讃岐院と呼ばれて・流罪になった崇徳上皇の生活とその最期

崇徳上皇は保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐国(香川県)に流されました。

「崇徳」という諡は死後、怨霊騒ぎが始まって付けられた名前です。それまでは流刑地の讃岐の地名をとって「讃岐院」と呼ばれていたのです。

この記事ではわかりやすさを優先し崇徳上皇や崇徳院と表現します。

流罪になった崇徳上皇がどのような生活をおくり、どのようにして亡くなったのか紹介します。

崇徳上皇の讃岐での生活

穏やかな雲居御所での生活

保元元年(1156年)8月3日。崇徳院を乗せた船は讃岐国松山の津(香川県坂出市高屋町)に到着しました。

崇徳院が来たのは急なことなので滞在する場所がありません。そこで崇徳院は讃岐国司庁の首席官人・綾高遠(あやのたかとお)が用意した館(香川県坂出市林田町)で暮らすことになりました。綾高遠は讃岐の豪族です。崇徳院が暮らしたこの館を「雲井御所」といいます。

都では罪人扱いの崇徳院ですが綾高遠は一族をあげておもてなししました。高遠は娘の綾局(あやのつぼね)を侍女として崇徳院に咆哮させました。後に綾局は男児を出産。崇徳院は自分の諱・顕仁から一字をとって顕末(あきすえ)と名付けました。綾局はその後、娘を出産しましたが早世しました。

後世の怨霊伝説のイメージとは違って雲居御所での生活は穏やかなものでした。近くの長命寺に的場を儲けさせて地元の武士を集めて弓矢を競わせたり。近くの綾側や海岸に散策にでかけたりもしました。

しかし崇徳院はその間も都のことが忘れられません。讃岐の風景に京の風景を重ね合わせていました。綾川を鴨川と呼び、近隣の山(おそらく五色台?)を東山と呼びました。

厳しい鼓ケ丘御所時代

3年後。讃岐の国府に建設していた木の丸殿(香川県坂出市府中町)が完成。通称「鼓ケ丘御所」と呼ばれています。崇徳院は雲井御所から鼓ケ丘御所に移されました。上皇が住んでいたので「御所」とよばれていますが実際は粗末な家でした。監視付きで自由な生活はできません。綾家との付き合いもできなくなり、悲観的になっていきました。悲しさのあまり、体も病気になり年々ひどくなっていきます。

崇徳院は後白河院(二条天皇に譲位して上皇になっていました)に対して不満をもっていました。

「嵯峨天皇は兄の平城天皇を流刑にするのは控えたのに、後鳥羽院は昔の恩も忘れて実兄の私が出家したのにもかかわらず讃岐国に流した」と周囲の者に恨みを語っていました。

崇徳院が語ったのは平安時代初期におきた「薬子の変」のこと。既に譲位していた平城天皇は、復位を目指して嵯峨天皇に反乱を起こしましたが鎮圧されました。しかし平城天皇は流刑になることなく平城京で余生を過ごしました。崇徳院は薬子の変を知っていたので承久の変で敗れたときに出家して仁和寺に出頭したのでしたが、後白河院はそれを許しませんでした。

また昔の恩というのは後白河院が親王だったころ崇徳院の御所に住んでいたことがありました。そのことを言っているのでしょう。

とはいえ、いくら恨みを言っても京には戻れません。

祈りを込めた五部大乗経

崇徳院はこのころから写経を始めます。3年がかりで五部大乗経を書き写しました。五部大乗経とは大乗仏教の中でも特に重要な教えとされる華厳経・大集経・大品般若経・法華経・涅槃経のことです。保元物語琴平本では自らの血で写経したと書かれていますが、本当に血で写経したかどうかはわかりません。死者への供養と反省の意味を込め「今の世では失敗したが、来世は煩悩から解放されるようになろう」と写経に励みました。実物は残っていませんが、一説には一字一字を仏と考えて文字に装飾を凝らした手間のかかるものだったといわれます。

崇徳院は恨みをこらえ、写経に没頭しました。

3年後。写経が完成しました。

崇徳院は完成した写経に手紙を添えて、仁和寺の覚性法親王に送りました。覚性法親王は崇徳院の同母弟です。

手紙の内容は「後生菩提のために五大大乗経を写経したが、遠い国に捨て置くのは不憫なので、石清水八幡のある八幡、父・鳥羽院の眠る鳥羽。あるいは長谷寺のある奈良の長谷など。都の周辺に置いてほしい」という内容でした。

覚性法親王は兄の写経を受け取ると関白に報告しました。しかし信西の忠告もあり後白河上皇は都に置くことを拒否。

保元物語金刀比羅本では信西が「どのような呪いがかけられているか知れたものではない」と後白河上皇に忠告したと言います。

我慢の限界を超えた崇徳上皇

崇徳院の写経は讃岐に送り返されてきました。

送り返されてきた写経を見た崇徳院は激怒します。今まで恨みをこらえ反省の意味も込めておとなしくしていましたが、ついに切れてしまいました。

その後のいきさつはいくつかのバリエーションがあります。

保元物語半井本では「我願わくは五部大乗経の大善根を三悪道になげうって。日本国の大悪魔とならん」と叫び、自分の血で五部大乗経の奥に呪いの言葉を書きました。

保元物語金毘羅本では「五部大乗経を三悪道になげこみ、その力をもって日本国の大魔縁となり、皇を民とし民を皇とする」と言い自分の血で五部大乗経の奥に呪いの言葉を書きました。

生きる気力を失った崇徳上皇は髪や爪が伸び放題。天狗のような姿になってしまったといわれます。

長寛2年(1164年)8月26日。讃岐国府にて崩御。享年46歳。死因は明らかにされていません。崩御した場所は鼓ケ丘御所かその周辺と考えられます。

暗殺された?崇徳上皇

地元には崇徳上皇が殺害されたという伝承があります。

二条天皇が崇徳上皇の暗殺を命令。讃岐の武士・三木近安(みきちかやす)が暗殺を実行したとあります。三木近安は馬に乗り鼓ケ丘御所を襲いました。崇徳院は襲撃に気がついて御所から出て綾川の岸に隠れました。崇徳院は大きな柳の木があり木の陰に隠れました。しかし三木近安は水面に崇徳院の姿が映っているのに気が付き、柳の木に隠れてい崇徳院を槍で突いて殺害したといわれます。

崇徳院が殺害された柳田という場所はその後いくら柳を植えても枯れるばかりで育つことはありませんでした。現在はJR予讃線ぞいに石碑が建てられています。地元では三木姓の人は白峰山に登ってはいけないという言い伝えがあります。

崇徳院の葬儀と不思議なできごと

崇徳院が崩御した後、讃岐国府では崇徳院の遺体をどうすればいいのかわからず京都に連絡して指示を待つことにしました。

しかし当時はまだ夏の暑さが厳しい季節。遺体を腐らせないために、冷たい湧き水で冷やすことにしました。城山の近くにある八十場(やそば)を殯宮(もがりのみや)にして、そこの湧き水を利用することになったのです。この湧水は干魃でも枯れたことのない名水があります。地元では「八十場の霊水」と呼ばれていました。

讃岐と京都を使者が往復する20日近くの間、八十場の霊水に置かれました。朝廷の指示は白峰山の白峯寺に葬るようにというものでした。

9月16日。崇徳院の遺体を納めた柩は八十場を出発。翌日、白峰山のふもとの高屋という場所にさしかかった時、空が曇り激しい雷雨になりました。一行は柩を近くの石の上に置いて休憩することにしました。雨がやんで空が晴れたため一行は柩を担ぎあげました。すると柩を置いていた石が血で赤く濡れていました。それを見た一行はあまりにもの異様さに驚きました。

後日、村人たちは高屋神社(香川県坂出市高屋町)を建てて、崇徳院の霊を祀りました。血のついた石は境内に安置されています。

9月18日。白峯寺の西にある稚児ケ嶽で崇徳院の遺体は火葬されました。火は三日三晩萌え続け、煙は天に昇らず東に流れていったといいます。それを見た人々は「崇徳院の京都を思う気持ちが強く、京都に帰りたがっている」と噂しました。

近くの春日神社の神官の手によって煙がたなびいた方向には青海神社(香川県坂出市青海町)が造られ、崇徳院と生母の待賢門院が祀られました。別名「煙の宮」ともいわれます。

崇徳院の遺骨は白峯寺(香川県坂出市青海町)の近くに埋葬されました。しかし石を積んだだけの粗末なお墓でした。

死後、崇徳院は晩年を過ごした土地の名をとって「讃岐院」と呼ばれるようになりました。
実は「崇徳」という呼び方はもっとあとになって付けられたものです。

保元の乱で勝った後白河上皇は崇徳上皇を罪人扱いしました。崇徳院が死去した後も朝廷は埋葬の場所を指示しただけで葬儀はすべて讃岐国司が行いました。普通、天皇が死去したときは朝廷は仕事をやめて朝廷をあげて葬儀を行います。しかし後白河上皇は無視して裳にも服さなかったのです。

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