。だから空海という名前にしたといわれています。いつごろから空海と名乗りだしのかはよく分かっていません。修行時代

日本国内で密教を学ぶ

日本にも、天平年間には既に「大日経」という密教の経典が伝わっていました。修行中に大日経の存在を知った空海が経典のある奈良の寺に出入りして密教の勉強をしていたともいわれます。

真言宗に伝わる話では「大日経」と出会った空海がその内容について疑問を解くために唐に渡る決意をしたと伝えられています。

大安寺や唐招提寺には唐やインドの僧もいました。空海も南都(奈良)で唐の言葉や梵字も勉強していたようです。

ところが経典だけあっても真言の唱え方、印の結び方、曼荼羅の書き方は師匠から直接教わらないと実践できません。唐に留学経験のある僧や外国から来た僧から教わることはできたかもしれません。

でも、密教のすべてが日本に伝わっているわけではありません。密教を極めようとすれば唐に行くしかないのが当時の実情だったでしょう。

密教との出会いが唐に渡る決心をさせたのかもしれません。

唐に渡る

なぜ遣唐使になれたのか?

延暦23年(804年)。31歳のとき。遣唐使の一行に加わりました。費用は個人持ちの私費留学生の立場です。なぜ空海が遣唐使に加わることが出来たのかはよくわかりません。

叔父の阿刀大足や伊予親王の援助があったとか、藤原葛野麻呂が書記として採用したなどの説があります。空海と交流のあった高僧・勤操の働きかけもあったといわれます。

唐の役人に出した手紙に「たまたま人員が不足したので留学僧の末席に加わることができた」と書かれていますので。欠員ができたので遣唐使に割り込むことができたとも考えられます。

とはいえ希望すればだれにでも国の認可を受けた僧になり唐に渡れるものではありません。

人を動かすだけの人脈と才能を身に着けていたと考えられます。

急きょ正式な僧になる

しかし、私度僧のままでは遣唐使にはなれません。国から正式な僧と認められなくてはいけないのです。延暦22年か23年に東大寺で国から認可された官度僧となりました。

遣唐使にあわせるかのように急きょ官度僧となったことがわかります。官度僧は厳しい人数制限があり朝廷が管理していました。このころにには奈良の仏教界でも空海の才能が知られるようになり、官度僧として認められたと考えられます。

巨額の留学費用はどうやって調達した?

留学僧には国費で留学するものと私費で留学するものがいました。最澄のように既に知られたそうであれば国費留学生になれます。通訳もついています。

空海は既に奈良で唐の僧と交流して言葉を覚えたようなので、通訳を雇う必要はありません。問題は滞在費です。

空海は費用は自己負担。私費留学生にも国からある程度の餞別は出ます。でもそれでは足りません。滞在費用は自分で調達しなければなりません。

にもかかわらず唐側の記録では空海は豊富な資金を持っていたとされます。空海はその資金で唐で大量の経典・書物を書き写すための人手を雇い、仏教に必要ん様々な品を買い込みました。そのお金はどこから得たのでしょうか。

確かに実家の佐伯氏は有力な一族でした。しかし父・佐伯田公の期待を裏切って僧になりました。叔父の阿刀大足は空海の熱意を理解したようなので大足が田公を説得したのかもしれません。

佐伯家や阿刀家からはある程度のお金は出してもらえたでしょう。中央の佐伯氏や藤原氏にもスポンサーになってもらうため交渉したかもしれません。佐伯家や阿刀家の人脈が有効だったでしょう。

交流のあった奈良の大安寺・東大寺・興福寺・元興寺からも援助はあったかもしれません。

変わった説では水銀で稼いだという説もあります。

空海の就業した足跡をたどると「丹生」に関わる場所があることがわかります。丹生とは水銀の原料になる朱砂のことです。丹生は赤い顔料にもなります。水銀は金メッキにも使われました。金メッキは、仏像や自社建築には欠かせない技術です。丹生に関わる職人たちは金、銀、鉱物の採掘技術も持っていました。各地を放浪した空海はそうした人々とのつながりを持ち、高価な金属を手に入れ換金して資金を作ったのではないかという説もあります。

空海と水銀が関係しているのは確かです。でも留学前に既に水銀の鉱脈を掘り当てていたのかはわかりません。一つの説ですが可能性はあるかもしれません。

延暦23年(804年)。空海ら遣唐使は九州の肥前田浦を出港しました。このときの遣唐使には最澄や橘逸勢、霊仙などがいました。しかし既に著名だった彼らに対してこのときの空海は都ではまだ無名の存在でした。