蜻蛉日記の作者・藤原道綱の母とは

藤原道綱の母は10世紀の平安時代の女性。

蜻蛉日記(かげろうにっき)の筆者で歌人。
歌が上手く、三十六歌仙にも選ばれ「拾遺和歌集」や「小倉百人一首」にも歌が載っています。

藤原道長の妻の一人。息子の藤原道綱は道長の三男です。

名前がわからないので歴史上は道綱母と呼ばれています。
小倉百人一首では「右大将道綱母」と書かれています。

NHK大河ドラマ「光る君へ」では藤原寧子(ふじわらの やすこ)の名前で登場します。

この記事では道綱母について紹介します。

 

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藤原道綱の母とは

名前:不明
通称:藤原道綱母
生 年:承平6年(936年)
没 年:長徳元年5月2日(995年6月2日)
父:藤原倫寧(ふじわらの ともやす)
母:不明

兄:藤原安親

夫:藤原道長
子:藤原 道綱

 

文才のある一族

父は小四位伊勢守 藤原倫寧(ふじわらの ともやす)。
受領階級(国司に任命される可能性のある貴族。最高でも四位、五位くらい)の中堅貴族でした。赴任先は上総、河内、伊勢など重要な土地が多かったようです。 藤原倫寧の歌も「後拾遺和歌集」に載っています。

「更級日記」の著者・菅原孝標(すがわらの たかすえ)の娘は姪になります。

和歌や文章の才能に恵まれた一族だったようです。

藤原兼家と結婚

天暦8年(954年)。藤原兼家(ふじわらの かねいえ)から求婚があり。

藤原倫寧の許可を得て兼家が3日間、彼女のもとに通い。正式に妻になりました。

当時の公家は通い婚なので夫婦は同居ではなく。妻の家に夫が通うのが普通でした。

天暦9年(955年)。息子の藤原道綱(ふじわらのともつな)が誕生。
兼家の三男。彼女にとっては一人息子です。

道綱母は裁縫が上手だったようで兼家からは縫い物を頼まれていました。

室町時代に書かれた系図集の「尊卑分脈」には本朝三美人(日本三大美人)のひとりと書かれています。

美しく才能もある女性だったのでしょう。

 

ライバル時姫の存在

兼家にはすでに妻の時姫(道長の母)がいました。

道綱母が兼家と結婚したときにはまだどちらが上と決まっているわけではありません。いずれは兼家と同居して自分が正妻にという望みは捨ててなかったようです。兼家も期待させる言葉を言っていたのかもしれません。

そのため時姫にはライバル心を燃やしていました。

蜻蛉日記には時姫とのやり取りが書かれています。

いずれも道綱母が先に時姫に和歌や文を送り、時姫が返事をするパターンです。時姫にちょっかいをかけてははぐらかされているようです。

 

賀茂祭(葵祭)でのできごと

道綱母は牛車に乗って賀茂祭(葵祭)にでかけました。すると時姫の牛車をみかけたのでその向かい側に停車しました。行列を待つ間、時間があったので「時姫にあなたは見知らぬ顔をして立ってますね」と歌を送った所「あなたの薄情さを今日ははっきりみてとりました」と返事が帰ってきました。

家に帰って兼家にそれを言うと「時姫は「お前を食ってやりたい気がする」とは返してこなかったんだね」と冗談を言い、道綱母と時姫の対立を面白がっている様子です。

新たなライバル町小路の女

兼家は時姫、道綱母、以外にも通っている女性がいました。

天皇の孫に当たる女性。町小路に住んでいるため研究者からは「町小路の女」と呼ばれていますが、名前はわかりません。

道綱母の後から兼家の妻になった彼女に道綱母はとくにライバル心を燃やしました。

町小路の女の出現で自分の所や時姫のところにも兼家が通ってこなくなったと聞くと。時姫と寂しさを分かち合おうとしたのか。時姫に「あなたのところには来なくなったようですが、どなたの所に行ってるのでしょうね」と和歌をよんで手紙とともに贈ったところ、時姫からは「あなたの所に行ってると聞きましたよ」と返事が帰ってきたこともあります。

時姫としては、一方的にライバル心を燃やしている道綱母にあまり関わりたくなかったようです。

町小路の女が男子を産んだと聞くと悔しがり。町小路の女の所に兼家が来なくなったと聞けば安心して。町小路の女の子が死んだと聞けば「心がすっきりする」と喜ぶありさまでした。

 

正妻の座を諦める

最終的に時姫は3男2女の子供を産み。長男・道隆が兼家の後継者として有望視され。時姫の長女・超子が冷泉天皇の女御になり。決定的な差がついてしまいました。

兼家は新築した東三条邸に時姫とその子たちを迎え同居。時姫は正妻の座を獲得しました。

それを聞いた道綱母はいつか見せようと言っていたのに裏切られた。もうこのままでいいと。自分の身の上を嘆く様子が「蜻蛉日記」に書かれています。

さらに道綱母は出家を匂わせて道綱を連れて家を出て般若寺の鳴滝籠もりに出掛けました。驚いた兼家が呼び戻しに来ましたが道綱母は譲らず、兼家を一人で帰らせました。

道綱母は美人で文章の才能もあり裁縫も得意。家の格も時姫と変わらない。時姫に負けているのは子供の数くらい。そんな彼女はプライドが高かったらしく、兼家も苦労したようです。

 

息子の恋文を代筆

道綱母は文章の才能がありました。でも息子の道綱はそうではなかったようです。文才のなさに公家社会でばかにされることもあったようです。

そのためか、元服もしている道綱をいつまでも子供扱いして道綱の恋文を道綱母が代わりに書いていました。

 

養女を迎える

やがて道綱が独立。兼家もなかなか通ってこない。

寂しさを紛らわせるために養女を迎えました。彼女の母は源兼定の娘。兼家が通っていた妻の一人ですがすっかり落ちぶれていました。その娘を引き取って育てることにしたのです。

やがてその養女も結婚。道綱母は養女の求婚者への対応もしました。

夫も来なくなり、息子も独立した彼女にとっては養女のことが最大の関心ごとだったのでしょう。

養女の結婚後。やがて蜻蛉日記は途切れてしまいます。

養女がどのような人物なのか、どのような人生を歩んだのかは不明です。

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時姫の死後

天元3年(980年)1月。時姫が亡くなりました。

このころ道綱母は父の用意した屋敷で暮らし、兼家も通ってこなくなりました。このころ「蜻蛉日記」は書かれなくなっていたので、道綱母が時姫の死をどう思ったのかはわかりません。

天元3年(980年)6月。時姫の娘・詮子が円融天皇の第一王子を出産。

道綱母はお祝いの歌を贈りました。

道綱は道長の正妻・倫子の妹と結婚しています。時姫とはライバルのような関係でしたが、その子らとは争うつもりはなかったようです。

息子の道綱の出世のこともありますから詮子や道長と対立するわけにはいきません。良好な関係を続けていこうとしたのでしょう。

長徳元年5月2日(995年6月2日)。道綱母は亡くなりました。

 

ドラマ

光る君へ 2024年、NHK大河ドラマ 演:財前直見 役名:藤原寧子

 

 

 

 

 

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