藤原公任・道長に出世で負けても和歌の世界では有名人

藤原北家小野宮流

藤原 公任(ふじわらの きんとう)は、平安時代中期の公卿で歌人。

一条朝の四納言の一人。小倉百人一首では大納言公任とよばれます。

藤原北家の一族。道長とは政敵になる小野宮流の出身です。

名門の出身でしたが一条天皇の時代に政治の主導権が藤原兼家の九条流に移ってしまい、小野宮流は力を失ってしまいました。

藤原道長と同じ年。最初は公任の地位が上ですがやがて道長に出世で差をつけられてしまいます。

それでも歌の世界では権威となり。和歌や漢詩、管弦などで優れた人物と高く評価されていました。

藤原公任とはどのような人物だったのか紹介します。

 

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藤原公任とは

名前:藤原 公任(ふじわらの きんとう)
別名:四条大納言、大納言公任(小倉百人一首)

官位 正二位、権大納言

生 年: 康保3年(966年)
没 年:長久2年1月1日(1041年2月4日)

氏族 藤原北家小野宮流

父:藤原頼忠

母:厳子女王(代明親王の娘)

妻:昭平親王の娘(藤原道兼の養女)

子 :定頼、良海、任入、藤原教通正室、藤原遵子養女

 

おいたち

村上天皇の時代。

康保3年(966年)。公任が誕生

父は藤原頼忠(ふじわらの よりただ)
藤原北家小野宮流。
頼忠、祖父・実頼も関白。

母は厳子女王。
代明親王の娘。醍醐天皇の孫です。

父は藤原北家の嫡流で5代続く関白の家柄。

母は醍醐天皇の孫で。両親ともに良血。

名門中の名門貴族です。

具平親王、右大臣 藤原実資、書家 藤原佐理は従兄弟。

順調だった円融・花山天皇の時代

天元3年(980年)。清涼殿で円融天皇が見守る中で元服。正五位下になりました。
異例の出世で将来が期待されていました。

その後。侍従、従四位下、従四位上と昇進。

天元5年(982年)。姉の遵子が円融天皇の皇后になりました。
このとき姉の参内につき従った公任は藤原兼家の屋敷(東三条殿)の前を通り過ぎるとき思わず「ここの女御は、いつ后になるのでしょうか?」と言ってしまいました。

兼家の娘・詮子(道長の姉)は円融天皇の女御になっていました。姉の方が皇后になったのがよほど嬉しかったのでしょう。

永観元年(983年)左近衛権中将、正四位下と昇進。

円融天皇から花山天皇の時代は公任は順調に出世していました。

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一条天皇の時代

権力を九条流に奪われて家が衰退

ところが寛和2年(986年)。兼家の謀略で花山天皇が退位。一条天皇が即位しました。
敗北を悟った父の頼忠は関白を辞任。藤原兼家が摂政になります。
政治の実権が小野宮流から九条流に移りました。

皇太后・藤原詮子の参内に公任がお供していると、進内侍から「お前の姉妹の子のない后はどこにおるのだ?」と嫌味を言われてしまいます。

さらに同い年の藤原道長は永延元年(987年)に従三位に昇進。一気に昇進で差をつけられてしまいます。

寛和2年(986年)10月に行われた円融上皇の大井河遊覧では大堰川に漢詩・和歌・管弦の3艘の舟に名人を乗せて芸を競わせたました。公任は源相方と共に舟に乗る名誉を得ました。

永延3年(989年)。蔵人頭(頭中将)になりました。でもその後3年半は蔵人頭のまま。同年代の若手の公家が次々と出世するなか不満が溜まっていきました。

正暦3年(992年)8月。ようやく参議になり公卿の地位に付きましたが近衛中将にはなれませんでした。

正暦4年(993年)。一条天皇の大原野神社への行幸が行われました。関白・藤原道隆たち主な藤原氏の公卿がほぼ全員が出席しましたが、公任は欠席しました。大原野神社は藤原氏の京都での氏神。そこに天皇をお迎えするのは藤原氏にとって相当な名誉でしたが公任はその場をボイコットしてしまったのです。相当な不満が高まっていたようです。

当然、罰を受けることになり参内は停止になりました。

公任は道隆には不満を持っていましたが、同じように道隆に不満をもっていた道兼とは親しくしていました。

正暦5年(994年)。道兼の養女(昭平親王の娘)と結婚しています。

歌の権威

政治の主導権が小野宮流から九条流に移り、政治の場での存在感が小さくなった公任でしたが。歌の世界では権威を高めていきました。

きっかけになったのは長徳年間(996年~999年)ごろに編纂した私撰和歌集の「拾遺抄」です。

これは花山上皇が勅撰和歌集を作ろうと考えてその前段階として公任に歌を選ばせたのだとされます。「拾遺抄」をもとに作られたのが「拾遺和歌集」でしたが。様々な事情で「拾遺和歌集」が勅撰和歌集として広まることはなく、公任が編纂した「拾遺抄」が勅撰和歌集の扱いを受けていました。おかげで公任は歌の世界での権威になります。

これは清原元輔・平兼盛などの前の世代の歌の権威が亡くなったり地方に行っていたりして、若い世代の公任が活躍できる環境になったからです。

藤原道長の時代

道隆・道兼の死や長徳2年(996年)長徳の変によって藤原道長が政治の中心になりました。

長徳5年(999年)。公任は14年ぶりに昇給して従三位になりました。

公任は道長とは親しくしていました。

道長邸で開かれた祝宴に参加したり、道長とともに西山に紅葉狩りに行きました。
彰子が入内したときには屏風歌を贈りました。

長保3年(1001年)8月。中納言になり。10月には正三位になりました。

後輩に先を越されてストライキ

ところが長保6年(1004年)10月。公任の1歳年下の一条朝の四納言・藤原斉信が従二位に昇進。公任は斉信とは親しくしていましたが、彼に追い抜かれたのがショックだったようで、辞表を道長に出してしまいます。

このとき、公任は有名な文人の紀斉名や大江以言に書いてもらいましたが公任は満足できず、大江匡衡に書かせましたがそれでも満足できず。困った匡衡が妻の赤染衛門に相談したところ良いアドバイスをもらい、公任が満足できる辞表ができたと言われます。

そして公任は辞表を出して出勤せず。

寛弘2年(1005年)7月。従二位に昇進。ようやく公任は参内しました。

その後も、公任は道長と親しくして道長支持派のひとりになりました。

でも公任は道長とは親しくしていたものの小野宮流の誇りは失っておらず。辞表を出したようにところどころ意地を見せることがありました。

寛弘年間。花山上皇の勅撰和歌集「拾遺和歌集」が編纂されました。でもすでに公任が編纂した「拾遺抄」が広まっていて「拾遺和歌集」はあまり広まりませんでした。歌の世界では公任の名声はそれほど高まっていました。

寛弘6年(1009年)。藤原斉信と共に権大納言に昇進。

このころ皇太后宮大夫を勤め、姉の皇太后・藤原遵子に仕えていました。

このころになると政治の主導権は完全に九条流藤原家のものになり、小野宮流藤原家は力を失っていましたが。腐ることなく勤めを果たしていました。

寛弘9年(1012年)。長女を藤原道長の息子・教通に嫁がせました。よほど嬉しかったのか、このことを大納言・藤原実資に長々と喋りました。実資は公任と同じ小野宮流でしたが、実資は道長には反感をもっていました。実資はうんざりしてしまいます。

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出家

しかしその後も公任は昇進できず。治安3年(1023年)には次女、治安4年(1024年)には長女を亡くしてしまいます。このころから出仕しなくなり。12月には権大納言を辞任しました。

そして公任は出家を決意。

万寿2年(1025年)正月に邸宅の四条宮が焼けたので延期したものの、万寿3年(1026年)正月4日。弟・最円がいる洛北長谷(京都市左京区岩倉長谷町)の解脱寺で出家しました。

公任は解脱寺の近くに山荘を建ててそこで暮らしました。

公任が出家したことが都の人々に知れ渡ると。すでに出家していた道長からは和歌とともに法衣一領が贈られました。婿の教通、子の定頼、四納言の藤原斉信など続々と訪問客がやって来ました。

の訪問を受ける。公任と同じく道長の子息(長家)に嫁がせた娘を若くして失っている斉信は、死んだ娘のことを縷々と云い続け、一方で出家の決心も付かない真情を吐露し、これに対して公任は自らの経験を語って斉信を慰める。斉信は時間になっても辞去する気になれず、二人して泣き続けたという[28]。

万寿4年(1027年)。源俊賢、藤原道長、藤原行成が死去。
長元8年(1035年)。藤原斉信が死去。

続々と同時代の有力者が世を去る中で、公任は四納言で最後まで生き残りました。

公任は出家した後も源経頼の依頼を受けて有職故実を教えたり。歌の世界では影響力を持ち続けました。

長久元年(1040年)の年末に瘡湿にかかり。
長久2年(1041年)1月1日死去。享年76。

 

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歌人として

名門の出身ながら政治の世界では完全に九条流の道長一族に敗北した公任でしたが。歌の世界では権威になり。

「拾遺和歌集」のもとになった「拾遺抄」を編纂。しばらくは「拾遺抄」が勅撰和歌集の扱いをうけていましたし。家集「大納言公任集」、私撰集「金玉和歌集」、歌論書「新撰髄脳」「和歌九品」などを書き。

「和漢朗詠集」や「三十六歌仙」の元になった「三十六人撰」を編纂しました。

有職故実書「北山抄」も朝廷の儀式や年中行事がよく分かる貴重な資料になっています。

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逸話

三舟(三船)の才

「大鏡」によると。

あるとき藤原道長が大堰川で舟遊びをしました。このとき漢詩を作る人が乗る舟。管弦を演奏する人が乗る舟。和歌を作る人が乗る舟を出し、それぞれに優れた人を乗せました。

公任は道長に乗る舟を尋ねられたので和歌の舟を選んで乗りました。

そして「小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦きぬ人ぞなき」と詠んで賞賛されます。

公任はその後、漢文の舟を選んでいればもっと名声が上がったかもしれない。残念な事をしたなあ。道長が舟を選ぶようにと言ったのは私が漢詩も和歌も管弦も才能があると思ったからだ。あのときは我ながら舞い上がってしまったよ。

と言ったそうです。

ひとつのことですら優れているのは稀だと言うのに。このように3つのことに優れているとは遠い昔にもないことです。

公任が漢詩、和歌、管弦の才能がある優れた人物であると同時に。かつては同格だった公任と道長が、このときは道長が上で公任が下の地位になっていたというのを表現しています。

 

紫式部の名付け親?

「紫式部日記」にも公任は登場します。

寛弘5年(1008年)。中宮彰子の産んだ敦成親王(後一条天皇)の50日のお祝いの席でのできごと。

御簾の中で出席者の楽しげな様子を観察していた紫式部のもとに公任がやってきて

「おそれいりますが、このあたりに若紫はおられませんか?」

と訪ねてきました。紫式部はそれが自分のことを言ってるのだと分かっていましたが

『光源氏に似てる人もいないなのに、どうして若紫がここにいるのだろう』

と思って聞き流しました。

この前には紫式部は真面目な実資(しかも道長に苦言できる数少ない人物)にはお酒の席の勢いを利用して自分から声をかけていたのに。才能ある貴公子(実資と同族ですが道長とは親しい)と評判の公任の問いかけには無視したのでした。紫式部の好みがなんとなくわかります。

1008年にはすでに「源氏物語」は話題になっていて、公任は自分も源氏物語を読んでいることをアピールするとともに作者の紫式部にちょっかいを掛けてきたようです。

もともと紫式部の女房名は「藤式部」でした。でも公任のように若紫と紫式部を重ねる人が出てきて彼女のことを「紫式部」と呼ぶようになったと思われます。

 

ドラマ

NHK大河ドラマ「光る君へ」 2024年、演:町田啓太

 

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