崇徳天皇・運命に翻弄され怨霊になった天皇 誕生から保元の乱で敗れるまで

日本史上もっとも恐ろしい怨霊といわれたのが「崇徳上皇」。「日本最強の怨霊」と言われるほど恐れられました。崇徳天皇は平安時代の人物です。でもなぜ天皇なのに怨霊とよばれるようになってしまったのでしょうか?

天皇として期待される立場にいながらも周囲から認められない不幸な境遇にありました。

まずは崇徳天皇の前半生を紹介します。

崇徳天皇とは?

生まれながらの歓迎されない子供

元永2年5月28日(1119年)に生まれました。
諱(いみな=本名)は顕仁(あきひと)。

父は第74代鳥羽天皇。
母は皇后・藤原璋子(たまこ)。

ところが顕仁親王は当時から「鳥羽天皇の子供ではないのでは?」と噂されていました。

決定的なのは父の鳥羽天皇が顕仁親王を「叔父子」と冗談めかして呼んでいたことです。
これは「自分の子供なのに叔父だ」という意味。
叔父とは父の弟=祖父の息子。

鳥羽天皇の祖父とは白河上皇

上皇が天皇の妃と密通するなどあってはならないことです。というよりも、もともと璋子は若い頃から白河上皇のお気に入りの女性。
鳥羽天皇は自分の意志で璋子を皇后にしたわけではありません。白河上皇の支持で皇后になったのです。

というわけで鳥羽天皇は「顕仁親王は鳥羽上皇の息子じゃないか?」と疑っていたのです。

事実、璋子は皇后になったあとも方位除けと称してときどき実家に戻っていました。同じ時期に白河上皇も皇后の実家を訪れていたといいます。しかもこれが宮廷では噂になるほどでした。当然、鳥羽天皇もその噂を聞いたことでしょう。

白河上皇の期待をうけて幼い崇徳天皇が即位

保安4年1月28日(1123年)鳥羽天皇が譲位して鳥羽上皇になり。顕仁親王が皇位を継ぎました。

2月19日には即位式を行って正式に「崇徳天皇」が誕生しました。崇徳天皇はわずか3歳7ヶ月で即位したのでした。
もちろん子供では何もできません。祖父の白河上皇が朝廷を仕切っていました。

崇徳天皇は幼い頃から天皇家を継ぐ者として期待され帝王学を学びました。若い崇徳天皇は勉強熱心で和歌にも優れていました。

一方、鳥羽上皇は白河上皇の圧力で仕方なく譲位させられました。皇后になった藤原璋子は白河上皇が養女として育てた女性。白河上皇から押し付けられ、むりやり譲位させられた。鳥羽上皇は白河上皇に対して反感を持ちました。しかし祖父には逆らえません。

大治4年(1129年)。11歳。白河上皇が世を去り、鳥羽上皇の時代が来ます。

崇徳天皇は相変わらず力がないままでした。違ったのは院政を行う人が曽祖父から父に変わったことです。

保延5年(1139年)。鳥羽上皇と藤原得子(美福門院)の間に体仁(なりひと)親王が産まれました。鳥羽上皇は体仁親王を次の天皇にしようと思います。体仁親王を崇徳天皇と中宮・聖子の養子にして皇太子にしました。

保延6年(1140年)。22歳。崇徳天皇と女房・兵衛佐局の間に最初の男児・重仁親王が誕生。産まれてすぐに得子(美福門院)の養子になりました。

永治元年(1141年)。23歳。崇徳天皇は鳥羽上皇から譲位するように迫られました。鳥羽上皇は寵愛する得子との間に生まれた体仁親王を早く天皇にしたかったのです。

崇徳天皇はまだ23歳。この若さで譲位など愉快な話ではありません。しかし体仁親王は崇徳天皇と中宮・聖子の養子です。院政ができるのは天皇の父親(または祖父)のみ。崇徳天皇は自分が院政をできると期待しました。

上皇になる

崇徳天皇は譲位して崇徳上皇になりました。
体仁親王は即位して近衛天皇になりました。

ところが発表された譲位の命令書には「皇太子」ではなく「皇太弟」に譲ると書かれてあったのです。いくら上皇でも天皇の兄では院政を行うことはできません。崇徳上皇は騙されたのです。

でも崇徳上皇は諦めたわけではありません。息子の重仁親王が美福門院の養子になってます。周囲からも有力な天皇候補と考えられていました。近衛天皇が跡継ぎを残さずに死んだ場合、重仁親王が次の天皇になる可能性がありました。そうなれば崇徳上皇が院政をできるのです。

崇徳上皇は御所を離れて鳥羽田中殿に移り住み、ますます和歌の世界に没頭しました。崇徳上皇自身や同時代の歌人が作った歌を納めた「久安百首」や先人の和歌を厳選した「詞花和歌集」を作りました。鳥羽上皇が和歌にあまり熱心でなかったこともあり、都の歌の社会は崇徳上皇を中心に動いていました。

鳥羽上皇も崇徳上皇を天皇の父として扱い表向きは対立はないかのようにみえました。

しかし近衛天皇が即位した直後から崇徳上皇が白河上皇の息子だという噂が流されます。
崇徳上皇の母・璋子(待賢門院)が得子(美福門院)を呪ったという噂も何度も流されます。

康治元年(1142年)。地位を失った母・璋子(待賢門院)は出家しました。

久安元年(1145年)。母・璋子(待賢門院)が45歳で死去。

久寿2年(1155年)。病弱だった近衛天皇は跡継ぎを残さず死去しました。

得子(美福門院)の養子は重仁親王と守仁親王がいました。重仁親王が有力だと思われていましたが。

しかしなんと次の天皇になったのは雅仁親王でした。雅仁親王は守仁親王の父、そして崇徳天皇の弟です。しかも同じ母から生まれた兄弟でした。

雅仁親王は出家していましたが将来の守仁親王の即位を条件に即位することになりました。

守仁親王が直接即位しなかった理由は、鳥羽上皇が死亡した場合に唯一の上皇になった崇徳上皇が鳥羽理由の主となり治天の君になる可能性があったからです。

後白河天皇の即位

雅仁親王は即位して後白河天皇になりました。

この決定は崇徳上皇が力を持つのを嫌がる人々が鳥羽上皇に働きかけて実現したといわれます。鳥羽上皇の寵愛を武器に朝廷の人々を動かしている美福門院。後白河天皇の乳母の夫で権力を狙う信西(藤原通憲)、藤原摂関家で弟・藤原頼長と対立している藤原忠通などです。

この決定は崇徳上皇だけでなく宮中の人々も驚かせました。後白河天皇は教養がなく天皇の器ではないと思われていたからです。

あくまでも中継ぎとして即位した後白河天皇は弱い立場でした。白河上皇が生きている間は鳥羽上皇が実権を握っていたので問題は起こりませんでした。

保元元年(1156年)。鳥羽上皇が病になりました。すると後白河側の兵士が鳥羽上皇の屋敷を取り囲み、京都中を検非違使に警戒させます。

7月2日。鳥羽上皇が危篤におちいります。崇徳上皇は見舞いに行きましたが中に入れてもらえません。そうしている間に鳥羽上皇が死去。崇徳上皇は父の死に立ち会うことができませんでした。さらに亡骸も見せてもらえません。憤慨した崇徳上皇は鳥羽田中殿に戻りました。

保元の乱

鳥羽上皇という後ろ盾を失った後白河上皇側はすばやく動きました。

藤原頼長が兵を動かすのを禁止され、屋敷に高階俊成と源義朝の兵がやってきて屋敷を占領しました。

7月5日。「崇徳上皇と藤原頼長が謀反を企んでいる」という噂が流れます。

7月9日。崇徳天皇は鳥羽田中殿を出て白河北殿(京都市左京区聖護院)に入りました。白河北殿は崇徳天皇の姉・上西門院統子の暮らす御所。しかし鳥羽上皇の死後、上西門院統子は鳥羽離宮に行っていたので留守でした。

7月10日夜。藤原頼長が宇治から来て白河北殿に入りました。崇徳上皇の側近・藤原教長。藤原頼長のよびかけで源為義・源為朝・平家弘・平忠正などの武士が集まりました。しかし兵の数が少なく後白河側の兵に対抗できる数が集まりません。

白河殿はかつて白河上皇が院政を行った場所です。広大な敷地を持ちますが戦いには適していません。崇徳上皇はこの地で院政を行おうと考えていたと考えられます。この地に後白河上皇に見切りをつけた公家たちが集まれば後白河側に対抗できる政治勢力になると考えていたのかも知れません。崇徳上皇と藤原頼長も知識人なので武力で敵を倒すつもりではなかった可能性もあります。とはいえ武力を持つ後白河側に対して身を守るための戦力は必要です。

源為義は嫡男の義朝に統領の座を譲り大した兵は持っていません。
平忠正は平清盛の叔父ですが、平家の大半は清盛の配下にあるので大した数ではありません。

崇徳上皇は平清盛が加勢することを期待しました。清盛の父・忠盛が重仁親王の後見人をしていたからです。しかし重仁親王の乳母・池禅尼は崇徳上皇に勝ち目はないと判断。子の平敦盛に、崇徳上皇には味方しないように言いました。

兵の少ない崇徳上皇側は藤原頼長が南都(奈良)呼びかけ援軍を待つことになりました。
源為朝は兵の少なさを補うため夜明け前の夜襲を提案しましたが、頼長が却下しました。翌朝には援軍が到着することになっていたからです。少ない兵力で攻めて返り討ちにあうよりも援軍とともに攻める正攻法を選びました。それに頼長は夜の奇襲は卑怯な作戦だと思ったのです。

現実には戦上手の平清盛らに対して少ない兵力で夜襲を仕掛けても返り討ちにあう可能性が高かったでしょう。頼長の考えが間違っているとは言い切れない面もあります。

こうした崇徳上皇側の動きを確認した後白河天皇側は「謀反の噂は本当だったのだ」と兵を動かしました。

11日未明。崇徳上皇たちの立てこもる白河北伝は後白河軍に襲撃されて炎上しました。

崇徳上皇は屋敷を脱出。源為義・平家弘に守られて東山の如意山(京都市左京区粟田口)に逃げました。ここで出家する覚悟を決めた崇徳上皇は剃髪。源為義・平家弘も出家するといいましたが、崇徳上皇に説得されて出家を思いとどまりました。崇徳上皇は武士たちと別れて仁和寺に出頭しました。後に源為義・平家弘は捕らえられて斬首されます。奈良時代いらい途絶えていた死刑の復活でした。

崇徳上皇は出家すれば助かると思ったのでしたが、後白河天皇は許しませんでした。院政では上皇が出家したまま権力を持つことがありましたし、崇徳上皇が生きている限り後白河天皇の立場が危ないことには変わらないからです。

23日。崇徳上皇は数十人の武士に囲まれ粗末な牛車に乗せられ仁和寺を出発。このとき崇徳上皇にお供したのは中宮兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)と女御の2名だけでした。

鳥羽上皇の眠る安楽寿院陵(京都市伏見区竹田)の近くに来たとき、崇徳上皇は「父の御霊に参拝して最後のお別れをしたい」と言いました。

護衛していた源重成は断りました。しかし気の毒に思ったので牛車を止めて安楽寿院の方に向けました。崇徳院が咽び泣くのが牛車の外まで聞こえたといいます。源重成も涙がこぼれました。

崇徳院を乗せた牛車は鴨川と桂川の合流地点にある草津(京都市伏見区横大路)に到着しました。崇徳院は草津にある船渡場から船に乗せられました。崇徳院が船に乗ると外から鍵がかけられ船に閉じ込められました。中から外を見ることはできません。

桂川を下り大阪湾に出て瀬戸内海を渡って11日かけて讃岐に送られました。

天皇・上皇の流罪は藤原仲麻呂の乱で淡路に流された淳仁天皇以来、400年ぶりでした。

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