紫式部・源氏物語の作者の本名・結婚歴とは

紫式部

紫式部(むらさきしきぶ)は「源氏物語」の作者。

平安時代を生きた女性です。

「源氏物語」は有名で紫式部も名前はよく知られていますが。彼女の人生についてはあまり知られていないのではないでしょうか。

紫式部は藤原氏の一族。でも紫式部の家は中流貴族だったのでそれほど力はありません。でも父の藤原為時は和歌が得意で一族も文才の優れた人が多くいました。そのためか、紫式部も幼いころから書物に馴染み漢文を読んでいました。

親子ほど歳の離れた藤原為時と結婚。娘の賢子を産みますが。夫は病死。結婚生活はわずか3年でした。

夫の死後。紫式部は子育てをしながら「源氏物語」を書き始めたと言われます。

最初は親しい人たちに楽しんでもらうための作品だった「源氏物語」は、藤原道長の目にとまり。紫式部は中宮彰子の教育係になりました。宮中で生活をしながら「源氏物語」を書き続けます。

やがて「源氏物語」は人気になり貴族たちの教養となり。その後の日本文学に大きな影響を与えました。後の時代には「我が国の至宝」と呼ばれるまでになりました。

そのような作品を書いた紫式部はどのような人生をおくったのか紹介します。

 

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紫式部とは

通称:紫式部(むらさきしきぶ)
女房名:藤式部
苗字:藤原
名前:不明
生 年:不明
没 年:不明
父:藤原為時(ふじわらの ためとき)
母:藤原為信の娘(ふじわらの ためのぶの娘)

姉:
同母兄弟:藤原惟規

夫:藤原宣孝(ふじわらの のぶたか)
子:藤原賢子(ふじわらの かたいこ)/大弐三位(だいにのさんみ)

紫式部の名前の由来

一般に知られている紫式部(むらさきしきぶ)はあだ名。

もともと宮中で使われる女房名(女官たちが名乗るあだ名、女官や宮中の女性は本名では呼び合わない)は 藤式部でした。

「式部」は父の為時が「式部大丞」という官職だったから。式部省は朝廷の人事や儀式、作法を担当する部署。かなり重要な部署です。

同母兄弟の惟規の官職だったという説もあります。というのも紫式部が中宮彰子に仕えたのは為時が式部大丞だったときより20年も後。その後、為時はもっと上の役職についているのであえて低い式部を名乗るのはおかしいという理由です。

いずれにしても当時の女房名は家族の官職をもとに付けられることが多かったので。紫式部の家族が「式部」の役職についていたのが理由です。

紫式部と呼ばれるようになったのはその後のようです。

紫の由来は源氏物語の「紫の上」が由来といわれます。紫式部が宮中で働くきっかけが「源氏物語」の作者だったから。

「紫式部日記」には宮中に入った紫式部が公家から「源氏の物語の若紫」と呼ばれる場面があり。当時の公家は物語で印象的な紫の上や若紫と原作者の紫式部のメージが重なっていたようです。

 

本名は?

紫式部の本名は分かっていません。

「香子」が紫式部の本名だと言われたこともありました。でもたまたま当時の記録に名前のある藤原香子を同じ時代に生きている紫式部にこじつけているだけで、香子が紫式部だという根拠が乏しく信憑性は低いです。藤原道長の日記「御堂関白記」に書かれている「藤原香子」は掌侍(ないしのじょう)という天皇に仕える地位の高い女官です。

でも紫式部は藤原家に個人的に採用され中宮に仕えたことは書いてますが、掌侍になったとは書いてません。朝廷にも紫式部が掌侍だったという記録はありません。

紫式部は中宮彰子に仕える女房です。香子が掌侍になった時期も、紫式部は彰子の身近に仕えています。なので紫式部が天皇に仕える掌侍を担当するはずがありません。

今のところ紫式部の本名は「わからない」としかいいようがありません。

当時の公家女性の常識では名前は「◯子」が多かったですから、紫式部の本名も「◯子」の可能性が高いです。

 

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紫式部の生涯

紫式部の生年は不明です。様々な説がありますが、よく分かっていません。

父は越後守・藤原為時。
藤原北家の一族ですが、為時の家は四位五位どまりの中流貴族。
しかし為時は東宮(後の花山天皇)に仕え、花山天皇が即位すると蔵人、式部大丞と出世しました。花山天皇の死後は役職を失いますが、一条天皇の時代に越前国の受領になりました。

母は摂津守・藤原為信の娘。
紫式部は幼いころに母と死別したといわれます。

父の赴任先の越前国で2年ほど暮らしました。

子供時代は豪邸で暮らし教養を身に着けた

父の為時はそんなに地位は高くありませんが、曽祖父・藤原兼輔(ふじわらの かねすけ)は中納言まで出世。一族では最も高い地位になった人物で鴨川ぞいの豪華な屋敷「堤第(つつみてい)」を所有。堤中納言と呼ばれました。兼輔は和歌や楽器が得意、堤中納言家には紀貫之など歌人が集まり文化的なサロンになっていました。

為時は兼輔の屋敷を相続。紫式部もそこで生まれ育ったと考えられます。

といっても堤中納言の孫の為時が相続できたのは堤第の半分から4分の1の広さといわれます。紫式部の時代には曽祖父時代の名残はあったでしょうけれど、規模が小さくなっているのは仕方ありません。

為時は出世していませんからお金もかけられませんし、紫式部の時代には老朽化していて古ぼけていたかもしれません。

でも宮中生活を経験していないはずの紫式部が宮中に入る前から上級貴族の生活を描写した物語が描けたのは、屋敷での暮らしや堤中納言家の人々からの話を聞いていたからかもしれません。

紫式部は幼いころから漢文を読み、当時の一般的な女性以上の教養をもっていました。父方の親族には歌人や文才の優れた人が多く。書物に親しむ環境がととのっていたのかもしれません。

紀時文との結婚説

先に紹介した「香子」が紫式部の本名だった場合とも関係しますが。香子は紀時文と結婚。夫と死別。「後家香子」として記録に登場します。「後家」は妾ではなく夫に死なれた嫡妻(正妻)のこと。

紫式部=香子説なら自動的に藤原宣孝との結婚前に紀時文とも結婚していたことになります。

香子が紀時文と結婚していたとされる時期は藤原為時が職を失っていた時期。

通い婚が当たり前の時代には子を育てるのは妻の実家。夫を経済的に援助するのも正妻の実家の役目です。通い婚の夫を迎える妻の実家にもそれなりの財力が求められます。

後家香子は紀時文の妾ではなく嫡妻ですが、実家のバックアップがあまり期待できない藤原為時の娘のもとにわざわざ通ってくる公家がいるでしょうか?

そもそも紫式部=香子説そのものが根拠に乏しいので紀時文との結婚説も現実的はないのです。

 

藤原宣孝との結婚生活

長徳4年(998年)。山城守・藤原宣孝(ふじわらの のぶたか)と結婚。

宣孝は紫式部の又従兄妹。
宣孝とは親子ほど歳が離れていました。

当時は通い婚で女性のもとに男性が通ってきます。宣孝には他にも妻がいたらしく、紫式部は何人かいる妻のひとりでした。当時の公家社会では珍しいことはではありません。夫がなかなか通ってこずに寂しい思いをすることもあったようです。

長保元年(999年)。二人の間に藤原賢子(ふじわらの かたいこ)が誕生。

長保3年(1001年)。夫の宣孝が死亡。
結婚生活はわずか3年でした。

夫の死後に詠んだ歌が
”見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦”
「紫式部日記」

源氏物語を書き始める

夫の死後。源氏物語を書き始めたといわれます。ただし書き始めた時期は諸説あります。

父の為時や兄弟が生きているのですぐには生活に困窮することはないと思いますが。裕福ではありませんし、夫がいなくなり娘を育てていなければいけない心細さもあったのでしょう。

当時は紙は貴重品。支持者に紙を提供してもらいながら少しずつ書いたようです。なのでこの時期の源氏物語は一巻の厚みが薄いのが特徴です。

最初の源氏物語は天皇の皇子の光源氏が様々な女性との恋愛遍歴を描く物語。

紫式部の作品は最初は文学仲間の間で回し読みして感想を言い合ったりしてたようです。文学仲間との交流が寂しさを紛らわす事になったのかもしれません。

やがて源氏物語は世間で評判になりました。

その噂を聞きつけたのが藤原道長です。

 

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宮中で働く

藤原道長に言われて嫌々出勤?

藤原道長は「源氏物語」の作者をスカウトしました。

というのも、一条天皇は「源氏物語」の愛読者でした。そこで藤原道長は「源氏物語」の作者の紫式部を娘の中宮彰子の教育係にして、紫式部には「源氏物語」を書くように指示。そうすれば源氏物語の続きを読むために一条天皇が中宮彰子のもとに通ってくると考えたからです。

寛弘2年12月29日(1006年1月31日)か寛弘3年の同日(1007年1月20日)から一条天皇の中宮彰子に仕えました。紫式部の立場は「女房兼」=中宮の教育係です。

ところが紫式部はどうも気が進まなかったようです。藤原道長の命令に従うのが嫌だったのか。宮中の生活に馴染めなかったり、嫌なことがあったりのか。宮中に出仕しては自宅に戻ったりしています。

でも道長が紫式部に求めているのは源氏物語を書くこと、ずっと中宮彰子のそばに居なくても良かったのかもしれません。自宅で源氏物語を書いて道長に届ける生活がしばらく続きました。

 

宮中で「源氏物語」を書き続ける

とはいえ紫式部は中宮に仕える身です。女房兼の役目はお后教育です。中宮彰子には何人か女房兼がいるとはいえ、紫式部が一人だけ自宅に籠もることは許されなかったでしょう。

紫式部は宮仕えをしながら源氏物語を書き続けました。今までは趣味や身近な人に喜んで書いていたものが仕事になってしまいました。

藤原道長から紙や必要な資材が提供され、充実した執筆環境ができました。このころの源氏物語は初期のものより一巻が分厚くなっているのが特徴です(紙の量が多い)。

また紫式部が書いてる途中のものを道長が勝手に持ち出すこともあったようです。

最初は自分のためや親しい人に楽しんでもらうために書いていた源氏物語ですが。このころになると仕事として源氏物語を書き続けなくてはいけなくなりました。

そのため源氏物語の後半では主人公・光源氏が政治闘争に疲れて出家を望むようになったり。宇治十帖のように悲劇的で暗い内容が増えます。前半と後半の作風の違いは紫式部の置かれた環境の変化もあったのかもしれません。

もしかすると紫式部自身が悲観的な気持ちで宮仕えをしていたのかもしれません。

 

日本紀の御局

紫式部のあだ名に「日本紀の局」があります。

「源氏物語」を読んだ一条天皇が「源氏の物語の作者は日本紀をよく読んでいる」と言ったからです。「日本紀」とは「日本書紀」のこと。「日本書紀」は漢文で書かれているので普通の人は読めません。

当時の女性は漢文を勉強しないのが当たり前。知識を自慢するのがはしたない女性と思われる風潮がありました。そのため、漢文が読める紫式部は宮中の女性たちから軽蔑の眼差しで見られることもありました。紫式部は最初は宮中に出たり自宅に戻ったりしていたようですが、宮中の女性たちからの嫌がらせもあったのかもしれません。

そこで紫式部はわざと漢字が読めないふりをしたり、賢さを表に出さないようにして。女官たちと仲良くしたといわれます。

中宮彰子の懐妊と「紫式部日記」

寛弘5年(1008年)中宮彰子が懐妊。

9月11日に敦良親王(後朱雀天皇)が誕生しました。

藤原道長の命令で紫式部はこの間の様子を記録しました。それが「紫式部日記(紫日記)」です。

中宮彰子が出産のために実家(藤原道長の土御門邸)に里帰り。出産。宮中に戻るまでが記録されています。

紫式部も中宮彰子に付き従って土御門邸に行きました。

出産の準備や様子が詳細に書かれているので宮中での出産時のマニュアルとしても使われました。

中宮彰子の出産だけでなく。宮中の女性たちの様子、和泉式部、赤染衛門、清少納言への紫式部の個人的な感想も書かれていて資料的価値も高いものです。

 

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紫式部の最期

一条天皇の譲位と中宮彰子の皇太后

寛弘8年(1011年)。一条天皇が病になり三条天皇に譲位。
彰子は皇太后になりました。この間も、紫式部は皇太后彰子に仕えました。

6月22日。一条院が崩御。

長和2年5月25日(1014年6月25日)。「小右記」によると。藤原実資が皇太后彰子をおとずれたとき「越後守為時女(=紫式部)」が取り次ぎました。

このころまでは確実に彰子に仕えていたようです。

人生を振り返る「紫式部集」

紫式部は晩年、自分の歌を集めた「紫式部集」と作りました。
彼女がそれまでに詠んだ和歌を集め、詠んだ時の様子とともにまとめたものです。

その歌集の冒頭にあるのがこの歌。

「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半(よは)の月かな」

幼馴染の友人と再開したのにすぐに別れてしまったことを詠んだ歌です。このあとこの友人は亡くなってしまうのですが。友人との別れが結果的にこの世の別れになってしまったわけです。

この歌は小倉百人一首にもある歌で。今ではこの歌が紫式部集の歌の代表のようになっています。源氏物語もそうですが、紫式部の作品には別れや悲しさを扱ったものが多いように思えます。

 

没年はいつ?

藤原実資は寛仁3年正月5日(1019年2月18日)にも皇太后彰子を訪れましたが、このときも「女房」が対応しました。この「女房」も紫式部だとすると1019年までは生きていたことになります。

他にも様々な説があって紫式部の没年はよく分かっていません。

有名なわりにわからない部分の多い人物なのです。

 

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