高階貴子/儀同三司母・中宮定子の母は才能豊かな歌人

高階 貴子(たかしなの たかこ)は平安時代の貴族で女流歌人。

一条天皇の中宮になった藤原定子の母。

小倉百人一首では「儀同三司母(ぎどうさんしのはは)」と紹介されています。
女房三十六歌仙のひとりにも選ばれています。

高階貴子は和歌や漢詩が得意な才能豊かな女性。子どもたちの教育にも力を入れました。

高階 貴子はどのような人物だったのか紹介します。

 

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高階 貴子

名前:高階 貴子(たかしなの たかこ?/きし)
   名前の正式な読み方は不明

別名:高内侍(こうのないし)、儀同三司母(ぎどうさんしのはは)

生 年:不明
没 年:長徳2年(996年)10月

父:高階 成忠(たかしなの なりただ)

母:不明

夫:藤原道隆(ふじわらの みちたか)

子:藤原 伊周(ふじわらの これちか)

 

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高階 貴子のおいたち

生年は不明。

父は中堅貴族の高階成忠

母はわかりません。

和歌や漢詩の才能が認められる

貴子は和歌や漢詩の才能があり高く評価されていました。

当時は漢文は男の知識とされ、女性が漢文を読むことはあまりありませんが。奈良時代から平安時代にかけては皇族や上級貴族の女性は教養のひとつとして漢文を読むのが流行っていました。

高階貴子は当時の女性の中でも特に漢詩が上手でした。

「まことしき文者」
(本格的な文筆家)

「少々のをのこには勝てりてこそ聞こえはべりし」
(並の男より優れているという)

と周囲から高く評価されていました。

高階貴子の教養は息子の藤原伊周や姪の定子にも影響を与えました。

 

円融天皇の時代

内侍(女官)として宮中に出仕。高内侍(こうのないし)と呼ばれました。
漢詩の才能を高く評価され、宮中の詩宴にも呼ばれました。

藤原道隆と結婚

やがて高階貴子のもとに藤原道隆が通って来るようになりました。

父の高階成忠は最初は道隆との交際には乗り気ではありませんでした。朝、帰って行く道隆の後ろ姿を見て「必ず大臣に至る人だ」と思って二人の結婚を認めました「古今著聞集」

長男・伊周(974年)・長女・定子(977年)・隆家(979年)・隆円(980年)、原子たち三男四女を出産しました。

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一条天皇の時代

夫の道隆が出世、中関白家が栄える

夫・道隆が永延3年(989年)に内大臣、永祚2年(990年)5月に関白、その後は摂政になりました。

藤原道隆の家は中関白家(なかのかんぱくけ)と呼ばれます。

永祚2年(990年)10月。娘の定子が一条天皇の中宮になりました。

定子は貴子の教育を受け漢文や詩歌など教養のある人物でした。定子の周りには清少納言たち漢文や詩歌の才能に優れた女房が集まり文化的なサロンが出来上がりました。そのように仕向けたのは貴子だったといいます。

一条天皇も教養の高い人なので、定子は一条天皇のお気に入りになりました。貴子の作戦は大当たりしました。

永祚2年10月26日。貴子は従五位上から正三位に昇叙。

嫡男 伊周も昇進。正暦3年(992年)19歳で権大納言になり。その後、内大臣に昇進しました。

貴子は中堅貴族の出身ですが関白の嫡妻、中宮の生母になりました。父の高階成忠は従二位と朝臣の姓を与えられました。

 

中関白家の没落と貴子の最期

長徳元年(995年)4月10日。夫・道隆が病死。

道隆の地位は彼の弟たちに受け継がれ、中関白家は徐々に勢いを失います。

長徳2年(996年)。伊周と隆家が花山院に矢を射掛けてしまい大宰権帥・出雲権守にそれぞれ降格。左遷されました。(長徳の変)

貴子は左遷先に向かう伊周の車にすがりついて同行を願いましたが許されませんでした。

その後まもなく病になりました。

長徳2年(996年)10月末。死去。最期まで息子の身を心配していました。

享年は不明ですが40代だったと思われます。

今でも作品の数々が人々の恋心に共感を呼び高く評価されている。

歌人としての貴子

高階 貴子は歌人としても有名。特に恋の歌が人気があります。

女房三十六歌仙のひとり。小倉百人一首では「儀同三司母(ぎどうさんしのはは)」と紹介されています。

小倉百人一首 54番
新古今和歌集 13番恋歌3

「忘しの行く末まてはかたけれは 今日(けふ)をかきりの命ともかな」

他にも拾遺和歌集、後拾遺和歌集、新古今和歌集にも和歌があります。

 

 

映像作品

NHK大河ドラマ「光る君へ」 2024年、演:板谷由夏

 

 

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