藤原 宣孝:紫式部と歳の差結婚したモテオヤジ

藤原北家

藤原 宣孝(ふじわらの のぶたか)は平安時代の貴族。

紫式部の夫です。

宣孝は紫式部の父親の同僚。紫式部とはほぼ親子ほどの歳の差があります。

宣孝には紫式部以前にも3人の妻がいましたし、他にも付き合っている女性はいました。

オシャレで女性にもモテたようです。

藤原 宣孝はどのような人物だったのか紹介します。

 

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藤原 宣孝

名前:藤原 宣孝(ふじわらの のぶたか)
生 年:不明
没 年:長保3年4月25日(1001年5月20日)

父::藤原為輔
母:藤原守義の娘

妻:
藤原顕猷の娘
子:藤原隆光

平季明の娘
子:藤原頼宣

藤原朝成の娘
子:藤原隆佐、明懐 

紫式部
子:大弐三位

不明
子:儀明、藤原道雅の妻

 

藤原 宣孝(ふじわらの のぶたか)の生年は不明。
藤原北家高藤流の一族です。

父は権中納言・藤原為輔(ふじわらの ためすけ)

円融天皇の時代

天元元年(980年)六位蔵人になりました。

永観2年(984年)。紫式部の父・為時の同僚になりました。

兼左衛門尉になりました。

永観2年(984年)。円融天皇が退位。花山天皇が即位。

宣孝は院判官代になりました。やがて花山天皇の蔵人(秘書)になりました。

一条天皇の時代。
正暦元年(990年)。筑前守に任命されて筑紫に赴任。

正暦3年(992年)。大宰少弐も兼業しました。

その後、右衛門権佐になって都に戻りました。

長徳4年(998年)山城守になりまいた。
この頃に紫式部と結婚しました。

 

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派手好きでオシャレ

宣孝は当時としては派手な服を好んで着ていたようです。

枕草子に描かれる宣孝

正暦元年(990年)3月ごろ。宣孝は長男の隆光とともに奈良の金峰山に行って、御嶽詣をしました。その時の様子を清少納言が枕草子の「あわれなるもの」に書いています。

当時は神社に参拝する時は質素な服で行くのが礼儀とされていました。でも宣孝は

「それはつまらない慣習だ。ただ清潔な衣を着て参詣すれば、何がいけないというのだ。まさか御嶽山の蔵王権現は『必ず粗末な身なりで参詣せよ』とはおっしゃっていないだろう」

と言って、紫のとても濃い指貫(さしぬき:はかま)に、白い狩衣、山吹色のとても派手な(清少納言に言わせれば「とても仰々しい」)内衣を着て。

長男の隆光には青色の狩衣、紅の内衣、それに乱れ模様を摺った水干袴を着せて参拝しました。

人々は派手な装いの宣孝親子に驚きました。

その後、京に戻った宣孝は筑前守に任命されました。宣孝としては出世です。蔵王権現は現世利益の神様なので宣孝は出世の祈願に参拝に行ったのかもしれません。周りの人たちは「あのとき言ったとおりになった」と噂しあったと言います。

清少納言にとってはイタい奴?

清少納言は枕草子に「これは あわれなるものではないけれど話のついでに書きました。」と皮肉げに書いてます。

「あわれ」とは現代人の思う「哀れ」と違って、しみじみとするもの、心に染みるものの意味です。陽気や派手でなないけれど、静かに深く心に染み入るかんじ、ジーンと来る感じ、ものすごくハッピーではないけれど、なんだかいい。という感じに近いです。

宣孝はそれとは正反対のど派手な服装で参拝したので話題になりました。清少納言はよほど宣孝の行動が印象に残ったのか。わざわざしみじみとするものの中で話題にとりあげ。「これはしみじみするものではない」とこき下ろしています。つまり今風に言えば清少納言は宣孝のことを場もわきまえずに派手な格好をして粋がっている「イタい奴」と思っていたのでしょう。

清少納言は物事ははっきりと言いますが、価値観や美的感覚は意外と当時の公家にありがちなタイプです。

これはまだ紫式部と結婚する前の話。紫式部の父とは同僚ですし、すでに紫式部とは面識はあったでしょう。

逆に紫式部はそんな宣孝にいい印象をもったのかもしれません。

後に紫式部は「紫式部日記」の中で清少納言を批判しています。紫式部は清少納言の自分の知識をひけらかして得意になっているのが気に入らなかったようですが、自分の夫になった人をこき下ろしたことがある。というのも気に入らない理由の一つだったかもしれません。紫式部の時代には「枕草子」は公家社会で読み物として広まっていたのですから。家族を晒し者にされて面白いはずがありません。

それはともかく。宣孝は決まりきった服装は好きではなかったようです。そうしたおしゃれなところもモテた理由の一つかもしれません。

 

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紫式部との恋愛・結婚事情

当時の公家の結婚事情

平安時代の貴族社会は一夫多妻制、通婚(かよいこん)でした。

妻になる女性の父親が交際を認めると、夫になる男性は女性の家に通ってきます。生まれた子供は女性とその実家が育てます。

夫が通ってこなくなったりすると夫婦関係も解消です。

そのため男性は一度に複数の女性を妻にすることがあります。同居している妻が嫡妻。同居していない妻は妻妾。嫡妻と妻妾の扱いには差があり、子供の待遇も違います。

妻と同居している男が他の女性のもとに通うことは許されていました。女性の親も認めています。世間も知る仲です。なので現代人の想像するの妾(めかけ)とも違うようです。

紫式部は妻妾になるのを分かっていて宣孝と結婚しました。だから結婚を認めるまでに時間がかかったのかもしれません。

 

宣孝はモテおやじだった

宣孝は紫式部の夫ですが。宣孝には複数の妻がいました。

紫式部以外にも3人の女性と関係をもち、他にも付き合っている女性がいたようです。

宣孝の若いころ。円融朝の蔵人時代973年にはすでに藤原顕猷の娘と結婚。長男の藤原隆光が誕生しています。

紫式部は晩年になって妻にした女性です。

紫式部との恋愛・最初は乗り気ではなかった

宣孝と紫式部の生年は分かってないのではっきりとした年齢はわかりませんが。経歴などから宣孝と紫式部は親子ほど(15~20歳)は年が離れていたようです。

984年ごろ。紫式部が幼い頃には宣孝と紫式部の父・為時は円融天皇の蔵人(秘書係)として一緒に働いていました。

このころ宣孝は最初の妻と結婚しています。

花山天皇の退位後。為時は失職。

為時の家に方違えに来る男がいて。この男と紫式部は会って歌のやりとりをしています。この男が誰かはわかりませんが。父が失職中で仕事上の付き合いの少ない時期に来る男なのでかなり親しそうです。この男が宣孝の可能性はあります。

996年。為時は越前に赴任。紫式部も一緒に越前に行きました。
宣孝は紫式部が越前に行くころから手紙を出していました。

宣孝はすでに3人の妻がいて(生存・関係が続いているかは不明)。

997年には紫式部は都に戻りました。このころ紫式部が都にいない間、宣孝は近江守の娘も口説いていましたが。宣孝は都に戻った紫式部に直接会いに来るようになります。

宣孝は紫式部に恋文を送りましたが、紫式部は最初は「うるさい」「私のために近江守の娘とは別れないように」と断っています。

それでも宣孝は紫式部に恋文を送ってきます。紫式部は宣孝への返事に海人(あま)が塩を焼く絵を描いて「人は浮ついた心から身を焦がす恋をするのでしょう。私はそういうことはしたくない」という内容の文と一緒に送りました。塩を焼く様子を描いで恋に心を焦がす様子を表現したようです。

でも宣孝は返事に朱で点々を打って「君を恋しく思う涙の色だ」と言って返してきます。でも紫式部は「移ろいやすい軽薄な心だ」と返事しました。

ところが紫式部は宣孝が文を他の女に見せているのを知ります。そこで紫式部は今まで出した文を集めて返せと迫りました。文を返すのは絶交を意味します。

そんな紫式部に対して宣孝は文を返して「今まで愛を受け入れるような仕草をみせながら、文を返せというのはこれで縁を切ろうというつもりか」と返事を書きました。

すると紫式部は
「あなたのような心の狭い人とは仲違いしてもいい」という意味の和歌を送ります。

歌を受け取った宣孝は「もう手紙は出さない」と言うと、紫式部は笑って「したければどうぞ。私はとめはしません」と言い返しました。

でも宣孝はその晩になって「今は腹が立っているけれど、私があなたに腹をたてても意味のないことだと知りました」という意味の歌を送ってきました。

宣孝は親子ほど年の違う紫式部に降参する形で紫式部の愛を求めようとしました。紫式部もそんな宣孝に心を動かされたのか宣孝の求婚を受け入れました。それが997年ごろ。

998年には紫式部と結婚。でも紫式部は何人かいる同居しない妻(妾)のひとりでした。

紫式部は20代半ば。当時としてはかなり遅い結婚です。これは紫式部の父・為時に役職がない時代が続いたことや父と一緒に地方に行っていたことが影響しているようです。紫式部本人も文系の引きこもり女子なので恋愛には熱心ではなかったようです。

999年には紫式部との間に娘の賢子が生まれました。

でも当時は通い婚です。
紫式部のもとに宣孝が通って来ないと寂しい思いをすることもありました。

 

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宣孝の最期

1001年。宣孝が病死。このころ京都でも疫病がはやっていたので疫病で亡くなったと考えられます。

紫式部は夫の死後。薄鈍色(うすにびいろ:薄い紫がかったグレー)の喪服を1年着ました。当時は死者への思い入れが強い人ほど濃い黒の喪服を着る風習がありました。黒の喪服が用意できなかったのかもしれませんが(色が濃いほど高価)、紫式部はそんなに宣孝への愛情は深くなかったのかもしれません。

夫の死後、紫式部は幾つか歌を詠んでいます。

「何かこのほどなき袖を濡らすらん、霞の衣なべて着る世に」
霞のような色の衣を着ていますが、亡き人のことを思えば涙で袖が濡れてしまいます。

宣孝が亡くなってしばらくして皇太后 東三条院 藤原詮子が崩御。朝廷の人々はみんな黒い喪服を着ていました。でも紫式部は夫の死を弔うため薄い色の喪服を着ています。世間では国母の死を悲しんでいるのになんで私は未だに夫の死を悲しんでいるのでしょう。というニュアンスの歌です。

「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」
夫が火葬されて煙になった日より、陸奥の名所絵に描かれている塩釜が身近に感じられるようになりました。

という歌を詠んでいます。

他の女流歌人に比べると、紫式部の歌は死を嘆くにしては感情表現が少なめ。むしろ女友達の死後に詠んだ歌のほうが悲しそうです。紫式部にとって夫はその程度の存在だったといえるかもしれません。

確かに熱烈な愛情ではなかったかもしれませんが。やはり夫が亡くなって悲しいという想いはあったようです。

宣孝の死後。紫式部は他の男性から何度か求婚されることがありましたが。全て断っています。

 

映像作品

TVドラマ
NHK大河ドラマ「光る君へ」 2024年、演:佐々木蔵之介

映画
映画「千年の恋 ひかる源氏物語」 2001年、演:渡辺謙

 

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