和気広虫・日本初の孤児院をひらいた慈悲深い女性

和気広虫(わけのひろむし)は法均尼(ほうきんに)ともいわれます。

弟の和気清麻呂の方が有名かもしれませんが、清麻呂よりも先に出世して宮中で高い地位についた女官です。

日本で初めて孤児院を開いた人物ともいわれ、災害や戦乱で親を失った多くの子どもたちを育てました。利発で慈悲深い正確で孝謙・称徳天皇や桓武天皇からも厚い信頼を受けました。そんな和気広虫について紹介します。

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和気広虫(わけの ひろむし)とは

名 前:和気広虫(わけの ひろむし)
姓の変化:藤野別真人(ふじののわけのまひと)→吉備藤野和気真人(きびのふじののわけのまひと)→輔治能真人(ふじのまひと)→別部(わけべの)→和気朝臣(わけのあそん)
法名:法均(ほうきん)
生 年:天平2年(730年)
没 年:延暦18年1月30日(799年3月1日)
父:藤野別乎麻呂(ふじののわけの おまろ) 
弟:和気清麻呂(わけの きよまろ)
夫:葛木連戸主(かつらぎのむらじ へぬし)

出身は備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)。

和気氏とは

和気氏はかつては藤野別や磐梨別などと名のっていました。和気氏が本拠地にしていた地域の名前が磐梨や藤野など何度が変わったためです。

古代には皇族が地方に派遣されてその地方の役人になるとその地名をとって◯◯別とよばれました。つまり磐梨別とは吉備国の磐梨(いわなす)という地域に派遣された皇族という意味です。

飛鳥時代に八色の姓の姓制度が導入されると、真人(まひと)の姓(かばね)が与えられました。真人とは八種類の姓の中でも最も高いものです。皇族出身の一族に与えられました。

別氏は清麻呂の一族以外にもいくつかの一族があります。清麻呂の一族は11代垂仁天皇と渟葉田瓊媛(ぬなはたたまひめ)との間に生まれた鐸石別命(ぬでしわけのみこと)を祖先にもつといわれます。

藤野別氏は古くは磐梨別氏ともいいました。磐梨別氏は製鉄集団といわれます。古くから吉備で製鉄を行っていた一族でした。つまり、和気氏の祖先は皇室でななく古い時代に大和に従属した吉備の豪族だった可能性が高いです。地方の豪族が高貴な血筋を祖先にもつと主張するのは珍しいことではありません。

和気氏は広い意味では吉備氏の一族に数えられる一族です。吉備氏は血縁でまとまった集団ではなく吉備の豪族をまとめた呼び方でした。和気氏は備前に本拠地を持ち、吉備地方の中では早くから大和とつながりを持った地方豪族でした。

清麻呂の一族も吉備地方の地方豪族だったのでしょう。大和に服従した地方豪族の子女が朝廷に派遣されるのはよくありました。男子は皇族の身辺警護をする舎人(とねり)、女子は皇族の身の回りのお世話をする采女(うねめ)となることが多かったようです。

清麻呂と姉の広虫もそのような地方から中央に派遣された舎人や采女だったのでしょう。

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広虫のおいたち

730年。備前国藤野郡(岡山県和気町)で藤野別乎麻呂(ふじののわけの おまろ)の娘として誕生。

11歳のころ。備前から平城京に移り宮中に仕えることになりました。地方豪族の子女が中央に派遣されて働くことはよくありました。男の場合は舎人(とねり)になって要人の身辺警護、女の場合は采女(うねめ)になって侍女として宮中に仕えました。

孝謙・称徳天皇に仕える

広虫が仕えたのは阿倍内親王(あべのないしんのう)。阿倍内親王は聖武天皇と光明皇后の娘。後の考謙・称徳天皇です。

744年。15歳のとき従五位下葛木連戸主と結婚。葛木連戸主はこのとき31歳。16歳も年の離れた結婚でした。

749年。阿倍内親王が即位、孝謙天皇になります。広虫は考謙天皇に付き従い後宮に入ります。このとき広虫は21歳。

夫・葛木連戸主が紫微少忠になりました。光明皇太后を補佐する紫微中台の中級役人です。

夫婦で天皇家に仕えていたのです。

翌年、弟の清麻呂が兵衛(ひょうえ)となり宮中に仕えるようになりました。

756年。このころから夫・葛木連戸主とともに自宅に孤児を預かって育てるようになりました。当時の都には災害や戦乱で孤児が多くいたからです。これが日本初の孤児院ともいわれます。

762年。淳仁天皇の時代。内侍所の女官・豎子になり天皇の命令を伝える役目を務めます。

このころ夫・葛木連戸主が死亡。

孝謙上皇が出家。広虫も出家して「法均(ほうきん)」と名乗ります。法均は孝謙上皇に仕え腹心となりました。

764年。藤原仲麻呂の乱が発生。戦乱で孤児になった83人を引き取り育てます。戦乱で死罪を申し渡された375人の減刑を訴えました。その結果、死罪になる者は34人に減りました。

淳仁天皇が廃され、孝謙上皇が天皇になります(後世では以後を称徳天皇と呼んで区別します)。

765年。姓を藤野別真人から吉備藤野真人に変えます。従五位下になりました。当時の女性が従五位下になるのは凄いことでした。称徳天皇の信頼を得ていたことがわかります。父は地方豪族で領主クラスですから位は五位あたり。ほぼ父の位に並んだことになります。

768年。従四位下になりました。

宇佐八幡神託事件

769年。太宰府から「道鏡を天皇にすれば天下泰平になる」という宇佐八幡の神勅が伝えられます。称徳天皇は神勅を確かめるため、法均を宇佐八幡に派遣しようとしました。法均は病のため長旅に耐えられないという理由で弟の清麻呂の派遣を推薦。天皇に認められて清麻呂が宇佐八幡に派遣されました。

清麻呂は「天皇には皇族がなること。無道の者(道鏡)は排除せよ」という神勅を持ち帰りました。この神勅を知った称徳天皇は激怒。

法均と清麻呂は官位を剥奪され、法均は備後国御調郡八幡村(広島県三原市)に清麻呂は大隅国(鹿児島県)に流罪になりました。

法均はこのとき還俗させられ、別部狭虫売(わけべのせまむしめ あるいは さむしめ)と名前を変えられました。称徳天皇は罰を与えるものに卑しい意味の名前をつけることがありました。

備後に流された広虫でしたが、同じ吉備出身の豪族・吉備真備の援助で住むところを与えられ生活に不安はなかったようです。備後でも近所の子供達の世話をしながら暮らしました。

770年。称徳天皇崩御。道鏡は失脚。光仁天皇が即位します。

広虫と清麻呂は流罪先から戻り、従五位が与えられました。このころから和気公の姓を名乗ります。

774年。姓が和気宿禰から和気朝臣になります。

桓武天皇のもとで女官No.2の地位に出世

781年。桓武天皇が即位。
広虫は従四位下典蔵になります。桓武天皇の命令を伝える約目です。

789年。従四位上典侍(ないしのすけ)になりました。尚侍(ないしのかみ)百済王明信(くだらのこにきし みょうしん)に次ぐ女官でNo.2の地位にありました。明信は桓武天皇が山部王の時代から寵愛していた女官。桓武天皇の恋人ともいえる存在で、後宮で絶大な影響力を持っていた女性です。

広虫は明信の腹心として桓武天皇の側近くに仕えていたのでしょう。

桓武天皇は「自分に仕える者の多くは毀誉(悪口や褒めること)さまざまだが、法均だけは他人の悪口を言うのを聞いたことがない」と言って褒めていたといいます。桓武天皇からも厚い信頼を得ていたようです。

793年。和気清麻呂が桓武天皇に長岡京から葛野の地(後の平安京)に遷都することを提案。

長岡京建設は桓武天皇のすすめていた事業です。天皇に対して中止を進言するのは従四位の役人にとっては死活問題でした。ふつうならそのような大それたことはなかなか言えないものです。桓武天皇の側近くに仕える姉・広虫の人脈があったからこそ進言できたのかもしれません。

広虫は後宮で働く一方で自宅では子どもたちの世話をし続けました。

799年。他界。享年70。

 

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