梶原景時(かじわら かげとき)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武士です。
源頼朝・頼家の二人の将軍に仕えました。
実務能力が高く、教養があり弁説も上手い景時は歴代将軍から頼りにされていました。
平家との戦いでは源義経に従いました。景時と義経は考え方があわず、景時が意見しても逆に怒られることもあったようです。
義経の行動に問題があると頼朝に報告。義経が頼朝から嫌われる原因を作ったとして、判官贔屓な立場からは梶原景時は義経を陥れようとする悪役にされます。
梶原景時は将軍には忠実でしたが、御家人たちからは恨まれていました。景時は頭が良い反面、坂東武者たちとはうまくやっていけず孤立していきます。
能力はあっても人望がないタイプの人間のようです。
頼朝の死後。十三人の合議制の一員になりますが。御家人たちに弾劾を起こされ失脚。謀反の噂をたてられ京都に逃れようとしたところを討たれました。
梶原景時とはどんな人だったのでしょうか。
梶原景時 とは
名 前:梶原 景時(かじわら かげとき)
通称:平三(へいざ、へいぞう)
生 年:保延6年(1140年)
没 年:正治2年1月20日(1200年2月6日)
父:梶原景清
母:横山孝兼の娘
妻 鹿野尼
子 景季、景高、景茂、景義、景宗、景則、景連
おいたち
梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族。大庭氏とは同族。
祖先は後三年の役で源義家のもとで戦いました。平治の乱で源義朝が戦死した後は平家に従っていました。
頼朝を見逃す
治承4年(1180年)8月。源頼朝が挙兵。
梶原景時は平家側の大庭景親とともに頼朝と戦いました。石橋山の戦いで頼朝軍に勝ちました。
敗れた頼朝は山中に逃れ隠れましたが、「吾妻鏡」によると梶原景時は山中に潜伏する頼朝に気づきながらも見逃しました。
ただし「愚管抄」では頼朝の挙兵時には土肥次郎実平、北条時政たちと一緒にいたと書かれているので。早くから頼朝と通じていた可能性もあります。
その後。再起した頼朝の軍は大軍になって鎌倉に入りました。頼朝が平家軍を撃破、大庭景親が捕えられて処刑されると。梶原景時は土肥実平をとうして頼朝に降伏しました。
その後は、頼朝に使え御家人になりました。
梶原景親は実務能力が高く、教養も身につけ弁舌も上手い人物でした。荒くれ者の多い坂東武者の中では珍しいタイプの武将だったようです。そのため景時は頼朝から信頼され様々な任務を任されます。景時も与えられた任務は確実にこなしていったのでますます頼りにされました。
時期は不明ですが景時は侍所所司(次官)に任命されました。
上総広常の粛清に関わる
寿永2年(1183年)12月。源頼朝は力をもつ上総広常に危機感をもっていました。そこに上総広常に謀反の噂がたちました。
景時は頼朝から上総広常殺害の命令をうけました。景時は上総広常と双六をしているときを狙って急に広常に襲いかかり殺害しました。
後に上総広常の謀反は事実ではなかったことがわかり頼朝は後悔しましたが。もともと驚異には感じていたようです。
源義経と対立
義経は木曽義仲を討つため都に向けて出陣。景時親子もその軍の中にいました。
寿永3年(1184年)正月。宇治川の戦いでは嫡男・景季が先陣を争い手柄をたてました。
戦いの後。景時は義仲を討ち取った場所、そのときの様子、討ち取った主な武将たちの名前など、詳しい報告を書いて送りました。頼朝はその報告を見て景時の実務能力の高さに喜びました。
一ノ谷の戦い
その年の2月7日。「一ノ谷の戦い」では。景時が義経の侍大将。土肥実平が範頼の侍大将に決まっていました。ところが意見が会わず所属を交替。
景時、景季、景高の親子は範頼の大手軍に所属して戦いました。この戦いで梶原勢は生田口を守る平家軍と戦い、平重衡を捕えるなと活躍しました。
2月18日。景時は土肥実平とともに播磨・備前・美作・備中・備後5か国の守護に任命されました。
その後、景時は平重衡を護送して一旦、鎌倉へ戻りました。その後も平家方の領地の没収などの役目を担当しました。
屋島の戦い
8月。西国に向かった平家方を討つため、頼朝は源範頼を派遣しました。景時も従軍しました。ところが範頼軍の進軍はうまく進みません。
頼朝は讃岐(香川県)の屋島にいる平氏軍を討つため義経を派遣。景時は義経軍のもとに派遣されました。
元暦元年(1185年)正月。「平家物語」によると。景時は船の前にも櫓をつけて後ろにも進めるように提案。ところが義経は臆病者のすることだと却下。前に進むことしか考えない義経に景時は「進だけを考えて、退くことを知らないのは猪武者だ」と言って義経と対立しました。
2月。義経は景時らの反対を押し切って暴風の中を5艘150騎で海をわたり四国に上陸。屋島を攻め落としました。景時の本隊が到着したときには平氏の敗北が確定、逃げていました。間に合わなかった景時は笑われました。
壇ノ浦の戦い
平氏は長門(山口県)に逃げました。
3月。義経は水軍を編成。壇ノ浦で平氏との戦いに挑みました。
「平家物語」では景時は軍議で先陣を希望しましたが、義経は却下。自分が先陣に立ちました。怒った景時が義経に「総大将が先陣なぞ聞いたことがない。将の器ではない」と言うと、義経の仲間たちと景時父子は険悪な雰囲気になり、斬りあう寸前になった。という描写があります。
その後、義経軍が勝ち平氏は滅びました。
「平家物語」は軍記物なのでどこまで信憑性があるかわかりませんが。
「吾妻鏡」では景時は、義経が手柄を自慢して傲慢なこと。武士たちは不安に思っていること。景時が意見しても義経は聞かず、逆に怒ることなどが書かれています。義経と景時の関係はよくなかったようです。
景時だけでなく他の武将たちも義経の行いには不満だったらしく。結局、義経は頼朝の怒りをかって鎌倉に入れず京に追い返されました。
文治5年(1189年)。義経は奥州で藤原泰衡に討たれました。義経の首は鎌倉へ送られると、景時と和田義盛が首検分しました。
建久3年(1192年)。景時は侍所別当になりました。和田義盛が侍所別当でしたが、景時が1日だけでいいから譲ってくれと言って譲ったら、そのまま景時が侍所別当の地位を奪ったというのです。侍所別当は鎌倉武士たちを監視する重要な役目でした。
経緯には不自然なところもありますが。和田義盛の代わりに梶原景時がその役目になったのは、和田義盛たちにとっては許せなかったようです。
ますます存在感が高まる頼家時代
正治元年(1199年)正月。源頼朝が死去。景時は引き続き宿老として二代将軍・源頼家の補佐をしました。
頼家は頼朝の路線を引き継いで鎌倉殿が強い権限を持つ武家社会を目指しました。有能な景時は頼家から頼りにされ、景時の地位はますます高くなります。
景時は頼家の乳母夫も務めていました。頼家が景時を頼れば頼るほど、同じ頼家の乳母夫を務める比企家には面白くありません。
4月。鎌倉武士団は頼家の独裁を阻止しようとして、頼家の失政を理由に十三人の合議制を始めました。梶原景時もその一員になりました。
梶原景時の最期
「吾妻鏡」によると。源頼朝の死後。結城朝光は頼朝の死後、問題の起きる鎌倉武士に嫌気がして「忠臣は二君に仕えずというから、故将軍が亡くなったときに出家しておけばよかった。今の今となっては残念だ」と言ったのが、梶原景時に伝わりました。
阿波局が結城朝光に「景時は怒って将軍に報告した。あなたは討たれることになっている」と報告。それを信じた結城朝光は三浦義村たちに相談。激怒した御家人達66人は連判状を書いて源頼家に提出しました。
御家人たちには普段から景時への不満がありました。
それを受け取った頼家は景時をかばいきれませんでした。頼家は景時に連判状を渡して幕府から追放。景時は言い訳せず一族とともに所領の相模国一ノ宮の館に退きました。
ところが景時は領内で謹慎していましたが。「景時が謀反を起こそうとしている」と噂が立ってしまいます。幕府は景時追討のための軍を派遣しました。
正治2年(1200年)正月。景時は一族を率いて相模国一ノ宮を脱出。京都に向かいました。
ところが途中の駿河国清見関で吉川友兼たち武士たちと戦いになり、嫡男・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時は近くの西奈の山上で自害しました。一族33人も討ち死にしました。
悪役になった梶原景時
梶原景時は「吾妻鏡」では、頼朝、頼家に使え横暴になり人々から恨まれたと書かれています。義経とも対立したことから義経の物語でも悪役になっています。
景時は御家人を監視するという役目上、どうしても御家人たちから恨まれやすい立場でした。景時は頼朝、頼家に使え任務を忠実に果たそうとしましたが、ゆうずうのきかない景時は御家人たちから恨まれました。
京都の文化にも通じて頭の良い景時は坂東武者の体育会系の雰囲気には馴染まなかったのかもしれません。
また。景時の失脚には頼家派と実朝派の対立があったとも言われます。阿波局は北条時政の娘ですし、実朝を次の将軍にしようとする北条家が、御家人にくすぶる景時嫌いな想いを利用して景時の追い落としを画策したのかもしれません。
また頼家派の中でも景時と比企家の対立もありました。比企家は景時の弾劾に参加しました。
結局、孤立した景時を頼家は救うことができず。景時を追放することで解決しようとしたようです。
景時が本当に謀反を起こそうとしてのかはわかりません。景時は土御門通親や徳大寺家と繋がりがあります。京都に逃れて朝廷に支えようとしていたのかもしれません。
ドラマ
草燃える(1979年・NHK大河ドラマ) 演:江原真二郎
武蔵坊弁慶(1986年・NHK) 演:石田太郎
源義経(1990年・TBS) 演:綿引勝彦
義経(2005年・NHK大河ドラマ) 演:中尾彬
鎌倉殿の13人(2022年・NHK大河ドラマ) 演:中村獅童
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