藤原忯子・花山天皇に出家を決意させた寵妃

藤原北家

藤原忯子(ふじわらの よしこ、しし)は10世紀から11世紀の平安時代の貴族の女性。

忯子は花山天皇の寵愛をうけた女御でした。

ところが懐妊後に病死していまいます。

忯子の急死は花山天皇にショックを与え、出家を目指すきっかけになったといいます。

忯子(しし)というのは正式な読み方が分からないので仮に呼んでいるだけで。正しい読み方ではありません。

 

 

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藤原忯子とは

名前:藤原忯子(ふじわらの よしこ、しし)
生 年:安和2年(969年) 
没 年: 寛和元年7月18日(985年8月7日)

父:藤原為光(ふじわらの ためみつ)

母:藤原敦敏の娘

兄:藤原斉信

夫:花山天皇

子:なし

 

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藤原忯子の生涯

平安時代の朱雀天皇の時代。
安和2年(969年) に生まれました。

父は藤原為光(ふじわらの ためみつ)
藤原北家出身。
為光は花山天皇の親王時代に春宮大夫として仕えたことがあります。
その後、大納言になって藤原兼家と摂政の座を争っていました。

母は藤原敦敏の娘。

しかし母は忯子が産まれた後、亡くなったようです。

同母兄に一条天朝の四納言・藤原 斉信(ふじわらの ただのぶ)がいます。

 

花山天皇の時代

永観2年(984年)8月27日 。師貞親王が即位(花山天皇)。

どういう経緯で忯子を知ったのかはわかりませんが、花山天皇は忯子の入内を希望しました。

花山天皇は側近の義懐を通して為光に忯子を入内させるように伝えます。義懐は為光の義理の弟で娘婿です。

為光は花山天皇の希望通り忯子を入内させました。

忯子は弘徽殿(こきでん)に入りました。そのため弘徽殿の女房といわれます。

忯子は花山天皇から深い寵愛を受けまもなく懐妊しました。

ところが寛和元年(985年)7月18日。忯子は急死。

花山天皇の退位

花山天皇は寵愛していた忯子が亡くなったためショックを受け「出家して忯子の供養をしたい」とまで言い出します。

側近の藤原義懐たちは花山天皇の一時的な気の迷いだと思って譲位をしないように説得。

寛和2年(986年)6月22日。懐仁親王の即位を望む藤原兼家たちによって花山天皇は陥れられ、出家。

一条天皇が即位しました。

出家後の花山法皇は忯子の異母妹で四の君・儼子(たけこ)を好きになって通っていました。儼子には忯子の面影があったのかもしれません。

しかし忯子の異母妹で三の君のところに藤原伊周が通っていて。自分の恋人を奪われたと勘違いした伊周が花山天皇を襲撃する事件が発声。長徳の変の原因になってしまいます。

その結果、藤原伊周が没落。藤原道長が権力を得ました。

 

忯子が直接なにかをしたわけではありませんが。忯子は花山天皇に影響を与えて歴史も動いてしまいました。

 

永延2年(988年)。父の為光は妻とともに忯子を供養するため法住寺を建立しました。

 

映像作品

TVドラマ
NHK大河ドラマ「光る君へ」 2024年、演:井上咲楽 役名:忯子(よしこ)

 

 

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