藤原道隆・短い間の繁栄だった中関白家の祖

藤原北家九条流

藤原道隆(ふじわらのみちたか)は平安時代 9世紀ごろの貴族。

藤原道隆は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男です。同母の弟妹には道兼、詮子、道長らがいます。

父・藤原兼家の死後に関白になり。娘・定子を女御として入内させて中宮にしました。

朝政を主導するが僅か5年ほどで病に倒れてしまいます。

藤原道隆の家は中関白家(なかのかんぱくけ)と呼ばれますが。道隆の死後に力を失い、道隆の子たちは道長との争いに破れて中央での力を失います。

藤原道隆はどのような人物だったのか紹介します。

 

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藤原道隆

名前:藤原道隆(ふじわらのみちたか)
生 年:天暦7年(953年)
没 年:長徳元年4月10日(995年5月12日)

父:藤原兼家(ふじわらの かねいえ)

母:時姫

弟:藤原道隆、藤原道長

おいたち

藤原道隆(ふじわらのみちたか)は
村上天皇の時代、天暦7年(953年)に生まれました。

父は藤原兼家。
藤原北家九条流の名門出身。

母は時姫(藤原中正の娘)
 兼家の嫡妻。

道兼は兼家の長男です。

九条流は兼家の兄たちが力をもっていました。兼家は兄・伊尹に協力して出世。しかし伊尹の死後、次兄・兼通と兼家が対立。道兼が成人して政治に参加できる年齢になったころは父は兼家は冷遇されていました。そのため道兼もこれといった活動をしていません。

貞元元年(976年)。娘の定子が誕生。

貞元2年(977年)に兼通が死去。天元元年(979年)に父・兼家が右大臣になり朝堂に復帰。

永観2年(984年)8月。花山天皇が即位。

兼家は摂政・氏長者になりました。

 

花山天皇退位事件・寛和の変

永観2年(984年)。円融天皇が譲位。花山天皇が即位。懐仁親王が皇太子になりました。

道隆は従三位になり。懐仁親王の春宮権大夫(東宮御所の家政機関の長)に任命されました。

花山天皇は叔父の権中納言 藤原義懐が補佐していました。兼家にとって花山天皇と血筋の近い義懐は脅威でした。

になり、兼家は孫の懐仁親王に早く即位して欲しいと考えていました。

花山天皇は寵愛する女御・藤原忯子が急死。落胆して意欲を失っています。そこで兼家は花山天皇を唆して退位させようと考えました。

兼家の命令を受けた弟・道兼が花山天皇を内裏から寺に連れ出して出家。その間に道隆は弟・道綱と共に三種の神器の八尺瓊勾玉と草薙剣(形代)を東宮御所へ運びこみました。(八咫の鏡(形代)は賢所に祀っているので天皇のそばには置かない)。

そして懐仁親王が天皇(一条天皇)に即位しました。

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一条天皇の時代

一条天皇の即位後。父・兼家が摂政になると、道隆は従二位権大納言に昇格しました。

永延3年(989年)には内大臣になりました。

でも道隆はこれ以上官位が進むのを望まなかったようで、従一位に昇格されるところを辞退。代わりに嫡男の伊周を正五位下にしてもらいました。

永祚2年(990年)正月。道隆は長女・定子を一条天皇の女御として入内させました。

中関白家の繁栄

5月。兼家が病のために関白を辞職。代わりに道隆が関白、摂政になりました。

「古事談」などによれば。兼家はどの息子を自分の跡継ぎにするか腹心の藤原在国(藤原有国)・平惟仲・多米国平たちに相談したといいます。在国は三男・道兼。惟仲、国平は長男・道隆を支持しました。兼家は道隆を跡継ぎに決定。それを知った道隆は在国を憎み、関白になるとすぐに在国父子の官職を奪いました。

7月。父・兼家が死去。

道隆は自分の家を摂関家の嫡流にしようと考えました。

嫡男 伊周を内大臣、四男の隆家を参議、庶子の道頼が権大納言になり。

娘の定子を一条天皇の中宮にしました。

正暦2年(991年)。内大臣の官を辞して道兼に譲った。

正暦4年(993年)4月22日。再び関白になりました。

正暦6年(995年)正月。次女・原子を皇太子 居貞親王(後の三条天皇)の妃にしました。

こうして着々と勢力を広げていた道隆でしたが。

長徳元年(995年)。関白 藤原道隆が重病になってしまいます。

道隆は嫡男の内大臣 伊周を自分の後継の関白にしようとしましたが。一条天皇が拒否。

4月10日。道隆は死去しました。

死因は酒の飲み過ぎなどによる飲水病(糖尿病)と言われます。

 

映像作品

TVドラマ
NHK大河ドラマ「光る君へ」 2024年、演:井浦新

 

 

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