牧野寿衛子・牧野富太郎を支えた妻とは

牧野寿衛子(まきの すえこ)は植物学者・牧野富太郎の妻。

寿衛(すえ)ともいいます。

牧野富太郎は金銭感覚に無頓着。研究のためにどんどんお金を使ってしまいます。そのため苦しい生活をすることになってしまいました。

でも寿衛子は富太郎が研究に専念できるように支えました。牧野富太郎があれだけの成果を上げられたのは寿衛子がいたからと言えます。

寿衛子はよく富太郎に「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」と語ったといいます。

牧野寿衛子とはどんな人だったのか紹介します。

 

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牧野寿衛子 とは

 

名 前:牧野寿衛子(まきのすえこ)
小沢壽衛(おざわ すえ)
生 年:1873年
没 年:1928年2月23日
父:小澤一政
母:あい
子:

長女・香代
次女・鶴代
長男・春世
次男・百世
三男・勝世
三女・己代
四女・玉代

他に夭折した子が6人います。

寿衛子の生涯

明治6年(1873年)に誕生。

父の小澤一政は彦根藩主井伊家の家臣。陸軍省営繕部に勤務していました。
母は京都出身。

寿衛子は末の子。

東京都飯田橋に家があったようです。
幼い頃は家も裕福で寿衛子は歌や踊りの習い事などをしていました。

父・一政が亡くなったあと家を売り、母は数人の子供を育てながら飯田町で菓子屋を営んでいました。

その店は牧野富太郎の下宿先から本郷の大学に行く途中にありました。富太郎はは店先に立つ色白でおっとりとした感じの寿衛子が気になってよく菓子屋によっては菓子を買っていました。富太郎は酒が飲めずタバコも吸いません。でもお菓子は好きでした。なのでよく買っていました。そのため自然と寿衛子に会う機会も増えたようです。

気になりだすと、富太郎は寿衛子に会うために菓子屋に買いに行くようになりました。

富太郎にとっては初恋の人ですが、富太郎はどうしたらいいか分からず印刷屋の太田に相談しました。

当時、富太郎は植物の雑誌を作ろうとしていました。それに載せる挿絵を満足のいくものにするために印刷屋に弟子入りして印刷技術を習っていたのです。

太田は富太郎が気になる店の事を調べ、その店の主人(寿衛子の母)に連絡をとりました。すると寿衛子の方もよくやって来る富太郎が気になっているということでした。

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牧野富太郎と結婚

明治21年(1888年)。太田が仲人になって二人は結婚しました。
(自叙伝には明治23年ごろと書いてます)

富太郎と寿衛子は根岸の借家で暮らし始めました。富太郎26歳。寿衛子は17歳でした。

このころ富太郎は大学の主任教授・松村任三から進められた縁談を断っています。後に富太郎と松村任三は仲が悪くなりますが、縁談を断ったのも理由の一つになったようです。

富太郎は裕福な酒屋の息子でしたが家業はすでに傾き

明治23年(1890年)。富太郎が矢田部教授の研究室に出入り禁止になり。

明治24年(1891年)。実家の財産整理のため高知に帰郷しました。

寿衛子と子どもたちは東京に残りました。
その間に長女が死亡。富太郎が高知から戻ってきました。

明治26年(1891年)。富太郎が帝国大学理科大学の嘱託をへて助手になりました。月給は15円。

それから毎年のように子供が生まれましたが。富太郎は金銭感覚が無く。次々と高価な書籍を買い込みます。富太郎が出版しようとしている「日本植物志」は自費出版。大学助手の給料はそれほど高いものではありません。子だくさんで生活が豊かとはいえない中での高額の出費が重なり。借金が膨らみます。

借金取りの相手をする

借金取りが家に来たときは寿衛子がいろいろと理由をつけて追い払っていました。

借金取りの相手は寿衛子がしました。借金取りが来ると家の2階に赤い旗を掲げました。これは借金取りが来たという合図で。富太郎はそれを見ると家には帰らず借金取りがいなくなるのを待ちました。

借金取りは怒って居座ろうとしますが。そのときは寿衛子が相手の話をよく聞いて相手を落ち着かせました。そして富太郎の研究の凄さを説明、すると借金取りの中にはそんなに「すごい先生だったのですか」と関心するものがいたり、中には同情して涙を流す人もいました。

あるときには寿衛子がお産をした3日後に債権者に返済の引き伸ばしのためにお願いに行くこともありました。そのとき富太郎は家で植物の標本をいじっていたといいます。

凄い話術で借金取りを追い返し、家計をやりくりしていた寿衛子ですが。子だくさんで富太郎の出費は止まらず。生活は楽になりません。

家賃を滞納を続けたため。牧野一家は借家を追い出され。30回も引っ越しをしました。

一家は標本の中で寝ることもありました。

それでも寿衛子は子どもたちに「学問のための貧乏だから恥ずかしがらずに胸をはりなさい」と言い聞かせていたといいます。

そうして借金まみれの富太郎には不思議と何度か援助してくれる人がいて助けられました。

待ち合い

でもそれだけではいけないと本郷に菓子屋を出したこともあります。

寿衛子の提案でもっと稼げる店を開くことになりました。

渋谷の荒木に一軒家を借りて「いまむら」という名前の「待ち合い」の店を出すことにしました。「待ち合い」とは接待や会合に使う料亭のこと。

客の対応も上手い寿衛子の店は評判になり経済的な余裕も生まれました。

「待ち合い」というのは料亭みたいなものですが。政治家や大金持ちが集まって会合を開く場に使われていました。大正時代にはよくあったそうで、戦後の高度成長期ごろまではこのような種類の店はありました。

ところが世の中では「待ち合い」は水商売と同じだと考える人もいました。お硬い大学講師の家族が営む商売ではないとされていました。

一時期、地域でも評判の店になったのですが。わけあって閉店。大学でも講師の妻がそのような店をするのはけしからんと問題になりましたが。大学の理事長の理解もあり治まりました。

家を建てる

大正15年(1926年)。寿衛子は「いまむら」を売却。

寿衛子の意見では都会では火事が多いので標本が燃えてしまう。火事のおきにくい所ということで田舎に一軒家を建てることにしました。

寿衛子は東京都練馬区大泉に土地を買い家を建てることにしました。寿衛子はここに立派な植物標本館を建てて牧野植物園を作りたいという夢を持っていました。

寿衛子のやりくりや様々な人の援助もあり家が完成。しかし無理をしてきた寿衛子は体調を崩してしまいます。

昭和3年(1928年)1月。家ができてまもなく寿衛子は入院。その1ヶ月後、寿衛子は大学の青山外科で亡くなりました。享年55歳。

富太郎は深く悲しみました。そして寿衛子が生きていたときに採取していた新種の笹に「スエコザサ」(学名:ササエラ・スエコアナ・マキノ)という名前を付けて発表しました。

富太郎は自宅の庭にスエザサを植え妻を懐かしんだといいます。

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寿衛子がいなかったら富太郎の業績もなかった

 

牧野富太郎は日本の植物学会のレベルを広げ。世間に草花の素晴らしさを広めて抜群の知名度を誇りました。でも金銭感覚には異常なほど無頓着。一年の多くを植物採取に費やし家にもあまりいません。家庭を顧みない父親でした。

でも寿衛子と富太郎と子供は13人生まれました。そのうち6人は幼くして幼くしてなくなりましたが。7人の子供を育てなければならず。何人もの子供を失った悲しみもあります。

それでも寿衛子は富太郎を捨てませんでした。

「生活費のことは私に任せて、好きなだけ研究に没頭してください」と夫に言ったといいます。

「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」とよく言っていました。

富太郎の夢を自分の夢と共有しているように思えます。

寿衛子の墓は富太郎とともに谷中天王寺にあります。

墓碑には牧野富太郎の寿衛子への感謝と愛を込めた句が刻まれています。

「家守りし妻の恵みやわが学び」
「世の中のあらん限りやスエコ笹」

ドラマ

らんまん 2023年、NHK 演:浜辺美波 役名:西村寿恵子

 

 

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