東三条院 藤原詮子:弟・道長の権力を支えた皇太后

藤原北家

東三条院 藤原詮子(ふじわらの あきこ)は一条天皇の母。
藤原道長の5歳違いの姉です。

大河ドラマ「光る君へ」では吉田羊 さんが演じます。

円融天皇の女御として宮中に入り唯一の皇子を産みました。

皇后には慣れませんでしたが、一条天皇の即位後。

皇太后として大きな影響力を持ちました。

弟・藤原道長が朝廷で力を付けるのを助け、道長・彰子の後ろ盾になりました。

東三条院 藤原詮子はどのような人物だったのか紹介します。

 

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藤原詮子とは

名前:藤原詮子(ふじわら の あきこ/せんし)
院号:東三条院
地位:女御 → 皇太后
生 年:応和2年(962年)
没 年: 長保3年閏12月22日(1002年2月7日)
父:藤原兼家(ふじわらの かねいえ)
母:藤原時姫(ふじわらの ときひめ)

夫:円融天皇

応和2年(962年)に産まれました。

父は藤原兼家

母は時姫

 

応和2年(962年)に誕生。

父は藤原兼家(ふじわらの かねいえ)

母は藤原時姫(ふじわらの ときひめ)

同母兄に道隆・道兼
姉に超子
弟に道長がいます。

とくに5歳年下の弟・道長を可愛がっていました。

天元元年(978年)8月。17歳のときに入内。円融天皇の女御(にょうご)になりました。清涼殿に近い梅壺(凝花舎)で暮らしました。

詮子の入内で兼家一家は活気が出ました。というのも貞元元年(977年)に藤原兼家が左遷され、兼家の息子たちも出仕できなくなっていました。世間の目を気にして寂しい思いをしていたのですが。詮子が天皇のきさきの一人になり、兼家一家も胸を張って表を歩けるようになりました。

天元2年(979年)には皇后 媓子(こうし/てるこ)が崩御。

媓子には皇子がいなかったので、円融天皇の跡継ぎは誰になるのかが人々の注目を集めました。

懐仁親王(一条天皇)を出産

天元3年(980年)1月11日。詮子は従四位下になりました。
6月。兼家の東三条邸において、皇子・懐仁(やすひと、後の一条天皇)を出産。
後宮の人でも出産するときは実家で行うのが慣習でした。

円融天皇にとって最初の皇子。そして唯一の皇子になりました。

8月には懐仁は親王宣下を受けました。

皇后になれずストライキ

ところが天元5年(982年)3月。藤原頼忠の娘・遵子(じゅんし/のぶこ)が皇后になりました。

詮子は皇子を産んだにもかかわらず皇后になれず、女御のままでした。怒った兼家は東三条邸に籠もって出仕を拒否。詮子も後宮に戻りません。宮中から戻るように要請が来ても断っていました。

また遵子が皇后になるとき、遵子の兄弟・藤原公任が東三条邸の前で「この女御はいつか后に立つでしょうか」と自慢げに話していました。それを知った詮子と兼家は公任を恨みました。

12月。円融天皇の強い希望で内裏で行われた懐仁親王の着袴の儀式に出席しました
でも4日後には詮子は懐仁親王を連れて実家に帰ってしまいます。

着袴の儀(ちゃっこのぎ):皇族男子が数え年で5歳になると天皇から贈られた袴(はかま)を履かせてる儀式。以後、大人と同じ形の服装を着ることになります。子供から大人への区切りの一つとされます。皇室から公家・武家へと広まり民間の七五三のルーツのひとつになりました。

永観2年(984年)。円融天皇が譲位。花山天皇が即位。
懐仁親王は皇太子になりました。

東宮懐仁親王は母・詮子とともに梅壺に入りました。

寛和2年(986年)。詮子は正三位になりました。

「一条天皇」の誕生。息子が天皇になる

寛和2年(986年)6月。花山天皇が出家して譲位しました。

花山天皇の出家譲位は藤原兼家の陰謀とされますが、詮子も関わっていたと言われます。

東宮懐仁は三種の神器を受け継ぎ即位。一条天皇になりました。
兼家は摂政になります。

一条天皇はわずか7歳。元服するまでは詮子と一緒に暮らしました。

 

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朝廷で力を持つ皇太后 詮子

寛和2年(986年)7月5日。詮子は皇太后になりました。

皇太后には様々な権限があります。女御時代と違って格段に影響力が大きくなりました。

正暦元年(990年)。父・藤原兼家が死去。

さらに正暦2年(991年)2月には円融法皇が崩御。
すると詮子は病気を理由に9月16日に出家。御所を出て実家の東三条院で暮らしました。住居にちなんで「東三条院」と名乗りました。皇族女性が院号を名乗ったのは詮子が初めてです。

東三条院になってからの詮子は政治に介入。道長のライバル 藤原実資からは「国母専朝事(皇太后は朝廷の政治を好き勝手にしている)」と非難されました(小右記)。

晩年には東三条邸で競馬(くらべうま)を開催したり。内裏で猫の産養(うぶやしない)をしたりしてうるさい公家から批判をうけるようなこともありました。

産養(うぶやしない):出産後に赤子の衣服や飲食物を贈って祝う行事。もちろん普通は人間の赤子に行います。

政変で命を失った源高明の娘・明子を引き取り、道長に嫁がせています。

 

清少納言が感動した詮子母子

一条天皇が成人してからも詮子との関係は良好。

長徳元年(995年)。一条天皇が石清水八幡宮への行幸を終えて内裏に戻ってきました。京都の人々は天皇の行列を見ようと集まってきました。に詮子は桟敷席を用意、息子の帰りを待ちました。

一条天皇は母の姿に気づいて輿を止め、近衛中将を使いに出し、母に挨拶をしました。その光景を見た清少納言は感動して涙があふれ化粧が崩れてしまいました(枕草子)。

天皇という高い地位にいても母への孝行を忘れない一条天皇の姿に感激したようです。

 

弟の道長に味方

詮子は弟の道長を可愛がりました。とくに兄道隆と道兼が亡くなった後は道長が政治を行えるように援助。道長が権力を持てた理由のひとつに姉・詮子の助けがありました。

 

彰子の入内

一条天皇には皇后 定子(ていし/さだこ)がいました。でも道長は娘の彰子(しょうし/あきこ)を入内させようと考えます。詮子も道長に協力。詮子は彰子の母親で道長の正妻・源倫子の位を昇格させました。

中宮彰子の入内後も彰子を後見しました。

 

定子と娘を援助

皇后定子は父・道隆が亡くなった後、定子の兄・伊周と道長が対立。伊周は失脚しました。後ろ盾を失った定子は後宮を出て出家しました。ところが一条天皇が落ち込んだだめ、詮子と道長は一条天皇に定子を呼び戻すよう勧めます。そこで再び定子は宮中に戻ってきました。

その後、定子は皇女・媄子内親王を出産。このとき定子をサポートしたのは詮子でした。

しかし定子は難産のため出産後に命を落とします。詮子は残された媄子内親王をひきとって育てました。

詮子は道長親子を援助する一方で皇族の年長者として定子への気配りも忘れませんでした。

 

病気と信仰

詮子は病気がちで何度か体調を崩しています。その度に一条天皇は東三条院までお見舞いに行きました。天皇が外出するときは行幸の形をとらなければいけないので。母のお見舞いも気軽にはいけません。それでも道長と一条天皇は詮子を見舞うために

病気が回復すると詮子は近江の石山寺や大和の長谷寺に参拝しました。信仰心の厚い詮子は真如堂と慈徳寺を建立しました。

 

詮子の最期

長保3年(1001年)12月。詮子は重い病になりました。いよいよ最期が近いと悟ったのか詮子は東三条院で残っていた髪も全ておろし完全剃髪。

安倍晴明の占いで詮子の居場所を吉方位に移すなど当時としてはできる限りのことが行われました。

閏12月22日。詮子は藤原行成(詮子の家政を仕切っていた人物)の邸宅で生きを引き取りました。享年40。

詮子の亡骸は宇治木幡の藤原一族の宇治陵に葬られました。

詮子の死は道長にとってもショックでした。道長は詮子の法要を両親と同じように行っています。詮子の死の翌年から毎年のように法華講を行い、道長が死ぬまで続けられました。道長にとって詮子の存在が大きかったことがわかります。

 

ドラマ

光る君へ 2024年NHK大河ドラマ 演:吉田羊 役名:藤原詮子(ふじわら の あきこ)

 

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