時姫・藤原道長の母、一条天皇・三条天皇の祖母になった女性の生涯

藤原北家

時姫(ときひめ)は藤原道長の生母。

藤原時姫(ふじわら の ときひめ)ともいいます。

藤原氏の北家の一族ですが実家は中堅貴族。
朝廷で力をもっていた藤原北家の藤原兼家と結婚。

藤原兼家は関白になる人物ですが、時姫が生きていた時代にはまだそこまで出世していません。

一条天皇・三条天皇の祖母です。

時姫とはどのような人物だったのか紹介します。

 

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藤原時姫とは

名前:藤原時姫(ふじわら の ときひめ)
生 年:不明
没 年:天元3年1月21日(980年2月10日)。1月15日(980年2月4日)?
父:藤原中正(ふじわらの なかまさ)
母:橘厳子

兄:藤原安親

夫:藤原兼家
子:藤原道隆・超子・道兼・詮子・道長

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時姫のおいたち

時姫の生年は不明。

父は 藤原中正

父は摂津守 藤原中正。
受領階級(国司に任命される可能性のある貴族。最高でも四位、五位くらい)の中堅貴族でした。

尊卑分脈の中には時姫の父を安親にしている箇所がありますが。安親は中正の子、時姫の子の道隆と安親の年の差が31歳。というわけで安親は時姫の兄、父は中正というのが通説です。

尊卑分脈の作られた14世紀の室町時代初期にはすでに道長の母の情報が混乱していた可能性があります。

祖父は包丁の神・日本料理の祖

時姫の祖父・藤原山蔭(ふじわらの やまかげ)は中納言。
四条包丁流の創始者とされ山蔭神社(京都市左京区吉田神社内)で包丁の神、日本料理の祖として祀られています。吉田神社を創建したのも藤原山蔭です。

母方は橘氏

母は橘厳子。橘澄清の娘です。橘澄清は各地の受領(国司)や左大弁、勘解由長官を務めました。

橘澄清は藤原山陰・中正と同じ受領階級で交流があったようです。

 

玉の輿婚だった?

時期は不明ですが藤原兼家と結婚。
当時は通い婚(夫が妻の家に通ってくる)なので兼家と時姫は同居していません。

藤原兼家は藤原北家・右大臣・藤原師輔の三男。

同じ藤原氏でも時姫の実家は四位・五位どまりの受領階級。藤原兼家は一~三位になれる公卿。身分の差があります。

占いで玉の輿婚?

平安時代後期の白河院生のころに書かれた物語集「大鏡」にはこのような逸話があります。

時姫は若いころ二条大路で「夕辻占い」をしていました。すると白髪の老婆が現れて「思うことは皆叶う」と告げて去っていったというのです。

その後、時姫は実家よりも地位の高い藤原兼家と結婚することができました。

「夕辻占い」とは夕方の辻に立って行き交う人々が話している言葉を聞いて占いをするというもの。日が傾く夕方には神や霊が活動的になり、人々がなんとなく発した言葉には神の意志が宿っていると考えられたのです。そこで人々の噂話を手がかりに近い未来を占う方法がありました。

時姫は藤原兼家の最初の妻

物語なので実話とは限りませんが。時姫の結婚は玉の輿で、身分の違う兼家と結婚できたのは何か特別なことがあったのではないかと考えられたのでしょう。

当時は一夫多妻制なので地位の高い公家には妻が何人かいます。兼家にも何人もの妻がいました。時姫は藤原兼家の最初の妻です。少なくとも記録では時姫より先に嫁いだ人はいません。

子供に恵まれる

 

天暦7年(953年)。長男・道隆(みちたか)が誕生。
このとき藤原兼家は26歳。当時の公家にしては遅いかもしれませんが。記録では道隆が最初の子供です。

時姫が兼家に嫁いだのは遅くても953年より1年前。もっと前の可能性もあります。

天暦8年(954年)。長女・超子(とおこ、ちょうし)が誕生。
 超子は後に冷泉天皇の女御になり、三条天皇を産みました。

天暦9年(955年)。次男・道兼(みちかね)が誕生。

応和2年(962年)。詮子(あきこ、せんし)が誕生。
 詮子は円融天皇の女御になり、一条天皇を産みました。

康保3年(966年)。兼家の五男・道長(みちなが)が誕生。
 時姫にとっては3番めの息子です。

時姫は13年の間に5人の子をぶじ出産。健康的な女性だったのでしょう。

 

道綱の母とはライバルだった

兼家には何人かの妻がいました。兼家の三男・道綱(みちつな)の母(名前は不明)とは何度か手紙や和歌をやりとりする仲でした。だからといって親しいというわけでもなく、文様々な因縁があったようです。

道綱の母は「蜻蛉日記」の作者。「蜻蛉日記」には時姫と思われる女性が何度か登場。道綱の母がライバル心を燃やしている様子が書かれています。

時姫の所に兼家が通ってこなくなったと聞くと、道綱の母が時姫に和歌を書いて送ったりしていました。同情のつもりで送ったと書いてますが、嫌味というか冷やかしも入っているのでしょう。

それらに対しても時姫は和歌で返事をしています。

そうかと思うと、時姫の所に兼家が来たと聞いて「私のところには来ないのに」と悔しがる様子が「蜻蛉日記」には書かれています。

賀茂祭(葵祭)では時姫の牛車のとなりに道綱の母が牛車を止めて和歌のやり取りをしたこともあります。

道綱の母の方が時姫にちょっかいをかけていたようです。

安和2年(969年)には時姫と道綱の母が乱闘を起こすという騒ぎもありました。お互いの家が近いのでトラブルもあったようです。

 

天禄6年(970年)。時姫と子どもたちは兼家が新築した東三条邸に移り、兼家と同居しました。すでに5人の子供を産んでいる時媛は道綱の母と待遇の差があり、兼家の一番の妻といってもいい立場でしたが。名実ともに時姫は兼家の正妻になったのでした。

時姫の最期

天元3年1月21日(980年2月10日)。時姫が亡くなりました。命日は1月15日説もありますが、道長や詮子は21日を母の命日にしていました。1月21日説が正しいように思われます。

道長はまだ15歳。1月14日に元服をすませたばかりでした。

時姫の享年は不明。

夫の兼家が関白になる前でした。

長男・道隆を18歳で産んだとしても時姫の享年は45です。

特別短命というわけではありませんが、長生きというわけでもなかったようです。

 

一条天皇の時代、正一位が贈られました。

 

ドラマ

光る君へ 2024年、NHK大河ドラマ 演:三石琴乃 役名:時姫

 

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