津田梅子・古い価値観と闘った女性教育者

津田 梅子は津田塾の創始者として知られる教育者です。女性が学問をするのはふさわしくないという儒教の価値観が根強い明治・大正時代に女子教育に熱心に取り組みました。幕末に産まれ明治を生きた女性でありながら昭和の人々よりも進んだ考えを持つ女性といえます。

また津田梅子は2024年から発行される5千円新紙幣の肖像画にもなり注目が集まっています。

津田梅子とはどんな人だったのでしょうか。

津田梅子とは

名 前:津田 梅子(つだ うめこ)
生 年:元治元年12月3日(1864年12月31日)
没 年: 昭和4年(1929年)8月16日)
出身血:東京都
父:津田仙(つだ せん)
母:津田初子(つだ はつこ)

津田梅子は幕末の元治元年(1864年)、幕府の役人・津田仙の次女として産まれました。

父の津田仙(旧姓:小島)は下総国(千葉県)佐倉藩士の息子。津田初子と結婚してつだけの養子になりました。オランダ語、英語や西洋の砲術を学びました。通訳として幕府に採用され幕臣になります。

父の津田仙は幕末の武士にしては西洋の学問や知識に関心の深い人物でした。そんな環境で育った梅子が西洋の文化に興味をもったのは当然かも知れません。

明治維新で父・仙は職を失い、洋風旅館に勤めます。梅子たち家族も向島(東京都墨田区)に移り住みました。幼い頃の梅子は父の仕事を手伝いました。

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岩倉使節団に同行してアメリカに留学

明治4年(1871年)。黒田清隆が企画していた女子留学生の制度を知った仙は娘の梅子を応募させました。黒田清隆は北海道開拓使の次官。黒田は北海道の開拓には近代的な技術を取り入れることと人材育成が大切だと考えました。そこで黒田は欧米に留学生を派遣することにしたのです。

梅子は岩倉使節団に同行してアメリカに渡りました。

梅子は日本初の女子留学生になったのです。岩倉使節団に同行した女子留学生は5人。このとき梅子は8歳(数え歳)。留学生の中でも最年少でした。

江戸時代は儒教が盛んだったので「女性が学問をするのはいけないこと」という雰囲気が根強い時代でした。また女子を異国に送ることに反対する意見も多かったのです。それでも津田仙・初子夫妻は梅子を留学させました。

アメリカに留学した5人の女性のうち2人が病気で帰国。梅子たち3人が留学を続けました。梅子は日本弁務使館(公使館)書記官・ランマンの家にホームステイして現地の小学校に通いました。最初は1年の予定でしたが10年もの間アメリカで暮らしました。ランマン夫妻には我が子同様に育てられキリスト教にも入信しました。

明治14年(1881年)。留学生たちに政府から帰国命令がでます。高校在学中だった梅子と、大学在学中だった山川捨松は帰国を延期。2人は学校卒業後の明治15年(1882年)に帰国しました。

英語の教師になる

日本に帰国した梅子たちでしたが、儒教の教えの根強い日本では女性が社会で働く場は限られていました。しかも長いアメリカ生活でむしろ日本語が不自由になって通訳が必要になるほどでした。

明治15年(1882年)。津田梅子は外務卿・井上馨がひらいた晩餐会に出席。そこで岩倉使節団で知り合った伊藤博文と再会しました。伊東から華族子女の教育に熱心だった下田歌子を紹介されます。梅子は歌子から日本語を学びました。また梅子は英語力を評価され、伊東家の家庭教師兼通訳になりました。

日本人の結婚感に嫌気・生涯独身を貫く

明治18年(1885年)。伊藤の勧めで華族女学校で英語教師として働きます。このころ縁談を勧められましたが縁談話は全て断っています。日本は文明開化したとはいえ江戸時代から続く儒教的な雰囲気が根強く、明治になって庶民にもますます儒教的な教えが広まりました。

アメリカでの生活が長かった梅子は女性は親や夫に従い家を守るのが役目という考えには馴染めなかったのです。そこで梅子は生涯独身を貫きます。

再びアメリカ留学

明治22年(1889年)。アメリカ時代の友人アリス・ベーコンの勧めで梅子はアメリカ留学を決意します。アリスは梅子や山川捨松の友人。2人の依頼で日本に来て英語教師をしていました。

アリスはアメリカに帰国後。明治時代の日本人女性の実情を書いた研究所「日本の女性」を書きました。「日本の女性」の執筆時には梅子も手伝っています。このときの経験が梅子が女子教育にきっかけになったといわれます。

アメリカ留学中に日本の女性の実情を訴える公演を行い女子留学生のための寄付金を集めます。そのお金をもとに「日本婦人米国奨学金制度」を作り25人の女性を日本から留学させました。

明治25年(1892年)。梅子は帰国。華族女学校、明治女学院で勤めならがも女子教育の普及に熱心に取り組みます。

明治31年(1898年)5月、女子高等師範学校教授を兼任。

女性のための高等教育の場・津田塾を作る

明治33年(1900年)。それまで勤めていた学校を辞職。父の仙、留学仲間の大山捨松、瓜生繁子、留学先で知り合ったアリス・ベーコン、実業家で教育者の桜井彦一郎らの助けをえて「女子英学塾(後の津田塾)」を造りました。それまでの女子教育は、華族の女性を対象にしたものでした。

それに対して梅子は華族と平民の区別なくだれでも女子教育を受けられるような学校を目指しました。梅子は女性にも高いレベルの知識が必要と考え、それまでの行儀作法中心の女子教育とは違う高等教育を行いました。しかし最初はあまりにもの難しさに脱落者が続出するほどでした。

しかし梅子は自分の信念を曲げず独自の教育方針を貫きます。方針を妨害されるのが嫌だったので外部の援助金は最小限にしました。そのため塾の経営は苦しかったといいます。

しかし塾の創設と経営は非常に厳しく梅子は壊してしまいます。

塾の経営が起動に乗った大正8年(1919年)。梅子は塾長を辞任。療養に専念しました。

昭和4年(1929年)。鎌倉の療養先で脳出血のため死亡しました。享年64。

梅子の死後、女子英学塾は津田英学塾と改名しましたが第二次世界大戦で消失。昭和23年(1948年)津田塾大学になって再スタートします。

古い価値観にとらわれない女性教育者として

女性が高等教育を受けるのはふさわしくないと思われていた時代。梅子は様々な偏見や困難と闘いました。古い価値観に抵抗して独身を貫き、行儀作法の延長のような女子教育に満足せず、高い知識を学ぶための学校を作りました。学校方針に邪魔が入らないようにできるだけ援助も受けずに経営を行いました。梅子は常に古い価値観との戦いながら女子教育を広めたのです。