清少納言・皇后定子に仕え枕草子を書いた女房の人生とは?

清少納言(せい しょうなごん)は10~11世紀に生きた平安時代の貴族。

随筆「枕草子」の作者としても有名です。

一条天皇の皇后。定子に女房として仕えました。

枕草子は有名ですが、それを書いた清少納言がどのような人生を送ったのかについてはあまり知られていません。

清少納言はどのような人生を歩んだのか紹介します。

 

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清少納言

姓:清原(きよはら)
名前:不明
生 年:不明
没 年:不明

父:清原元輔(きよはらの もとすけ)
母:不明

夫:
橘則光
 子:則長
藤原棟世

 

本名

清少納言の本名は不明。

江戸時代の国学者 多田義俊が清原諾子(きよはらの なぎこ)と書いていますが根拠は不明。現在でも清少納言の名前は分かっていません。

清少納言

女房名()は清少納言(せい しょうなごん)。
「清」は清原氏の出身だから。

「少納言」の出処は不明。普通は親族の官職を女房名に付けることが多いのですが。父の清原元輔は少納言になったことがありません。兄弟や近い親族にも少納言はいません。なぜ「少納言」とよばれたのかは不明です。

諸説ありますが、皇后定子が付けたあだ名ともされます。
平安時代中期以降、男性貴族の官職としての少納言の役目は縮小され。中下級女房の位に少納言が使われることもあったようです。

名前の由来を考えると「せいしょう・なごん」ではなく、「せい・しょうなごん」が本来の読み方です。

 

おいたち

10世紀の平安時代に生まれました。
藤原道長とほぼ同世代と思われますが、はっきりとした生年は不明。
文学博士の岸上慎二が考えた966年説が紹介されることが多いです。

父は清原元輔(きよはらの もとすけ)
受領(国司)を務める下級貴族。最終官位は従五位上。
当時から有名な歌人でした。清原元輔の歌は「三十六歌仙」「小倉百人一首」「拾遺和歌集」などにも選ばれています。

母は不明。

円融天皇の時代

天延2年(974年)。父・元輔が周防守になったので清少納言も父と一緒に周防国(山口県)に行き4年間暮らしました。

若いころから歌が好きで宮中に憧れていました。

最初の夫・橘則光と結婚

天元4年(981年)ごろ。橘則光(たちばなの のりみつ)と結婚しました。
橘則光は藤原斉信の家司。則光の母は花山天皇の乳母。

清少納言と則光は恋人同士で周囲も認める仲だったといいます。

天元5年(982年)。長男・則長が誕生。

しかしその後、則光とはなんとなく仲が悪くなって離別。
枕草子には橘則光は何度か登場。夫婦関係を解消した後も会うことはあったようです。

則光は盗賊を捕まえたり武勇伝のある人物ですが、清少納言は彼のことを歌も読めない人物とか

 

ニ番目の夫・藤原棟世と結婚

その後、藤原棟世と再婚。
棟世は父・清原元輔の友人。清少納言とは親子ほど歳が離れているようです。

則光とは対象的に枕草子には棟世はほぼ出てきません。

時期は不明ですが娘の小馬命婦(こまのみょうぶ)が誕生。
同じ名の女房が他にもいるので上東門院小馬命婦とも言われます。
小馬命婦は後に中宮彰子に使える女房になりました。つまり清少納言の娘は一時期、紫式部と同じ職場にいたのです。

 

一条天皇の時代

寛和2年(986年)。花山天皇が退位。
一条天皇が即位しました。

永祚2年(990年)正月。14歳の藤原定子が入内。その年の11月に皇后になりました。

永祚2年5月には清少納言の父・清原元輔が赴任先の肥後で死亡。

定子の母・高階貴子は漢文が理解出来る教養の高い人でした。貴子は文芸好きな一条天皇を惹きつけるため、定子のもとに教養のある女房を集め文化的なサロンにしました。

そこで当時から評価の高い歌人だった清原元輔の娘にも声がかかったものと思われます。

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皇后定子に仕える

清少納言は永祚2年(990年)から正暦4年(993年)ごろの間に皇后定子に仕えたとされます。

淑景舎女御の美しさに感激

正暦6年(995年)1月。定子の妹・原子が東宮・居貞親王のきさきになり住居から淑景舎女御(しげいさのにょうご)とよばれました。

その後。淑景舎女御 原子が皇后定子のもとを訪問。その様子を物影から見ていた清少納言は原子の美しさと付き従う女房の衣装の美しさに感激しました。ところが隠れていたのが藤原道隆に見つかってしまい。道隆が冗談を言ったと枕草子に書いています。

 

衰退する中関白家

長徳元年4月10日(995年)。定子の父・藤原道隆が死去。

長徳2年(996年)
定子の兄・伊周、隆家が花山法皇に矢を射掛けてしまいます。

定子は妊娠中のため内裏を出て二条邸に戻りました。

5月。伊周、隆家が逮捕され左遷が決まると兄弟の処分に怒った定子が髪を切りました。

6月には二条邸が家事になります。

7月には藤原道長が左大臣になり内覧の地位も得て臣下のトップに立ちました。

 

長徳2年10月(996年)。定子の母・高階貴子も死去。

12月(997年1月)には定子が脩子内親王を出産。

 

定子のもとを離れる

屋敷が家事になった後、定子は小二条殿という所にいました。

このころ女房の間に「清少納言は左大臣(道長)の仲間だ」という噂が広まってしまいます。

もともと清少納言は藤原道長や源経房とは親しくしていました。定子を裏切るつもりはなかったはずですが。道隆の死後、定子の周辺でも不幸が相次ぎ。定子周辺の女房も疑心暗鬼になっていたのでしょう。

女房たちの中傷にさすがの清少納言も嫌になって小二条殿を出て実家に戻ってしまいます。

これまでも清少納言は何度か実家に戻ったことがありましたが。定子はすぐに手紙を出して帰ってくるように伝えていました。ところが不幸が重なり過ぎて定子も落ち込んでいす。何日たっても定子からの連絡はありませんでした。

清少納言も本来ならこういう大変な時期こそ定子のそばにいなければいけないと思ってはいるのですが。女房たちから道長の仲間だと疑われているため出られません。

「枕草子」はこのころに書きはじめられたと思われます。

やがて清少納言のもとには皇后定子から清少納言の好きな高級和紙や高麗ばしの畳が送られ、早く戻るようにと連絡がありました。

でも傷心の清少納言は和歌を返しただけで戻りませんでした。

その後、清少納言のもとに女房仲間の長女(おさめ)がやってきて定子の手紙を届けました。

清少納言が急いで手紙を明けてみると、紙には何も書かれていませんでしたが。山吹の花びらが包んであって、そこには「いわでおもふぞ」と書かれてありました。

これは当時知られていた和歌の一部ですが、定子の手紙に感動していた清少納言はすぐには主出せませんでした。すると清少納言に仕えていた少女が何の和歌か教えてくれました。

その歌とは
「心には 下ゆく水のわきかえり 言はで思ふぞ言ふにまされる」
(私の心は湧き上がる地下水のようです。言葉にするよりずっとあなたを思っています)

長女からも「定子様はあなたのことを思っているのにどうして戻らないのですか」と言われ。清少納言はようやく戻る気になりました。

清少納言が戻ったのは山吹の花の咲くころ。4~5月(旧暦の3~4月)ごろと思われます。

清少納言は定子のもとに戻り、定子も何事もなかったかのように清少納言を受け入れました。

職曹司のころ

一条天皇の希望もあり定子は宮中に戻りましたが。定子は髪を切って出家したと思われていたので貴族たちの反対で内裏には入れません。定子は大内裏にある職曹司という場所を住居にしました。清少納言たちもそこに入っています。

長保元年(999年)。定子は出産のため平成昌(たいらの なりまさ)の屋敷に移りました。普通は、きさきは実家で出産するのですが。両親はすでに亡くなり、実家はすでに没落。そこで后の世話をする役所で働いている平成昌の家が選ばれたようです。

でも平成昌は身分が高くないので家は豪華ではありません。定子の牛車が家の門を通れず、門前から歩いて屋敷に入りました。

清少納言はこのとき平成昌に屋敷の門が小さいとからかっています。

定子は敦康親王を出産しました。

しかし長保2年(1000年)。皇后定子は媄子内親王を出産後に崩御します。

枕草子には定子の崩御のことは書いていません。

定子の死後。清少納言は再婚相手の藤原棟世が摂津守をしている摂津(大阪府)に行ったようです。まもなく棟世も死亡。

その後の行方はよくわかりませんが。

赤染衛門が皇太后彰子の病気回復祈願のため清水寺に参拝した時、清少納言と出会いました。父・元輔の桂山荘のそばに住んでいた清少納言と会いました。家の塀が崩れていたので知らせてあげたのでした。

清少納言がいつ亡くなったのかは不明です。

 

映像作品

TVドラマ
NHK大河ドラマ「光る君へ」 2024年、演:ファーストサマーウイカ 役名:ききょう

映画
映画「千年の恋 ひかる源氏物語」 2001年、演:森光子

 

 

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