光源氏のモデルは誰?

「源氏物語」の主人公・光源氏は誰でしょうか?

昔から物語好きな人たちの間では光源氏のモデルは誰なのか?というのは話題になってきました。

でも、とくに一人の決まった人物がモデルになったわけではありません。

大河ドラマ「光る君へ」は紫式部がヒロインですが。光源氏が誰か?という謎解きはせず。紫式部という人間の人生を描くとのこと。

紫式部は平安時代の公家社会を舞台に様々な情報を盛り込んで物語を作りました。どうやら主人公の光源氏のキャラクター設定や描写には様々な人物の要素を足し合わせて作っているようです。

ではどんな人物が光源氏の設定や描写に影響を与えているのでしょうか?

モデルになったと思われる人物を紹介します。

 

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源氏・臣籍降下した元皇族

光源氏はその名の通り「源氏」です。源氏は天皇の皇子や孫が皇籍を離れて臣下になった人たち(臣籍降下といいます)。

ということは歴代の源氏や臣籍降下した人たちの中に光源氏のモデルがいるかもしれません。

 

源高明(みなもとの たかあきら)

914~983年。
醍醐源氏。醍醐天皇の第十皇子。

7歳のときに「源姓」を与えられ臣籍降下。学問に優れ。若いころから公卿になり朝廷の政治に関わってきました。左大臣になり、右京四条に屋敷をかまえ西宮左大臣と呼ばれました。藤原氏の陰謀により謀反の罪を着せられ太宰府に左遷(安和の変)。後に都に戻ってきましたが政界から引退しました。葛野で晩年を過ごしました。

もと皇子。源姓。若くして政治家になって朝廷の中心にいたこと。政敵と対立して須磨に流罪になるまでの光源氏と似ています。

源高明の左遷後に即位したのが円融天皇。紫式部の時代には源高明の娘・明子も存命。藤原道長の妻になります。源高明は悲劇の皇子として都の人々の記憶にあったことでしょう。

 

源融(みなもとの とおる)

822~895年。

嵯峨源氏。嵯峨天皇の第十二皇子。

若くして出世。左大臣になりましたが。用明天皇が即位すると、政敵の藤原基経が摂政になったのに抗議して自宅に引きこもりました。光孝天皇の時代に復帰。臣下の中で最高の位に付きました。

光源氏の屋敷「六条院」のモデルになったのが源融の屋敷「六条河原院」といわれます。源融は河の近くに屋敷があったので河原大臣とよばれました。

天皇の息子で源氏。若くして出世。一時的に朝廷とは距離をおくももの、復帰して朝廷の最高位につきました。その流れは光源氏に似ています。

また陸奥の塩釜(海水から塩をとるためのもの)の話を聞いた源融が自宅に塩釜を再現した逸話があり。紀貫之も六条院の塩竈を題材に和歌を作っています。紫式部も夫が亡くなったときに名所図に描かれた陸奥の塩釜の煙を見て火葬の煙を想像して親しみを感じたと言われます。

 

在原業平(ありわらの なりひら)

在原氏も源氏と同じように臣籍降下した一族。在原業平は平城天皇の孫。美男子で和歌の名人。

劇中でははっきりとは語られていませんが、在原業平は伊勢物語の主人公のモデルとされます。

伊勢物語の主人公は斎宮に手を出したり、恋愛の多い人物として描かれます。

紫式部は伊勢物語も読んでいました。紫式部も「伊勢物語」を「在五が物語」と書いています。「在五」とは「在原氏の五男」の意味で、業平が五男だったのでそのようなあだ名があります。

伊勢物語が源氏物語に影響を与えているいるのは間違いありません。

 

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成功した政治家

源氏物語は朝廷内の権力争いも見どころのひとつ。政治家としての光源氏にもモデルがいます。

藤原道長(ふじわらの みちなが)

光源氏は実子を帝にして娘を皇太子に嫁がせ朝廷で最高の権力を得ました。藤原道長も娘を天皇の后にしました。

とはいえこのやり方は飛鳥・奈良時代から行われていたので公家社会で生きる人なら誰でも思いつく方法でしょう。

朝廷で一番力をもつ有力政治家としての描写には道長を参考にした部分もあるようです。

たとえば光源氏は珍しい絵画を手に入れ帝に少しずつ見せて帝の興味を引こうとします。これは源氏物語を使って一条天皇の興味をひきつけた道長のやりかたと同じです。

政治家光源氏は道長を参考にした部分もあるようですが。道長よりも先に行ってる部分もあります。光源氏は33帖藤裏葉で准太上天皇になり臣下で最高の地位を得ます。でも道長が天皇の祖父になり権力を手にしたのは藤裏葉完成よりも後。

光源氏は道長の政治を参考にした部分もありますが、道長の人生より先を行っている部分もあるのです。

また、光源氏は権力のトップに立ったと思ったら困難に遭遇、出家を望むようになります。このへんは権力の頂点を目指している道長にはない部分で紫式部のオリジナルです。

むしろ源氏物語のおかげで一条天皇を味方にして力を得たのが道長といえます。

 

他にも、源氏で若くして政治家として出世するのは源融と似ています。

 

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敗北した政治家

光源氏は一時期政敵との争いに敗れ須磨に左遷になります。朝廷の重臣が左遷になる話はいくつもあります。

 

菅原道真(すがわらの みちざね)

政治の争いに破れて左遷された人物で有名なのが菅原道真。

須磨で謹慎中の光源氏は菅原道真が太宰府で詠んだ歌を口にしています。紫式部は都を離れた光源氏に菅原道真のイメージを重ねていたのでしょう。

 

藤原伊周(ふじわらの これちか)

道長の兄・道隆の息子。道隆亡き後、道長と権力争いをして敗北。女性問題で花山上皇とトラブルを起こして太宰府に左遷されました。美男子だったといいます。

 

他にも源高明も権力争いに敗れて左遷されました。

昔から政治の敗北者が流罪になる話は多いのでネタとしては思いつきやすいかもしれません。

 

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その他

藤原宣孝(ふじわらののぶたか)

紫式部の夫。

宣孝は中流貴族ですが女性にモテて紫式部以外に3人の妻がいて他にも女性のもとに通っていました。紫式部は嫡妻ではなかったので宣孝がなかなか通ってこずに寂しい思いをしています。

源氏物語の初期の物語では光源氏は藤原宣孝では?と思える部分があります。

とくに空蝉(うつせみ)は紫式部本人とよく似ています。

紫式部は若い頃に家に方違えで来た男が自分の部屋に入ってきて文を交わしました。この男は後に夫になる宣孝といわれます。このエピソードは空蝉と光源氏の出会いにそっくりです。

2帖「箒木」~4帖「夕顔」は後ろ盾をもたない女性の生きづらさと、そんな女性に次々に手をだす身勝手な光源氏が描かれています。

通い婚でつらい思いをしていた当時の女性や紫式部本人と女性関係の多かった夫たちをモデルに書いたのが初期の源氏物語でした。

源氏物語は後に宮廷を舞台にした大長編物語になりますが、「女性の生きづらさ」というテーマは最後まで貫かれています。源氏物語は華やかな宮廷物語といったイメージがありますが、実際にはかなり重い作品でそれだけに人々を引き付ける・共感できる部分があったのでしょう。

 

一条天皇

若紫(わかむらさき)の登場する5帖「若紫」以降の光源氏。

光源氏は8歳年下の若紫と出会い藤壺の面影をみつけて理想の妻にするため育てます。このとき若紫は10歳くらいに見えたと言います。

一条天皇と中宮彰子の歳の差も8歳。彰子が入内した時は彰子は12歳でした。一条天皇と中宮彰子の関係は光源氏と若紫の関係に似ています。

もしかすると一条天皇には幼い中宮彰子を導いて理想の夫婦になって欲しい。という藤原道長の願いに紫式部が応えて書いたのが光源氏と若紫の物語なのかもしれません。

ただし絵に描いたような理想の夫婦にしないのが紫式部らしいところです。結果的に中宮彰子のもとに一条天皇が通い、彰子は皇子を出産したので道長も大満足だったでしょう。

また、一条天皇は桐壺帝のモデルとも言われます。様々な人物の一部分を切り取って登場人物の設定に活かしているようです。

 

本当のところは紫式部本人に聞かないとわかりません。でも源氏物語をよく読んでみると「この部分はあの人物を参考にしているのでは?」というところがいくつかあります。

あなたもどの部分がどの人物に似てるか探してみてはいかがでしょうか?

 

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