安倍晴明 平安時代最強の陰陽師の本当の姿とは

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安倍晴明といえば最も有名な陰陽師です。

漫画やドラマ、小説などで有名になりました。しかしドラマや漫画で描かれる清明は若い頃から優秀な陰陽氏として活躍するイケメンとして描かれます。しかし実際の清明は40歳を過ぎて陰陽師になった晩成型の人物でした。85歳という当時としては超高齢まで活動を続け、歴史に名を残す陰陽氏となります。

安倍晴明といえばさまざまな伝説が産まれました。ですがその多くが後の時代に作られた都市伝説のようなものです。歴史上に実在した安倍晴明の本当の姿を紹介します。

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 安倍晴明とは

名 前:安倍晴明(あべの せいめい?)
生 年:延喜21年(921年)
没 年:寛弘2年(1005年)12月16日
父:安倍益材(あべのますき) 
母:不明
子:安倍吉昌(よしまさ)、安倍吉平(よしひら)

清明の名前

名前の清明は「せいめい」と呼びます。でも「せいめい」は本当の呼び方ではありません。有職読みといって、本当の読み方が分からないときやあえて本当の名前で呼びたくないとき(呼ばせたくない時)に音読みで発音したのです。本当の呼び方は「はるあき、はるあきら」かもしれません。 

安倍一族とは

安倍晴明は大坂の阿倍野(大阪市阿倍野区)で産まれたといわれます。確かに阿倍野は安倍氏(阿部氏)発祥の地といわれます。でも清明本人が産まれたかどうかは不明です。

清明が産まれた安倍家は代々朝廷に仕える役人でした。大化の改新で手柄を立てて左大臣になった阿部内麻呂(あべの うちまろ)が祖先といわれます。平安時代初期には漢字を「阿部」から「安倍」に変えたといわれます。

しかし清明の産まれた平安時代中ごろには安倍家は没落していました。清明の父・益材(ますき)は大膳大夫(だいぜんだいぶ:正五位下)。大膳大夫とは宴会や神事・仏事のお供え用の特別な料理を管理する部署の所長です。祖父は淡路守・安倍春材(あべの はるき)といいます。中堅クラスの役人の家系だったのです。

物語などでは清明の父親は安倍保名(あべのやすな)や泰名(やすな)と紹介されることがあります。でも安倍保名は架空の人物です。母親は信太の森の狐という話は有名です。これも江戸時代の作り話。清明の母親は誰なのかわかりません。

ただし都の役人とは不釣り合いな身分の女性。例えば巫女、占いや祈祷をする一族の娘だった可能性はありますね。

清明の生年は延喜21年(921年)。平安時代の中ごろ。菅原道真よりも後の時代です。

安倍家は代々朝廷に仕える役人の一族でした。安倍家も平安京で暮らしていたことになります。

清明の若い頃の記録は少なく詳しいことはよくわかっていません。

天暦2年(948年)。28歳のとき。大舎人(おおとねり)という天皇に仕える雑用係になりました。朝廷に勤務する一般職員として採用されたのです。それまでは何をしていたのかよくわかっていません。

中年の星・青年期を過ぎて陰陽寮の学生になる

天徳4年(960年)には天文得業生になりました。天文得業生とは陰陽寮の教育機関で陰陽博士を目指す学生です。陰陽料では天文・暦・陰陽それぞれの学科に各10人の学生がいて陰陽寮で働く職員を目指しました。得業生は将来の博士を目指す優秀な学生です。定員は2人。博士のもとで修行を行いました。

しかしこのとき清明はすでに40歳。学生というにはあまりにも歳がすぎています。
清明がなぜ陰陽寮に入ったのかわかりません。でもそれまでの下級役人としての人生には満足できなかったのでしょうか。中年になっての進路変更でした。
今風にいうと安倍晴明は中年の星だったのです。

このころ清明を指導したのが陰陽博士の賀茂保憲(かもの やすのり)。保憲は清明の4歳年上でしたが30歳で暦博士になった天才でした。賀茂家で初めて陰陽頭になった人物です。また清明は保憲の父・忠行からも教えを受けたといいます。

若い頃は忠行、得業生になるころには保憲の指導を受けたのでしょう。

しかし出世は遅れても占いの手腕は有名だったようで村上天皇(在位946~967年)に呼ばれて占いをしたといわれます。

霊剣の製造儀式で陰陽師になる

応和元年(961年)。宮中で五帝祭がおこなわれ霊剣が造られました。前年の960年には宮中に落雷があり儀式に使う霊剣が焼けて失われてしまいました。そこで新しく霊剣を作ったのです。五帝祭は神の力を剣に宿すために重要な儀式でした。この儀式を仕切ったのは賀茂保憲でした。清明も儀式に参加して保憲を補佐しました。

同じ年、清明は得業生を卒業。霊剣の製造を無事終えた功績が認められたのでしょう。清明は陰陽寮で働く陰陽師になりました。

天禄元年(970年)。昇進して陰陽少属になりました、

天禄2年(971年)。天文博士になりました。このころより朝廷内で様々な儀式を行っていた記録があります。

陰陽寮のトップだった賀茂保憲が死去した貞元2年(977年)ごろより、朝廷内の重要な儀式や占いを任されることが多くなります。

天皇家や摂関家からの依頼も増えます。

経理も担当

寛和元年(985年)。主計権助になります。主計寮は朝廷の税の管理を行う経理部門です。計算能力の高さを評価された清明は陰陽博士との掛け持ちで主計権助(経理部門の副長官)を任されました。天文学や暦学には計算も必要だったので計算の得意な陰陽師もいたようです。陰陽師が主計寮の役人を兼ねるのは珍しいことではありません。事実、清明の上司にあたる主計頭には賀茂家の人物がなりました。

陰陽道とは

陰陽道は古代中国で発明された陰陽五行説が元になっています。陰陽五行説は自然の成り立ちや法則を説明する哲学です。だから陰陽五行説単独で信仰されることはありません。儒教・道教・仏教と結びつき様々な形で活用されています。公式には6世紀頃、陰陽五行説は日本に伝わりました。日本国内で道教、神道、修験道の考えがミックスされて呪術として発展したのが陰陽道なのです。例えば陰陽道では道教の神を祀っていますが儀式は神道に近く和漢折衷の呪術になってます。ですから中国には「陰陽道」というものは存在しません。

陰陽師の役割

陰陽師の仕事は占い、儀式、日時や方角の吉凶判断が主な仕事です。科学的な知識のない当時は疫病や災害も悪霊などの仕業と考えられたのです。

現代の書籍などでは「陰陽師は天文観測を行い暦を作る技術者だ」と紹介されることがあります。たしかにそうした技術者としての一面もあります。とくに奈良時代から平安初期までは専門家集団としての活動が目立ちました。

しかし怨霊信仰が盛んになる平安時代中ごろになると日時や方位の吉凶を判断する占いや悪霊を退散させたりおとなしくさせる儀式が求められました。技術者よりも呪術師としての活動が多くなるのです。

また陰陽師という言葉が流行るのも平安時代中ごろ以降です。それまでは朝廷に仕える役人だったので人々の依頼を受けることはありません。「陰陽師」という言葉は「陰陽寮」に所属する役人の役職名でした。だから民間の陰陽師は存在しません。

ところが怨霊騒ぎなどで不安が広がる平安時代中ごろ以降になると、役人である陰陽師に貴族からの個人的な依頼が増えます。「陰陽師」は占いや呪術を行う「呪術のプロ」として扱われるようになりました。すると庶民のあいだでも陰陽師の活躍は評判になり民間にも陰陽師を語る者が出現します。現在伝わる安倍晴明の逸話も民間人が考える呪術師のイメージを膨らませたものなのです。安倍晴明と芦屋道満との対決、母狐の物語、呪術合戦の話はほとんどが後世の人が考えた空想上の話なのです。

陰陽寮での活動

陰陽師は不吉なできごと、疫病や災害などがあれば占いを行って原因を突き止めます。原因がわかれば神官や僧侶が儀式を行いますが陰陽師も儀式を行いました。それぞれ担当が決まっていました。神の祟りなら神祇官(朝廷の神職)、死霊や物の気が原因なら密教の僧侶や修験者、悪鬼(悪霊)の仕業や呪詛なら陰陽師が担当します。朝廷内では陰陽道・神道・仏教の担当が決まっていました。災いの原因を突き止めるのは陰陽師の仕事でした。

陰陽師は様々な儀式を行いました。主に生きているものに被害が及ばないようにするものが中心です。災いの原因を根本的に退治するのは修行を積んだ修験者や密教者の担当でした。陰陽師は死者の霊には関わりません。死後の世界は陰陽道の担当ではないからです。

平安末期には陰陽師も死者の霊に関わることがありました。でも清明が生きていた時代はまだ役割分担がありました。また役割分担は朝廷内での分担です。民間で活動する陰陽師には一人で様々な役目を担当する者もいました。

陰陽寮の役人として活動していた清明は様々な儀式を行いました。雨乞いや四角四堺鬼気祭(都に疫病が流行しないように結界を張る儀式)、地震が起こらないようにするための地震祭。天変地異を避けるための玄宮北極歳、火事を防ぐための火災祭などです。他にも様々な儀式があります。これらは陰陽寮に所属する陰陽師が行う公的な仕事です。

陰陽寮を引退後も陰陽師活動を続ける

寛和元年(985年)。66歳のとき。正五位下に昇進。息子の安倍吉昌(あべの よしまさ)が天文博士になり清明は陰陽寮から退きました。主計権助の仕事はしばらく続けたあと左京権大夫(都の行政・警察を担当する部署の副長官)になりました。長保4年(1002年)には大膳大夫になりました。父・益材も勤めていた役職です。

公式な仕事では陰陽道から離れたように見えますが、むしろ個人的な陰陽氏としての活動は陰陽寮を引退した後が活発でした。

賀茂光栄とともに「蔵人所に候す陰陽師」となりました。蔵人所とは天皇の秘書官。蔵人所に所属する陰陽氏ということは天皇直属の陰陽師です。賀茂保憲が最初の蔵人所に候す陰陽師だといわれます。清明は一条天皇に仕えました。

蔵人所に候す陰陽師は陰陽寮の組織の外にいますが陰陽寮よりも地位は上です。天皇一家の依頼で占いや儀式、日時や方位の吉凶判定を行いました。

天皇家と繋がりの深い摂関家からも依頼が増えました。藤原道長からの依頼が来るのもこの頃です。

長保2年(1000年)。従四位下に昇進。陰陽師としては異例の出世です。 清明は陰陽寮のトップ陰陽頭にはなりませんでしたが位では陰陽頭よりも上になりました。

後世に安倍家と賀茂家は陰陽寮の主要な役職を独占することになります。清明や賀茂家が天皇家や摂関家の信頼を得たことが一族の反映に繋がったといえます。

寛弘2年(1005年)12月16日。亡くなりました。享年85歳。

清明の命日は俗説では9月26日といわれます。これは京都にある晴明神社の祭日がもとになっています。この祭日は江戸時代になって成立したもの。しかし宮内庁に伝わる安倍氏・賀茂氏系図では12月16日となっていますので12月16日の方が信頼性は高いと思われます。

清明の死後も息子たちが陰陽師の仕事を受け継ぎました。安倍家は賀茂家とともに陰陽道を支える家柄として栄えます。安倍家は室町時代に姓を「土御門」と変えます。屋敷のあった土御門大路にちなんだものです。土御門家は明治になるまで陰陽道のトップとして陰陽道の中心にいました。

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