孝明天皇・高まる権威と暴走する尊王攘夷派

天皇

孝明天皇は幕末の天皇。江戸時代の天皇は力も権威もなく幕府の保護(監視下)で生き延びている存在でした。

しかし幕府の弱体化と攘夷という意思表示をすることで次第に権威を高めていきます。

尊王思想は幕末の水戸から始まりました。しかしその天皇の姿は抽象的なもの。思想の中だけで存在する天皇でした。

しかし自ら攘夷を発言し、ときには幕府に対しても意見を言う孝明天皇は尊王攘夷派の人々にとって理想的な天皇にうつりました。

尊皇攘夷運動の高まりとともに天皇の影響力はおおきくなりました。しかし維新の流れは孝明天皇個人の思惑とははずれ、天皇という存在が独り歩きしてしまいます。

明治維新の中で孝明天皇が何をしたのか紹介します。

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安政五カ国条約に激怒

安政5年1月(1858年)。幕府は日米修好通商条約の調印のため、天皇の勅許を求めてきました。孝明天皇は反対し調印の許可は出しませんでした。かわりに大名の意見をまとめ報告するように支持しました。

ところがいくら待っても幕府の返事は届きません。

4月23日。幕府は井伊直弼を大老にしました。井伊大老のもとで条約の調印が行われました。

6月27日。幕府が日米修好通商条約に調印したことを知らされた孝明天皇は激怒しました。

朝廷内では幕府にどのような対応をすべきか話し合われました。孝明天皇は生ぬるいと怒りました。

ついには「譲位をしたいので幕府に伝えよ」と言い出しました。

関白九条尚忠は「三家または大老を事情説明のために呼ぶのでそれまでは譲位は延期してほしい」と孝明天皇に頼み込みました。

ところが幕府からは、アメリカに続いてロシア、イギリス、フランス、オランダと条約を結んだと報告がありました。これらの国と結んだ条約をまとめて安政五カ国条約とよびます。さらには前水戸藩主徳川斉昭、水戸藩主徳川慶篤、尾張藩主・徳川慶勝が謹慎中、大老井伊直弼は忙しいので上洛できないと返事をしてきました。

それを聞いた孝明天皇は「扇子で関白九条尚忠のあたまをしたたか叩いた」と噂されるほど怒ったといわれます。

改めて譲位を宣言しました。

戊午の密勅(ぼごのみっちょく)

安政5年1月(1858年)。8月7日。孝明天皇は三公(近衛忠煕、鷹司輔煕、一条忠香)と三条実万を呼んで自身が書いた「御趣意書」を幕府に送るように命じました。

御趣意書は孝明天皇が三条実万や水戸斉昭の意見を取り入れて書いたもの。

「幕府が通商条約に調印したのは勅答に背いた軽率行為。朝廷と幕府の不一致は国内の混乱につながるので公武合体が続くように」という内容です。

しかし関白が認めませんでした。三公たちは関白の承認のないまま「御趣意書」を幕府と水戸藩に送りました。水戸藩に送ったということは水戸藩から御三家や大名にも送れということです。

孝明天皇は幕府を倒そうとしたわけではありません。むしろ朝廷と幕府がいまいちど一体となろうと呼びかけています。

しかし江戸幕府にとっては許しがたいことでした。朝廷が勝手に藩に命令を出すのは越権行為です。

孝明天皇は幕府よりの関白九条尚忠に辞職するように圧力をかけました。

幕府にとって関白をないがしろにして朝廷の意思決定がされるのは問題でした。幕府が朝廷をコントロールできなくなるからです。

井伊直弼は強硬手段に出ました。

安政の大獄・尊王攘夷派への弾圧

大老・井伊直弼は尊王攘夷派の志士と一橋派への取締を強化しました。安政の大獄です。

朝廷よりの人々が弾圧される中で老中・間部詮勝が説明のために御所にやってきました。

孝明天皇は直接は間部老中に会いませんでした。間部老中は九条関白に事情を説明しました。それでも孝明天皇は納得せず通商条約に認めません。

間部老中は朝廷関係者や志士たちを逮捕する一方で、孝明天皇に返事を出します。

本当は攘夷したいけれども、今はその力がないので調印は仕方がない。軍事力がととのえば前々の法(条約締結前の状態=鎖国)に戻すのでそれまでは猶予して欲しい。と書かれていました。

ここにきて孝明天皇も納得せざるを得ませんでした。幕府への疑念が「氷解」したと返事を書いています。

朝廷と幕府の意志の不一致は解消されたものの、幕府は戊午の密勅に関わったものの処分を始めました。三公と三条実万が出家することになり、これにかかわった朝廷の役人、水戸藩にも処分が下りました。

そして幕府からは「公武合体」が目に見える形で実行されるのを求められます。

安政7年3月(1860年)。逮捕者が続く中、大老・井伊直弼が暗殺されました。

皇女和宮内親王の降嫁

直後に就任した大老・安藤信正と久世広周は強硬路線を止めて朝廷との融和を目指しました。

14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)と孝明天皇の妹・和宮内親王(かずのみや ないしんのう)を縁組させようというのです。

和宮内親王はすでに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)との婚約が決まっていました。

孝明天皇もすぐには許可しません。しかし幕府は何度も要求します。

しかし公武合体と言い出したのは孝明天皇でした。さらに幕府が7、8年あるいは10年の間に攘夷すると返事してきたので孝明天皇は許可しました。

和宮内親王は最初は拒否していたものの、幕府の圧力や兄の説得に折れます。

ところが孝明天皇のもとに不穏な噂が届きます。「幕府は和宮を人質にして大名に圧力をかけ、天皇の廃位をもくろんでいる」というものです。

孝明天皇は苦渋の決断をしたのに幕府はこのようなことをするのかと嘆き、譲位をちらつかせ和宮に同行する岩倉具視と千種有文に真偽を問いただすよう命令しました。

文久元年10月20日(1861年)、和宮一行は京を出発。

岩倉具視と千種有文は老中・久世広周、安藤信正と面会。将軍と老中が請書を提出しました。江戸時代には天皇が将軍から誓約書をとるのはありえないことでした。

文久2年2月11日(1862年)、徳川家茂と和宮の婚儀が行われました。

「公武合体で鎖国状態に戻す」というのが孝明天皇の意志であり、朝廷の権威を利用して立て直しをはかるのが幕府の思惑でした。

朝廷も幕府もお互いを必要としているのがこの時の状態です。

壮大な航海遠略策

朝廷と幕府が和宮内親王の降嫁でゆれているころ。

有力藩が動き出しました。最初に動いたのは長州藩です。

文久元年5月12日(1861年)。長州藩主毛利慶親の命をうけた長井雅楽が上洛。15日には三条実愛に「航海遠略策」を出しました。

航海遠略策とは、天皇の権威を世界に広めるため、開国して外国へ航海の道を開くべきというものです。

開国論には違いありませんが、外から来るのを受け入れるのではなく。日本から外に進出するという違いがありました。

攘夷鎖国の朝廷とは違う立場の主張でしたが、孝明天皇はこの考えを称賛しました。

航海遠略策は、天皇が幕府に命令し幕府が大名に命令して外国に行き天皇の権威を海外に広める。という内容でした。

これなら天皇や朝廷が外国人と接することはありません。つまり孝明天皇は外国と取引するのが嫌なのではなく、異人に会いたくない。神国と信じる日本に入れたくない。という感覚的なもので開国に反対していただけなのです。

幕府もこの案に賛同しました。

しかし言い出した長州藩で内乱が発生。尊王攘夷派が主導権をとったため、航海遠略策は立ち消えになりました。

航海遠略策は壮大過ぎる内容のように思えます。明治政府が海外進出を行ったときには似たようなことをしていますから、荒唐無稽ともいえません。

島津久光の上洛

公武合体は日本各地の攘夷派を刺激しました。各地で反発が起こり、公武合体派を支持する要人の殺害が発生しました。

過激な尊王攘夷派の動きを抑え、公武合体を進めるため薩摩藩の最高権力者・島津久光が兵を率いて上洛。過激な攘夷派を粛清(寺田屋事件)したことから朝廷は秘密を信頼しました。久光は幕府の改革を要求したため朝廷はこれを認め勅使を江戸に向かわせ、久光が護衛として同行しました。

文久2年7月(1862年)。勅命により、一橋家の徳川慶喜が将軍後見職に就任。越前藩主の松平慶永が政事総裁職になりました。

幕府としては朝廷の権威を借りて幕府の発言力を高めたつもりが、かえって朝廷と朝廷に味方する大名の力に屈することになりました。

尊王攘夷派に乗っ取られた朝廷

孝明天皇はあくまでも朝廷と幕府が協力するという方針でした。しかし尊王攘夷派の勢いはとまりません。

安政の大獄で罷免された鷹司政通、近衛忠煕、鷹司輔煕が復職。公武合体を進めた関白九条尚忠は辞職の勧告がだされました。九条尚忠は辞職出家します。岩倉具視、千種有文らも蟄居を命じられました。

他にも多くの幕府に協力したものが罷免され、弾圧されたものが復権しました。都では過激な尊王攘夷派の志士たちによるテロが発生。

朝廷内では学習院を通して身分の低い公家や官位を保たないものでも意見できるように組織が改正されました。

尊王攘夷派の志士たちの意見が朝廷に届くようになったのです。

尊王攘夷派が主導権を握る長州藩と攘夷派の公家たちが朝廷を動かすようになりました。

文久2年2月(1863年)。徳川家茂上洛に先立ち上洛していた徳川慶喜と松平慶永は前関白近衛忠煕、関白鷹司輔煕と会見。この場でいつ攘夷決行するのかが問題になり。慶喜が「近頃は朝廷と幕府の両方から命令がでる分裂状態だ」と不満をもらし関白に大政奉還か大政委任かの選択を迫りました。

これに対して孝明天皇はすべてを将軍に任せる大政委任と答えます。

ところが関白が出した書状には「征夷将軍の儀」と記され攘夷のための将軍とも読み取れる内容でした。

3月。将軍徳川家茂は和宮降嫁の礼を述べるため上洛しました。

将軍徳川家茂に対しても朝廷から「征夷将軍」との回答がありました。結局、家茂は攘夷の決行を約束させられます。

3月と4月には、賀茂社、石清水八幡宮に攘夷祈願のため孝明天皇が行幸しました。孝明天皇は納得していたわけではありません。天皇の意志は通らず、下からの意見に従うしかなくなっていました。

朝廷内には朝廷が国事を担当し、所軍は軍事を担当するという考えが出始めていました。さらには天皇自ら軍を率いる天皇親政の構想が動き出します。尊王攘夷派は王政復古を目指しはじめました。

5月10日。長州藩は徳川家茂が約束した攘夷決行の日に合せて外国船を攻撃。イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四カ国に敗退します。

孝明天皇は過激な攘夷派の専横に危機感を強めます。そこで生き残った公武合体派の中川宮らと連絡をとりながら攘夷派の排除を模索することになります。

つづく。
次回:孝明天皇・孤立する天皇と毒殺論まで飛び出す早すぎる死

 

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