大久保 次右衛門 利世(おおくぼ じえもん としよ)は大久保利通の父

島津家家紋

大久保 次右衛門は大久保利通(一蔵)の父。

西郷家とは古くからのつきあいがありました。位は西郷家と同じで高い身分ではありませんでしたが、島に代官として赴任したり、琉球との窓口を勤めたりと外の情報に触れる機会の多かった人です。

 

大久保 次右衛門について紹介します。

 

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 大久保 次右衛門 利世 とは

 

名 前:大久保 利世(おおくぼ としよ)
通称:次右衛門(じえもん)
号:子老
生 年:寛政6年11月19日(1794年12月11日)
没 年:文久3年5月19日(1863年7月4日)
父: 大久保利敬
母:
妻:福(ふく)、筆(ふで)
子:新納ナカ、大久保利通、石原キチ、山田スマ、石原ミネ、玉江タケ、土持マツ

 

大久保 利世は薩摩藩士・大久保利敬の三男として、薩摩国鹿児島城下高麗町(鹿児島県鹿児島市高麗町)で産まれました。

城下に住む下級武士で、家格は小姓与。西郷家と同じ身分です。

兄・利建には息子がいなかったので、利建の養子となって大久保家を継ぎました。

薩摩藩の治める島に代官として赴任することが多くありました。

文政10年(1827年)5月、沖永良部島代官付役を務めました。

任期を終えて帰郷したあと。

天保8年(1837年)再び沖永良部代官付役になります。

島での生活中。現地の女性・筆と結婚しました。薩摩では世帯があっても、島に行けば現地の妻を持つことができました。島妻といいます。筆との間には娘のタケとマツが産まれました。島妻と島で産まれた子供は薩摩には連れてくることができません。

利世は三人を残して薩摩に帰りました。

琉球館附役となり琉球館内の屋敷に引っ越しました。琉球館とは琉球(沖縄)との窓口になる役所です。

長男の利通には郷中教育をうけさせるため、加治屋町に住んでいた義姉にあずけました。

 

改革の志を受け継ぐ

島津重豪の時代に藩の改革を目指した「近思録党」に同情的でした。近思録党は重豪によって、処分されました。その事件が「近思録崩れ」です。次右衛門の妻・お福も近思録崩れで処分された皆吉鳳徳の娘でした。次右衛門自身は、当時は若かったので事件には関わっていませんが、彼らには同情的でした。

近思録党は「悲劇の士」として語り継がれ、やがて島津斉彬を担ぐ下級武士の間で英雄視されます。その影響もあったのでしょう、次右衛門は島津斉彬派に所属していました。近藤隆左衛門、高崎五郎右衛門らとともに、お由羅殺害計画の中心人物といわれます。

嘉永2年(1849年)。お由羅騒動に巻き込まれ、翌年・喜界島に流されました。

このとき、現地の役人に「スキがあったら逃げるから油断するなよ」と言ったといいます。

安政元年(1854年)。罪を許され、翌年帰郷しました。

文久3年(1863年)。亡くなりました。享年70歳。

利世は背は高くはありませんでしたが、色白で体格がよかったといいます。むしろ太っていたともいわれます。相撲好きでした。

西郷家は貧しかったとよく言われますが、大久保家は貧しくはなかったようです。交流のある若者を家に招いて食事を与えることもあったといいます。西郷隆盛もよく呼ばれていたようです。大山巌(隆盛の従兄弟)もごちそうになっていたといいます。

息子の利通は背が高く痩せ型でしたので、利通は母親にだったのでしょう。

信仰心が厚く、神仏を信じていました。陽明学や禅学にくわしかったといいます。高名ではなかったけれども学識のある次右衛門は大久保利通や西郷隆盛に影響を与えました。

 

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