赤山靱負(あかやま ゆきえ)・島津斉彬を藩主にしようとしたが自害に追い込まれる

島津家家紋

赤山靱負(あかやま ゆきえ)は島津家の分家筋にあたる人物。分家とはいいっても、本家の継ぎに格式の高い日置家の出身です。

西郷隆盛の父・吉兵衛が日置家と赤山家の御用人をしていた関係で、隆盛とも縁の深い人物でした。

ところが、赤山靱負はお家粗動で切腹に追い込まれてしまいます。若き日の西郷隆盛に大きな影響を与えた赤山靱負(あかやま ゆきえ)とはどんな人だったのでしょうか。

 

PR

 赤山靱負(あかやま ゆきえ)とは

 

名 前:赤山 久普(あかやま ひさひろ)
通称・官名:靱負(ゆきえ)
生 年:文政6年1月17日(1823年2月27日)
没 年:嘉永3年3月4日(1850年4月15日)
父:島津久風 
兄弟:兄・島津久徴、弟・田尻務、桂久武

 

文政6年(1823年)、日置島津家の島津久風の次男として産まれました。

諱(いみな・本当の名前)は久普(ひさひろ)

日置島津家は戦国大名の島津貴久の三男・島津歳久を祖先にもつ家柄。
島津歳久は戦国時代に島津家を支えた島津四兄弟の三男です。

日置島津家は分家とはいえ、本家筋に継ぐ高い地位にありました。代々家老や重役をだしてきた名門です。

日置家は長男と次男にかぎり、元服のときに藩主から直々に加冠されるという名誉が与えられていました。これが許されるのは分家の中では日置家だけです。靱負も藩主・島津斉興から加冠を受けて元服しました。

次男の靱負は独立して赤山家を継ぎました。

天保12年(1841年)。小納戸見習行奥小姓になりました。

天保15年(1844年)。江戸滞在中に供目付になりました。

弘化3年(1846年)。鑓奉行になりました。

弘化4年(1847年)。軍役方掛になりました。

西郷家との関係

日置家には西郷隆盛の父・吉兵衛が御用人として出入りしていました。御用人とは家中の雑務を取り仕切る執事のようなものです。

西郷吉兵衛は、靱負の実家に出入りした関係で赤山家にも出入りするようになりました。

父が赤山家に出入りしていた関係で、靱負と隆盛にも面識があったと考えられます。二人の歳は4歳しか離れていませんので、隆盛は弟分のような存在だったのかもしれません。

お由羅騒動で自害

父・久風は藩主・斉興のもとで家老を勤め、斉興からの信頼が厚い人物でした。斉興は嫡子の斉彬を嫌って側室由羅が産んだ久光に家督を譲りたいと考えるようになっていました。久風も久光を支持していました。

しかし、長兄・久徴は父・久風の考えに従わず斉彬を支持しました。赤山靱負自身も兄と同じように斉彬を支持していました。

家中に久光を藩主にしようとする動きがあるのを知ると、靱負は兄の久徴、弟の田尻務、桂久武とともに日置派を作って斉彬を藩主にしようと活動を初めます。

斉彬を慕う若い藩士たちも斉興を藩主にしようと立ち上がります。過激な一派が斉興を隠居させ、斉彬を藩主にしようと動き出し斉興の腹心・調所広郷を切腹に追い込みました。

しかしこの動きを知った島津斉興は激怒します。

主要人物だった高崎五郎右衛門と近藤隆左衛門達13名が切腹を命じられます。他にも大久保利通の父・利世らが島流しになりました。

赤山靱負も中心人物とされて切腹を命じられました。享年27歳。

この事件がお由羅騒動(高崎崩れ)です。

 

赤山靱負の最期をみとった西郷吉兵衛

赤山靱負は自宅で自害しました。最期を看取ったのが赤山家の御用人をしていた西郷隆盛の父・吉兵衛です。

このとき吉兵衛が介錯をしたといわれますが、実際には剣豪の加藤新平に依頼して介錯をしてもらいました。

吉平の祖父も西郷吉兵衛と名のっていました。祖父の西郷吉兵衛は太刀流の剣術家・大山貞政の門人でした。吉兵衛も城下では有名でした。剣術家だった祖父と名前が同じだったので間違われたのでしょう。

とはいえ、赤山靱負の最期をみとった西郷吉兵衛は血染めの肌着を貰い受けました。西郷隆盛は父・吉兵衛から赤山靱負の最期を聞かされ血染めの肌着を受け取ると号泣したといいます。

赤山靱負は若き日の西郷隆盛に大きな影響を与えた人物です。彼の死は西郷隆盛に大きな衝撃を与えました。赤山靱負の意思をうけついだ隆盛は将来は斉彬のために働こうと思うようになったのかもしれません。

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました