大伴旅人 都を守る親衛隊長は酒と風流が好きな歌人だった

スポンサーリンク

大伴旅人は飛鳥時代から奈良時代の公家で歌人です。

百人一首で有名な大伴家持の父親です。旅人は家持に比べるとあまり知名度はないかもしれません。でも元号の「令和」が大伴旅人の屋敷で行われた梅花の宴で詠まれたものなので注目されました。

しかし大伴旅人は歌人のイメージに反して軍隊を指揮する武人でした。都や天皇を守る親衛隊の隊長です。隼人の反乱では鎮圧軍を指揮したり、聖武天皇に仕えて政治の世界でも重要な人物でした。晩年には大臣の中でもトップの地位につきました。

大伴旅人とはどんな人だったのか紹介します。

スポンサーリンク

大伴旅人とは

名 前:大伴旅人(おおとも の たびと)
別名:多比等(たびと)
生 年:天智天皇4年(665年)
没 年:天平3年7月25日(731年8月31日)
父:大伴安麻呂(おおとも の やすまろ)
母:郎女(巨勢 人の娘)
妻:大伴郎女、丹比郎女
子:家持、書持、留女之女郎、高多麻呂

天智天皇4年(665年)、大伴安麻呂の長男として産まれました。

大伴家とは

大友家は歌人が多い印象があるかもしれません。

ところが大伴家は代々、都や天皇家を守る武門の家柄です。同族には同じく軍事を担当した佐伯氏がいます。ちなみに佐伯氏の配下にあった讃岐佐伯氏から生まれたのが空海(佐伯真央)です。大伴・佐伯氏は戦いのない時代になると文化や宗教の世界で活躍する人が出ました。

祖先には雄略天皇に仕えたた大伴室屋(おおともの むろや)や、室屋の息子で新羅遠征で戦死した大伴談(おおともの かたり)、継体天皇の即位に奔走した大伴金村(おおともの かなむら)などがいます。後の時代には伴(ばん)と姓を変えました。

父の安麻呂は大友家の氏上(一族の長)ではありませんでした。壬申の乱で手柄を立てるなど天武天皇や持統天皇の信頼を得て出世を重ね大納言になりました。旅人も宮中で要職を任されるようになります。

旅人のおいたち

旅人は宮中や天皇の警備を行う左近衛府(さこんえふ)に配属されました。都や天皇を守る親衛隊です。

和銅3年(710年)。46歳。旅人は正五位、左将軍(さだいしょう)となり元明天皇の朝賀に出席しました。朝賀とは元旦の行事のひとつ。天皇が皇太子以下、家臣たちの挨拶を受ける行事です。このとき旅人は、副将軍の穂積老(ほづみ の おゆ)ともに騎兵、隼人、蝦夷をひきつれて朱雀大路を行進しました。

その後も
和銅4年(711年)従四位下。
和銅8年(715年)従四位上・中務卿。
養老2年(718年)中納言。
養老3年(719年)正四位下。

と、順調に昇進を続けます。

隼人の反乱

養老4年(720年)。56歳のとき。大隅国(鹿児島県東部)で朝廷から派遣されていた国司の陽侯麻呂(やこ の まろ)が暗殺されました。隼人が反乱を起こしたのです。

このころの九州南部は大和朝廷の支配下にありましたが律令制はまだ行き届いていませんでした。新しい制度の導入には地元の反対も多く律令制の実施が遅れていたのです。そのような中での反乱でした。

大伴旅人は征隼人持節大将軍に任命され、隼人の鎮圧に向かいます。

隼人は7つの城に立て籠もりました。隼人の兵力は7千。旅人ら朝廷側は九州各地から兵をあつめました。その兵力は1万以上といわれます。

旅人たちは5箇所の城を落としました。しかし残りの2つの城に手こずります。ところが8月3日に右大臣・藤原不比等が死去。朝廷は政治の中心人物を失ってしまいました。

8月12日。命勅により中納言を兼ねていた旅人が平城京に呼び戻されました。旅人はあとの戦いを副将軍の笠御室と巨勢真人に任せました。彼らは現地に残り戦い続けました。副将軍たちが隼人を鎮圧して都に戻ったのは養老5年(721年)7月7日でした。

養老5年(721年)。元明上皇が崩御。従三位・御陵造営司となりました。

神亀元年(724年)。聖武天皇が即位。正三位になりました。

聖武天皇は大伴一族を「内の兵(うちのうわもの)」と呼び、大変頼りにしました。旅人も聖武天皇の信頼を得ていたのでしょう。

神亀3年(726年)。知山城国事になりました。

太宰府の長官

神亀5年(728年)。64歳のとき、大宰帥(だざいのそち)となり妻の大伴郎女とともに太宰府(福岡県)に赴任しました。大宰帥とは太宰府の長官です。

息子の家持や書持も大宰府に来ました。

高齢の大宰府長官は左遷人事との説もあります。しかし後の時代の菅原道真と違って旅人の太宰府での生活は優雅なものでした。大伴旅人は反乱鎮圧の実績もあります。聖武天皇の信頼も厚いことから外交や国防で重要な九州を任されたようです。

ところが赴任後まもなく妻の大伴郎女が死去。異母妹の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいつらめ)が来て息子の家持や書持を育てました。

大宰府時代の旅人は山上憶良(やまのうえ の おくら)、満誓(まんぜい、笠麻呂:かさのまろ)ら歌人と交流し、筑紫歌壇を結成しました。筑紫歌壇は主に都から派遣された公家や役人たちが集まって作った詩のサークル活動です。

天平2年(730年)正月。山上憶良ら筑紫歌壇の人々を集めて歌会を開催しました。これが梅花の宴。その時の様子を描いたのが万葉集・5巻に書かれる梅花の詩です。

天平2年(730年)6月。旅人は病に倒れますが起き上がれるほどに回復したようです。

朝廷の最高権力者

大伴旅人が大宰府にいる間に長屋王が藤原氏の陰謀で自害に追い込まれました。大納言・多治比池守が他界するなど朝廷の大臣たちが次々に死亡。いつの間にか大伴旅人が最高の位になっていました。そこで旅人が都に呼び戻されます。

天平2年(730年)9月。平城京に戻り大納言になりました。

天平3年(731年)正月に従二位に昇進。

しかしその後病になって7月25日に死去しました。享年67。

歌人としての大伴旅人

大伴旅人は武人や政治家として実績を残した人ですが歌人としても知られています。大陸風の文化に憧れましたが、政治闘争に明け暮れる儒教よりも風流を愛する老荘思想を好んだようです。酒の詩も作っており、酒好きとしても知られます。

旅人の詩は万葉集に72首が載っています。その多くは大宰府にいるときに詠まれたものです。

・やすみししわご大君の食国(おすくに)は倭(やまと)も此処も同じとぞ思ふ
太宰府に赴任したあとで故郷を偲んだ詩。 

天平2年(730年)の梅花の宴で詠まれた詩。
・わが苑に梅の花散る久方の天より雪の流れくるかも 

梅花の宴の様子が万葉集に記されました。

その序文「時に初春の令月にして気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」が平成の次の元号「令和」のもとになりました。この詩の作者は不明ですが大伴旅人の可能性が高いです。

梅花の宴が開かれた大伴旅人の屋敷は現在の坂本八幡宮(福岡県太宰府市)のあたりだったといわれます。

大伴旅人は武人や政治家として実績のある人でした。しかしそれ以上に酒と風流を好む歌人でとしても知られます。旅人の詩の才能は息子の大伴家持に受け継がれるのです。

関連記事

「令和」のもとになった万葉集・梅花の詩32首の序文とその現代語訳

コメント

タイトルとURLをコピーしました