藤原為時・紫式部の父親は有能な詩人

藤原北家

藤原為時(ふじわらの ためとき)は平安時代の貴族で詩人

紫式部の父親です。

藤原北家の一族ですが貴族としては中堅クラス。あまり高い身分ではありません。

祖父の代から学問には熱心で、一流の文化人との交流のある家でした。為時も学問に熱心。皇太子の学問の師も勤めています。

紫式部はそんな環境で育ちました。

藤原為時はどのような人物だったのか紹介します。

 

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藤原為時

名前:藤原 為時(ふじわらの ためとき)
生 年:天暦3年(949年)頃
没 年: 長元2年(1029年)頃

父:藤原雅正(ふじわらの これまさ)
母:藤原定方の娘

兄弟:為頼、為長、為時、平維将室
妻:藤原為信の娘
 子:女、紫式部、惟規、

後妻(妾?)
 子:惟通、定暹、藤原信経室

紫式部の家族

平安時代の村上天皇の時代。
天暦3年(949年)ごろに生まれたと考えられます。

父は藤原雅正
藤原北家良門流の一族。
母は藤原定方の娘

藤原為時の家は五位どまりの受領層(地方長官を担当する事が多い階級)の中級貴族ですが、父・雅正や祖父・兼輔は紀貫之たち文人歌人とも交流があり教養の高い家でした。

為時自身も教養の高い人物でした。

円融天皇の時代

大学寮(役人を育てる国立学校)の紀伝道(歴史や漢文を教える学科)に入って「文章生」になり、菅原文時(すがわらの ふみとき、道真の孫)の教えを受けました。

文章生だった貞元2年(977年)には東宮(皇太子)師貞親王(もろさだしんのう)の御読書始では副侍読を務めました。

侍読:学問を教える先生

その後は蔵人所雑色・播磨権少掾を務めました。

円融天皇の治世の後半に紫式部が生まれたと思われます。

教育熱心な父親

為時は教育熱心でした。

あるとき為時が長男の惟規に史記(中国の歴史書、全て漢文で書かれています)を教えていました。ところが惟規はなかなか暗記できません。ところがそばで聞いていた紫式部が史記を覚えてしまい、兄の惟規に教えていました。

その様子を見た為時は
「ああ、残念なのはこの子を男の子に生まれさせなかったことだ。不幸なことだ」と嘆いたといいます。

 

再婚

為信の娘(紫式部の母)の死後。為時は別の女性と再婚しました。

子供も生まれました。後妻は為時や紫式部とは同居はしていなかったようです。幼い紫式部は自宅から後妻のもとに通う父を見て育ち、それが紫式部の男性感に影響しているとも言われます。

為時は貧乏なのに再婚や妾をもてるのか?という疑問はあると思いますが。この時代、結婚には通って来られる女の側(実家)に経済力が必要(夫の食事も服も妻の実家が用意する)なので、男の側の経済力が劣ってもあまり問題ではありません。もちろん将来性とかアピールできるものは必要です。為時は有能な歌人で学者だったので興味を持つ女性はいたでしょう。

逆に為時が貧乏で困るのは自分の再婚ではなく、娘の紫式部が結婚できないこと。だから紫式部は晩婚だったのです。

 

花山天皇の時代

永観2年(984年)師貞親王が即位(花山天皇)。

為時は式部丞になりました。

式部丞:式部省の役人。六位相当。式部省は人事や式典を担当する部署。人事に関わるので朝廷でも重要な部署です。

花山天皇から信頼の厚かった為時は重要な役職を任されたようです。

なお、紫式部の「式部」は為時の官職名に由来するといわれます。

ところが寛和2年(986年)花山天皇が退位。

為時も辞任しました。

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一条天皇の時代

寛和2年(986年)。一条天皇が即位。

10年近く為時には役職がありませんでした。

越前守になる

長徳2年(996年)。従五位下・越前守に任命され、越前国(福井県)に向かいました。このとき娘の紫式部も同行させました。

最初、為時は淡路守になる予定でした。越前守には源国盛がなる予定でした。

為時は一条天皇に「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」という漢詩を書いて女御を通じて献上。それを読んだ一条天皇は胸を打たれて食事も喉を通らず、便所に籠もって涙を流しました。それを知った右大臣・藤原道長は、越前守を源国盛から藤原為時に変更したといわれます。

為時が越前守になったのは一条天皇や藤原道長に漢詩の才能が高かったという以外に、他にも理由があったと言われます。

前年の長徳元年(995年)。若狭に宋の商人・朱仁聡(しゅ・じんそう)がやって来ました。朱仁聡は若狭や越前に滞在。朱仁聡との交渉役として漢文に堪能で教養のある為時が選ばれたのではないかとも言われています。

 

寛弘6年(1009年)。正五位下・左少弁になりました。

二度目の越前守と子どもたちの死

寛弘8年(1011年)。越後守になり再び受領(国司)を務めました。息子の惟規も越後国に同行しました。ところが惟規はまもなく現地で亡くなっています。

長和3年(1014年)6月に任期を1年残しながら越後守を辞任し帰京しました。
その理由は不明ですが、一説には直前に紫式部が亡くなったからではないかとも言われています。

長和5年(1016年)4月29日。三井寺で出家。
寛仁2年(1018年)。摂政・藤原頼通邸の屏風に詩を献じました。その後の消息は不明です。

詩人

藤原為時は詩人としても有名でした。

「本朝麗藻(ほんちょうれいそう)」に為時の漢詩作品13首が載っています。

平安時代の詩人で当時最高の学者といわれた大江匡衡は、藤原為時を源為憲・源孝道らとともに「凡位を越える詩人」と高い評価をしています。

「後拾遺和歌集」(3首)、「新古今和歌集」(1首)にも和歌が載っています。

 

映像作品

TVドラマ
「源氏物語」 1965年、毎日放送、演:浜村純
NHK大河ドラマ「光る君へ」 2024年、演:岸谷五朗

映画
映画「千年の恋 ひかる源氏物語」 2001年、演:神山繁

 

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