井上内親王 怨霊になって桓武天皇を呪った?悲劇の皇后

井上内親王は奈良時代に生きた聖武天皇の娘。桓武天皇の父・光仁天皇の皇后です。
斎王となり伊勢神宮で仕えていましたが斎王を引退後。白壁王(後の光仁天皇)と結婚。酒人内親王(さかひとないしんのう)、他戸親王(おさべしんのう)の二人の子供を出産しました。

しかし皇后となったあと光仁天皇を呪ったという疑いをかけられ廃后になり無念の死をとげました。井上内親王の死は桓武天皇や藤原氏に衝撃を与え怨霊伝説が生まれます。井上内親王は平城京からの遷都を急がせたかも知れない人物なのです。

悲劇の皇后・井上内親王について紹介します。

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井上内親王とは

呼称:井上内親王(いのえないしんのう、いがみないしんのう)
別名:井上廃后、吉野皇后

生 年:養老元年(717年)
没 年:宝亀6年4月27日(775年5月30日)

父:聖武天皇(しょうむてんのう)
母:県犬養広刀自(あがたのいぬかいの ひろとじ)
夫:光仁天皇(こうじんてんのう)
子供:酒人内親王(さかひとないしんのう)、他戸親王(おさべしんのう)

養老元年(717年)。聖武天皇の長女として産まれました。

斎王になる

養老5年(721年)。5歳のとき占いによって伊勢斎王に選ばれました。

神亀4年(727年)。11歳のとき斎王として伊勢神宮に行きました。

斎王は原則として斎王になると天皇の代替わりか身内の不幸があるまで辞められません。

天平16年(744年)1月13日。弟の安積親王が亡くなったため斎王を退き都に戻りました。

斎王を退き白壁王と結婚

天平19年(747年)。無位から従二品になりました。

天平勝宝元年(749年)。妹の阿倍内親王が即位。46代孝謙天皇となりました。

天平勝宝4年(752年)ごろまでに井上内親王は白壁王と結婚しました。
白壁王は天智天皇の孫。異母姉妹の不破内親王も天武天皇の孫・塩焼王と結婚しました。いずれも皇族との結婚です。聖武天皇は男児に恵まれなかったため藤原氏出身の皇后との間に産まれた阿倍内親王を次の天皇にしました。

聖武天皇は娘のうち誰かが皇族と結婚して男児を産み次の天皇になることを期待していました。一番期待されていたのは塩焼王と結婚した不破内親王が息子を産むことです。塩焼王の母は藤原氏出身だったからです。

そのため白壁王と結婚した井上内親王はあまり注目されることはありませんでした。

天平勝宝6年(754年)。酒人内親王を産みました。38歳という当時としては高齢出産でした。

天平宝字5年(761年)。他戸親王(おさべしんのう)を産みました。45歳という当時としては珍しい高齢出産です。

当時の人としては高齢すぎるというので他戸親王は井上親王の息子ではないとか、34歳の間違いではないかという意見もあります。でも38歳で出産した井上親王のことですから45歳で出産してもおかしくはありません。

このまま皇族として穏やかに過ごすのかと思われました。

神護景雲4年(770年)。後継者を決めないまま孝謙・称徳天皇が亡くなりました。称徳天皇には子供はなく兄弟もいません。孝謙・称徳天皇時代に頻発した政変で皇族の主要な男子が死亡していました。

しかし政変に巻き込まれないように酒を飲み無能を装っていた白壁王は生き残っていました。

光仁天皇が即位、井上内親王は皇后になる

白壁王は62歳と高齢ですがすでに息子がいます。血筋が絶える心配はありません。

そこで白壁王がいったん称徳天皇の皇太子になったあと即位することになりました。すでに称徳天皇は亡くなっていますから皇太子になる意味はないように見えるかも知れません。しかし父系に天智天皇の血をもちながらも形の上では天武天皇~聖武天皇と続く父系の養子に入ることで皇位を継承したのです。

この時代、天武系から天智系への交代といわれることがあります。しかしそうではありません。聖武天皇自身が天武系と天智系が統合した文武天皇の息子でした。その後の天皇も両方の血が複雑に混ざっています。後の時代の研究者がこだわる天武系や天智系という分け方自体が無意味になっていた時代なのです。

元号が変わって宝亀元年(770年)10月1日。白壁王は49代光仁天皇となりました。井上親王は皇后になりました。さらに翌年には息子の他戸親王が親王になりました。

皇族として産まれながらも皇位継承とは関係のない生活をしていた井上内親王でしたが立場が急に変わってしまいました。

無念の死

しかし皇后になった井上内親王に不幸が襲いかかります。

宝亀3年3月(772年)。「皇后が天皇を呪っている」と下級役人が密告。皇后の地位を奪われ、5月には他戸親王が皇太子の地位を奪われてしまいました。廃后と呼ばれてしまいます。

他戸親王が廃された後、後継者選びはすんなりとは決まりませんでした。半年後の宝亀4年1月2日(773年)。次の皇太子になったのは山部親王(後の桓武天皇)でした。山部親王を支持していたのは藤原式家の藤原種継・百川兄弟といわれます。

前年の宝亀2年(771年)には藤原北家の藤原永手が死亡。永手は他戸親王の立太子に奔走した人物です。

宝亀4年10月(773年)には光仁天皇の姉・難波内親王が亡くなりました。ところが井上内親王と他戸親王が呪い殺したという疑いをかけられ大和国宇智郡(奈良県五條市)の屋敷に幽閉されてしまいます。

そして2年後の宝亀6年(775年)4月27日。井上内親王と他戸親王は同じ日に亡くなりました。享年59。他戸親王は15歳でした。

二人の死因はわかりません。親子が同じ日に死亡するのは普通では考えられないので自殺か他殺と考えられています。

藤原式家の陰謀?

井上内親王の息子・他戸親王はすでに皇太子に決まっていました。夫の光仁天皇は64歳。よほど仲が悪いなら別ですが、夫を呪い殺してまで息子を天皇にしなければいけない理由は普通では考えられません。

そこで井上内親王と他戸親王の排除は山部親王を皇太子にしようとした藤原良継(よしつぐ)・百川(ももかわ)兄弟。あるいは彼らを味方につけた山部親王の陰謀と言われることもあります。

他戸親王を支持していた藤原北家の藤原永手が死亡したことで藤原一族内の主導権が式家に移ってしまった。式家の良継・百川らは山部親王を支持して皇太子にしたというのです。

しかしその証拠はありません。事実は謎のままです。

でも皇后と皇太子が廃され庶民にされたあとに死亡したのは事実。不幸な彼女たちの運命はやがて怨霊伝説を生み出します。

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奈良の都を騒がせる怨霊

宝亀7年(776年)ごろから災害が頻繁に起こるようになりました。

地震、日照り、暴風雨、御所への落雷がありました。そこで宮中で大祓をしましたが効果ありません。

宝亀9年(778年)。井上内親王の墓を改装して「御墓」にして他戸親王の墓を「山陵」にして天皇陵と同じ扱いにしました。

光仁天皇と山部親王が病気になったり、藤原蔵下麻呂、藤原良継、藤原百川が死亡しました。

これも母子の祟りだと恐れられます。

とらに山部親王の病気は深刻で、精神疾患になってしまいます。誰も山部親王の病気を治すことはできず1年間闘病生活をおくりました。最後には山部親王が自ら伊勢神宮に行き病気回復を祈願しました。皇太子が伊勢神宮に行くのは初めてでした。そのせいもあってか山部親王の病気は回復しました。

ところが今度は光仁天皇が病気になります。

天応元年(781年)。光仁天皇は山部親王に譲位しました。

桓武天皇のトラウマになった怨霊

山部親王は即位して桓武天皇となり、弟の早良親王が皇太弟になりました。早良親王を皇太子にするのは父・光仁天皇の考えです。その後、光仁天皇は亡くなりました。

桓武天皇は即位すると廃皇后の墓の近くに霊安寺を建てました。しかしそれでも怨霊騒ぎは治まりません。

延暦3年(784年)。桓武天皇は即位してわずか3年で平城京から長岡京に遷都。しかも難波宮の資材を使い回すという突貫工事で短期間のうちに新しい都を造りました。

遷都の理由は諸説あります。政治的に影響力を強める奈良仏教勢力との決別や水運の良さを求めたという理由もあったでしょう。しかしそれらの理由だけであれば首都機能ができていない新都に急いで移り住む必要はありません。「早く井上内親王と他戸親王の怨霊から逃れたい」という想いが遷都を急がせたのかも知れません。

怨霊から逃れるためというと現代人の感覚では合理的ではないかも知れません。しかし当時は疫病も災害も怨霊の仕業と考えられた時代です。人々の意識の中に怨霊は現実の脅威として存在しました。

「天武系から天智系に皇統がかわったことによる都の一新」という後世の研究者による説明よりも「怨霊から逃れるため」という理由のほうが当時の人の感覚では遥かに合理的なのです。

事実、桓武天皇はまるで何かから逃げるように平城京から建設途中の長岡京に移り住みました。しかし水害による工事の難航と早良親王の怨霊騒ぎに悩まされ長岡京の放棄を決定。

延暦13年(794年)。長岡京から平安京に遷都。このときも宮殿ができるといち早く平安京に移り住みます。しかし平安京に移っても桓武天皇は早良親王や井上内親王と他戸親王の怨霊を恐れました。

物理的に都を移しただけでは怨霊からは逃れられないと思った桓武天皇は平安京の町作りに陰陽道を取り入れ(平安京が風水で造られたというのはこのため)、都を守護する寺や神社をいくつも作ります。怨霊から守るための様々な霊的バリアを取り入れることで怨霊から守ろうとしたのでしょう。

延暦19年(800年)。平安遷都の原因になった早良親王に崇道天皇の称号を贈りました。同時に、井上廃皇后にも「皇后」の称号を贈り名誉を回復。墓を山陵にしました。

桓武天皇は早良親王の怨霊に悩まされた天皇というイメージが強いです。でも桓武天皇を悩ませた怨霊は早良親王だけではありません。皇太子時代から井上内親王と他戸親王の怨霊に悩まされていたのです。

現実問題として井上内親王が死後も桓武天皇を呪ったかは問題ではありません。桓武天皇が「井上内親王は恨みを残した」と信じて恐れたことが重要なのです。

皇太子時代にできた井上内親王への恐れは怨霊トラウマとなり桓武天皇の政策に様々な影響を与えることになったのでした。

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