菅原道真 学者から政治家として異例の出世をした人生

菅原道真は学問の神として有名です。でも実在の人物としてはどのような人だったのでしょうか。

道真は平安時代の初期に生きた学者であり政治家でした。
自らの才能と宇多天皇の信頼により、家柄以上の出世をして朝廷の中心にいました。しかし高すぎる出世は周囲の人々から妬みや反感をうけてしまいます。

学問の神としてではなく歴史上の人物としての菅原道真を紹介します。

 菅原道真とは

名 前:菅原道真(すがわわ の みちざね)
神号:天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)
幼名:阿呼」(あこ)、吉祥丸(きっしょうまる)
生 年:承和12年6月25日(845年8月1日)
没 年:延喜3年2月25日(903年3月26日)
父:菅原是善(すがわわ の これよし)
母:伴真成の娘
妻:島田宣来子(しまだ の のぶきこ)
子:菅原高視、菅原衍子

平安時代の承和12年(845年)に平安京で産まれました。
誕生地とされる地はいくつかあり具体的な場所はわかりません。
生誕地とされるのは菅大臣神社(京都市下京区)、菅原院天満宮神社(京都市上京区)、吉祥院天満宮(京都市南区)のいずれかです。

父は文章博士の菅原是善。文章博士とは文学(主に漢文学)、歴史(主に中国の歴史)を教える役職。国立大学の大学教授のようなものです。大学寮(役人を養成する国立学校)の学生だけでなく、皇族や公家の教師を務めることもありました。そのため朝廷内の人付き合いも広かったようです。

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都での華々しい文化人生活

貞観4年(862年)。18歳で大学寮の試験に合格、文章生になりました。

貞観9年(867年)。文章生の中から2人だけが選ばれる文章得業生(もんじょとくごうしょう)に選ばれました。正六位下下野権少掾になりました。

貞観12年(870年)。役人採用試験に合格。その後、玄蕃助、少内記などの役職を勤めます。

貞観14年(872年)。存門渤海客使になりましたが母が他界。喪に服することになったため停職になりました。

貞観16年(874年)。従五位下。兵部少輔や民部少輔を勤めました。

貞観17年(875年)。このころ島田 宣来子(しまだの の ぶきこ)と結婚。
是善が屋敷に吉祥天を祀る。吉祥院(京都市南区)の始まり。

貞観18年(876年)。長男・高視(たかみ)が産まれます。

元慶元年(877年)。33歳。式部少輔兼文章博士になりました。

家業の学者の道を歩み家柄にふさわしい出世をしました。宮中でも文才を認められ天皇や公家の主催する歌会で詩を披露するなど。文人としても名声を高めました。

元慶4年(880年)。父・菅原是善が死去。道真は父に代わり私塾・菅家廊下を主催します。菅原家では当主が弟子たちに学問を教える塾を経営していたからです。現在の菅大臣神社(京都市下京区)の場所にありました。

学問の世界でも都のトップとなり、学者人生の最高の時代でした。

讃岐守となって現実を知る

仁和2年(886年)。42歳。讃岐守(さぬきのかみ)になりました。
国司として讃岐国(香川県)にやってきました。地方行政の責任者になったのです。

地方の役人を経験すことは出世を目指す役人にとっては通過点でした。しかし華々しい宮中での生活に慣れ文化人として頂点を極めていた道真にとって、地方で行政の実務をすることに抵抗がありました。最初は地方の生活に馴染めずホームシックになることもありました。

しかし地方の人々の厳しい生活を目にして考えが代わります。地元の人々と一緒に酒をかわし人々の話を聞きました。都から来た役人が地元の農民と一緒に酒を飲むことは珍しかったのです。

水不足で苦しむ人々のため道真は雨乞いの儀式を行うと雨が降ったという記録もあります。

庶民のためによい政治を行おうと努力しました。後に任期の間に役人の不正を撲滅できなかったことを悔やんでいます。

阿衡事件で宇多天皇の信頼を得る

道真は讃岐国で国司としての役目を行う一方で何度か都に戻っています。

仁和4年(888年)の上京は大きな意味がありました。

天皇になったばかりの宇多天皇(当時21歳)と太政大臣の藤原基経(ふじわら の もとつね)が対立しました。藤原基経は自宅に引きこもって朝廷に出勤しなかったのです。

宇多天皇が送った文章にも言いがかりをつけて大臣としての業務をボイコットしました。しかも藤原基経に近い役人たちも同じように仕事を業務を放棄したので朝廷では業務が止まってしまいました。この事件を「阿衡の紛議」「阿衡事件」といいます。

朝廷の機能停止に困った橘広相(たちばな の ひろみ)は道真に助けを求めました。道真は上京して藤原基経に抗議文を送ります。

抗議文を受け取った藤原基経は朝廷に出勤、朝廷の業務が再開しました。

藤原基経とすれば新しい天皇に自分の力を十分に見せつけそろそろ復帰しようとしていたころだったようです。道真の手紙は業務を再開するひとつのきっかけになったようです。

宇多天皇は道真が窮地を救ってくれたと思い道真に大きな信頼を寄せるようになりました。

寛平2年(890年)。道真は讃岐ので任期を終えて京に戻ってきます。このときは藤原基経はまだ行きていましたが、寛平3年(891年)に藤原基経が死去すると、宇多天皇は思い切った人事を行いました。

寛平3年3月(891年)。道真は式部少輔、蔵人頭、左中弁などを兼任。蔵人頭は天皇のそばに仕え言葉を伝える側近です。菅原家は学者の家系なのであまり高い地位ではありません。それを上級貴族に匹敵する待遇で迎えたのです。

その後も様々な役職を掛け持ちして多忙な生活を送ります。

遣唐使の廃止

寛平6年(894年)。遣唐使に任命されましたが、唐の混乱を理由にして遣唐使の延期します。その後、唐が滅亡したので遣唐使は廃止になりました。

地位を高める道真

寛平7年(895年)。従三位・権中納言になりました。

宇多天皇の信頼を得た道真は要職を務める一方で、皇族との婚姻を進めます。

寛平8年(896年)。長女の衍子を宇多天皇の女御にしました。

寛平9年(897年)。三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃にしました。

6月。道真は権大納言兼右近衛大将。藤原時平が大納言兼左近衛大将になり、道真と時平の二人が政治のトップに立ちました。

7月。宇多天皇は譲位。息子の醍醐天皇が即位しました。若い醍醐天皇を道真と時平が補佐増しました。

道真の財政改革に公家たちが反発

高い地位についたことにより道真はかねてより温めていた財政改革の実現に向けて動き出します。地方の苦しさは税を集める仕組みにあると考えました。公家たちが地方に荘園を持ち荘園の収入は公家のものになります。地方で荘園の管理を任された役人たちは私服を肥やしていました。そこで道真は土地は国が管理することにして税収は国のもとに入る仕組みを考えたのです。しかし藤原氏を筆頭に収入を失う公家たちは道真の考えに反発。時平に味方する公家が増えました。

昌泰2年(899年)。道真は右大臣になりました。左大臣は時平です。

このとき道真は当時の習慣に従って三度辞退して役を引き受けています。

しかし道真が出世すれば出世するほど周囲からの妬みや反発は大きくなりました。菅原家は学者の家柄だったので、政治の中心にいる家柄ではないと周囲から思われれていたのです。

後ろ盾になる宇多上皇が出家して孤立気味になった道真ですが、皇族と姻戚関係を結び外戚となっていた道真はすぐには影響力は失いませんでした。

さらに大学寮や菅家廊下で育てた弟子たちが大勢官僚になっていたので道真の助けになりました。

道真は宇多上皇の外遊に同行するなど上皇と親しくしていました。政治とは関係のない個人的な付き合いだったようですが、醍醐天皇や藤原時平たちからするとなにか企んでいるのではないかと思えたかも知れません。

反対派との確執

道真は多くの公家や学者仲間からも妬みや反感を受けました。学者として異例の出世をして天皇家とも親戚関係になり宇多上皇とも親しくしているからです。しかも道真は妥協を許さない厳しい性格だったのでよけいに周囲との摩擦が起きたようです。

道真攻撃の急先鋒となったのが同じ学者の三善清行(みよし の きよゆき)でした。

三善清行は道真に引退を勧めました。三善家は菅原家とライバル関係にある家です。道真は過去に家業に専念したいと引退を申し出て却下されています。にもかかわらず引退を持ち出してくることは意図的なものだったようです。

三善家も菅原家と同じ学者の家柄。しかし三善家の弟子の数は菅原家よりも少なかったのです。三善清行自身も道真によって試験を落とされたことがあり恨みに思っていました。

菅原道真は儒教の哲学をもとに物事を考える合理主義者でした。しかし三善清行は儒学者でありながら占いや神秘主義的なものを好むところがありました。そんな清行の考えは「学者として不適切」と道真は判断したのです。

しかし清行は儒教の理屈を神秘主義的に解釈して道真を攻撃する急先鋒となります。

昌泰(しょうたい)の変で失脚

昌泰4年(901年) 正月。道真を大宰員外帥に左遷するという命令が出ました。

藤原時平、源光など反菅原道真派の公家たちが醍醐天皇を説得して命令を出したものです。

その理由はこうです。

1.「右大臣菅原は貧しい家柄の出身でありながら大臣になった。立場をわきまえず権力をほしいままにして前上皇の心を欺いた」

2.「醍醐天皇の廃位を企み、異母弟の斉世親王を天皇にしようとした」

1は明らかな妬みで言いがかりです。2が具体的な罪状になります。

確かに斉世親王は道真の娘と結婚しているので義理の親子になります。斉世親王が天皇になれば道真は天皇の義理の父なので大きな影響力を持つでしょう。事実藤原氏はそのようにして権力を得てきました。

しかし歴史上は道真が廃位を企んだという証拠は見つかっていません。冤罪だったといえるでしょう。

道真左遷の連絡を聞いた宇多上皇は驚いて御所に行き醍醐天皇に意見しようとしましたが、御所の門は閉ざされ中に入ることはできませんでした。

この事件で菅原道真は大宰府(福岡県)に左遷。息子の四人も流刑になりました。

宇多上皇派だった右近衛権中将・源善(みなもと の よし)は出雲(島根県)に左遷。
兄・時平と対立していた藤原忠平も政治の世界から遠ざけられます。

道真の左遷は様々な原因が絡んでいます。

・菅原道真・源善といった宇多天皇派と醍醐天皇派の対立。
・学者の家系だった菅原道真が異常なほど出世したため貴族たちに妬まれていたこと。
・菅原家と三善家という学者派閥の争い。
・藤原時平と忠平の兄弟の対立。

こうした様々な理由が重なって道真は左遷されたのです。この事件を昌泰(しょうたい)の変といいます。

大宰府に行った道真

菅原道真は大宰府に行ったものの、与えられたのは「大宰員外帥」という形だけの役職でした。太宰府の役所には入れず、給料も出ません。粗末な小屋で軟禁状態におかれました。道真の体はやせ細り病気がちになります。

延喜3年(903年)2月25日。道真は他界。享年59歳。

道真自身は高い教養と政治家としての使命感がありました。宇多天皇という理解者にも恵まれ学者としては異例の出世をしました。しかし何事も家柄で決まってしまう日本の社会は道真の出世を許しませんでした。公家や学者仲間からも妬まれ疎まれて、濡れ衣をかけられて左遷されてしまったのです。

死後、道真は怨霊として祀られることになりますが。生前の道真は儒教の哲学を政治に役立てようとした合理主義者でした。むしろ占いや神秘主義的なものには慎重な人だったのです。その道真が怨霊とされてしまったのはなんとも皮肉です。