孝明天皇・孤立する天皇と毒殺論まで飛び出す早すぎる死

幕末に生きた孝明天皇は熱心な攘夷派でした。あくまでも朝廷と幕府が協力するという方針でした。

しかし尊王攘夷派の勢いはとまりません。朝廷内では過激な攘夷思想の公家や下級の役人たちが集まり大きな力を持つようになりました。

いつしか孝明天皇の意志とは無関係に攘夷が進んでしまっていました。

孝明天皇は過激な攘夷派の専横に危機感を強めます。

そして早すぎる死は毒殺説もでるほど周囲から不思議がられました。

天皇の権威がピークに達する中で、孤立する孝明天皇と謎に満ちた最後について紹介します。

8月18日の政変

孝明天皇は数少ない公武合体派の中川宮らと連絡をとり三条実万ら攘夷派の排除を模索しました。そこで薩摩藩の島津久光に上洛を求めました。

8月18日には孝明天皇の大和行幸が予定されていました。神武天皇陵と春日大社に譲位を祈願するためです。孝明天皇は反対していましたが、攘夷派の公家と長州藩は無理やり連れて行くつもりでした。

上洛した薩摩久光は会津藩、淀藩と共に御所の警護を固めました。大和行幸は中止。長州藩主毛利敬親・定広父子の処分が決定しました。

三条実万ら攘夷派の公家と長州藩は都を追放されました(七卿落ち)。

政変の後、譲位派の鷹司輔煕が関白を罷免されました。かわりに親幕的な二条斉敬が関白になりました。

徳川慶喜、島津久光、松平慶永、山内豊信、伊達宗城による参預会議がつくられました。

孝明天皇は攘夷を捨てたわけではありません。9月にはまったく何もしない幕府に攘夷決行の催促をするつもりでした。しかし幕府が横浜港の鎖港交渉を開始したので勅使の派遣は中止しています。

その一方で島津久光にあてた手紙では、現在の軍事力で攘夷をすることに疑問を持っているとも述べています

文久4年1月(1864年)。上洛した徳川家茂に対して勅書を下しました。その中で、天皇と将軍は父と子の関係と改めて朝廷と幕府の一体を述べ、攘夷には変わりないが無謀の征夷は望むところではないと宣言しました。天皇直筆の勅書ではありませんが、孝明天皇もこの内容が真実だと認めており天皇の意向であることは変わりありません。

孝明天皇も現実的に攘夷が難しいことを理解しつつありました。

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幕府への依存を強める

強硬な攘夷派を排除して作った参預会議ですが、諸侯間の対立がおこり機能しなくなりました。

その結果力を持ったのが一橋家の徳川慶喜と京都守護職・会津藩主松平容保、京都所司代・桑名藩主松平定敬でした。研修者の間では一会桑政権とよぶことがあります。

孝明天皇は一会桑政権を頼りにしました。

元治元年7月(1864年)。朝廷は幕府に長州藩の追討を命じました。禁門の変を起こした責任をとらせるためです。

11月。幕府軍に包囲された長州藩は降伏。

慶応元年1月22日(1865年)。幕府は長州の処分案を決定。孝明天皇は勅書を与えました。

現実路線に修正

慶応元年9月(1865年)。長州との戦いに勝ったイギリス・アメリカ・フランス・オランダの四カ国はこの機会に兵庫の早期開港を目指しました。予定では慶応3年になっていましたが、2年前倒ししようというのです。

四カ国の艦隊は兵庫沖に来航。兵庫を開港させるためでした。四カ国の使節団は幕府と交渉します。使節のハリー・パークスらは開港しない場合は直接天皇と交渉すると脅します。老中・阿部正外、松前崇広は無勅許で神戸の開港を決定。

朝廷は老中・阿部正外、松前崇広の官位を剥奪、改易しました。

日本の開国が進まないのは孝明天皇のせいだと考えた四カ国は戦争や天皇殺害も脅しに入れ再度開港と五カ国との通商条約の勅許を迫ってきました。

孝明天皇は、切腹をちらつかせる徳川慶喜の説得によって通商条約の勅許を認めます。

しかし兵庫の開港は認めませんでした。宮中での西洋医学を認めないなどの頑な部分もありました。

孤立する天皇

9月。幕府は長州追討の勅書を要求。朝廷は勅書を与えました。

薩摩藩など公武合体に否定的になっていた藩からは不満も出ました。

孝明天皇は徳川慶喜に絶大な信頼を置いていました。その一方で、天皇をないがしろにした公家をかくまい御所に鉄砲を撃った長州には嫌悪感を持っていたのです。

10月。将軍徳川家茂は朝廷の行った老中の解任に抗議して辞意を表明。驚いた孝明天皇は幕府の人事に介入しないことを約束しました。しかし朝廷内部では家茂への失望感が広まりました。

慶応2年6月(1866年)。幕府軍と長州との間に戦いが始まりました。

7月。徳川家茂死去。

8月。将軍職を引き継いだ徳川慶喜は停戦を願い出ました。孝明天皇は慶喜の求めに応じて停戦の勅命を出します。

8月22日。幕府が長州に敗退したことを受けて、岩倉具視たち22人の公家が、かつて追放された攘夷派の公家の復帰を求め朝廷におしかけました。しかし孝明天皇は公家たちを謹慎処罰にしました。(廷臣二十二卿列参事件)

孝明天皇の目指す公武合体。幕府と一体になった朝廷に賛同する者は朝廷の中にはいなくなっていたのです。

孝明天皇の最期と毒殺説

慶応2年12月11日。風邪気味だった孝明天皇は医師たちの静止をふりきり神事に参加します。その後、発熱し寝込みました。

もともと孝明天皇は肛門脱に悩まされていました。

医師たちの治療の甲斐もなく病状は好転しません。

16日には痘瘡(天然痘)にかかっているのではないかと思うようになりました。

周囲の者は順調に回復しているように思っていたようですが、実際には悪化していたようです。

18日から19日には放蕩が紫や黒に変色。

23日は余談を許さない状況になりました。

24日には激しい嘔吐と下痢がおこり出血。

慶応2年12月25日(1867年1月30日)。崩御しました。このとき数え年で36歳。死因は天然痘でした。

孝明天皇の死は4日間秘密にされ。公表されたのは29日でした。

孝明天皇の死後。孝明天皇が嫌っていた攘夷派の公家が復帰。孝明天皇が信頼していた徳川慶喜や松平容保は窮地に立たされます。

孝明天皇の死はあまりにもの若さと死亡したタイミングから。当時から毒殺説が囁かれています。しかし証拠がなく陰謀論の域を出ません。

明治維新と孝明天皇

孝明天皇は幕府と朝廷は一体のものと考えていました。最期まで大政委任の方針は変わりません。しかし薩摩や長州などの大名や公家たちは幕府に見切りをつけ、新しい仕組みを作ろとしていました。孝明天皇の考えは時代のながれとは合わなくなっていました。

自らの発言と行動で尊王攘夷派の指示を得て天皇と朝廷の権威を高めた孝明天皇。江戸時代中期までの権威のない天皇のままであれば、尊王攘夷運動もここまでは盛り上がらなかったでしょう。天皇が幕府を超える権威を取り戻したことによって倒幕運動も現実味を帯びることになります。ある意味明治維新の最大の功労者かもしれません。

しかし高まりすぎた権威は孝明天皇個人の意志とは無関係に独り歩きします。天皇とは人格のない器のようなものになってしまいました。

孝明天皇の死後、公家や大名達は幼い天皇を担ぎだし新たな世の中を作ることになります。王政復古といいつつも明治の世を動かしたのは政治家達。天皇ではありません。近代化された社会に必要とされるのは象徴としての天皇なのです。

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